#050 Drawing a diagram
ジムカーナ競技会の朝、僕は祐未さんを部屋に残し、まだ薄暗い時間に家を出た。
こんなに早い時間に行かなければならない理由が僕にはわからなかったが、「六時半に会社に集合」という社長の命令だったから仕方がない。
どこか腑に落ちない気持ちを抱えながらも、僕はアクセルを強く踏み込んだ。
競技会に参加する――。
そのことを祐未さんに報告するのは簡単なことではなかった。
彼女は僕がクルマを走らせることをいまだに快く思っていないフシがあった。それは僕が「通勤以外で一人でクルマに乗ること」を意図的に阻止しようとしているみたいに思えるほどで……。
だから本当なら黙っておきたかった。
余計な不安を抱かせたくなかったし、もし彼女に「走る理由」を問われたとしても、いまの僕は明確な答えなど持ち合わせていなかったし。
隠し通せるものなら隠しておきたかったが、昨夜から泊まりに来ていた祐未さんにバレずに休日出勤するのは無理があった。
僕は意を決して彼女に伝えた。ふと僕の中に浮かんだ「なぜそこまでしてジムカーナに行こうとしているのだろう」という身も蓋もない疑問には気付かないふりをして。
しかし……
「へえ、いいじゃない」
彼女は間髪入れずにそう言った。
それはなかなか言い出せなかった僕が「間抜け」に思えるくらいにあっさりとした反応だった。
僕が走ることについて彼女がいい印象を持っていないのは間違いがない。現に一弥君も、祐未さんに怒られるからと言って「クルマをキズつけること」に関しては神経を使っていたくらいだし。
そんな祐未さんが「競技会に参加する」と言った僕に向かって言った「いいじゃない」という言葉……僕はそれをどう捉えるべきなのか頭を悩ませた。
怒りを通り越して呆れているのか、それともあくまで他人事として考えているのか――。
「今度見に行ってみようかな――」
彼女が独り言のように呟いた言葉を、僕は不思議な気持ちで聞いていた。
第一京浜の上り線はガラガラに空いていた。
川崎駅前を通過したのは予定していたより一〇分くらい早い時間だった。
僕は都県境の橋を渡って最初に目に入ったコンビニに立ち寄った。
そこでタマゴサンドと紙パックのカフェオレを買うと、時間調整の意味もあってその場で朝食をとった。
タマゴサンドは不味くはなかった。しかし薄い生地のパンは、ぱさついていて口の中に貼り付いた。
僕は口の中の不快な感触を、甘いカフェオレで腹の奥へと流し込んだ。
***
BEAR'S Auto Serviceの駐車場兼置場にクルマを乗り入れたのは、僕が当初に予定していた時刻ちょうどだった。
しかし祐二のRX-7はそこにはなかった。まあいつものことだから驚きはしないが。
僕は助手席に置いたフルフェイスのヘルメットを抱えると、通りへと歩き出した。
熊沢はすでに来ているみたいだった。
シャッターの下りた工場の前には積載車が停まり、既にCR-Xが積み込まれていた。そして店の前には赤いZと、見覚えのないレガシーがあった。
レガシーに乗ってる人なんていたっけ――。
僕はレガシーを横目に見ながら事務所のドアを開けた。
「――二分遅刻だ」
熊沢は顔を合わせると同時にそう言った。
しかし、僕の時計は六時二〇分を少し回ったところを指している。
「……六時半集合、ですよね?」
僕は熊沢を覗った。
「馬鹿野郎。こういうときは一〇分前には来るもんだろ」
なあ――。
熊沢は口元を弛めてそう言うと、後ろを振り返った。
後ろにいた吉井はナニも言わずに大きく頷いた。
「だいたいオレより遅いってのはどういうことだ? 下っ端なんだから一番早く来て準備をしておくとかよ――」
熊沢はグダグダと小言を続けた。
相変わらずの小姑ぶりに、僕は思わずため息を吐いた。
「お。ようやく来たか」
声に振り返ると、伊豆見がジーンズのファスナーを上げながら歩いてくるところだった。
「あれ? 祐二は一緒じゃないのか」
伊豆見は周囲を見渡すような仕草を見せた。
僕は首を横に振った。そして「あいつは時計を持たないタイプなんで」と告げると、伊豆見は苦笑いを浮かべた。
早朝のBEAR'S Auto Serviceには、熊沢の他に吉井と伊豆見が来ていた。
レガシーは伊豆見のクルマらしい。
伊豆見に会うのは半年ぶりくらいだったが、ゴリラのような風貌は相変わらずだった。
「ジムカーナは初めてか?」
伊豆見が僕に笑いかけてきた。
僕は首を振り、今日で三回目だと言った。もっとも一回目と二回目の間には一年くらいのブランクがあった。だから僕は「とは言っても初めてみたいなものです」と柄にもなく謙遜して言った。
すると伊豆見は「ジムカーナっつうのはな――」と講釈を垂れはじめた……。
伊豆見の話によれば、彼のジムカーナ歴は非常に長いらしい。過去にはJAF主催の地方大会で入賞した経験もあるのだとか……まあ、今日は見学らしいが。
「まあよ、わからないことがあったら何でも聞いてくれや」
伊豆見はそう言って指先で鼻のアタマを掻いた。
一見すると狂暴そうな雰囲気を持つ伊豆見だったが、実は気の優しい男だというコトを僕は知っていた。ゴリラの種類だとも知らずに「ローランド」などと呼ばれて喜んでいる姿も微笑ましい。
寧ろ吉井の方がヤバい男だった。
吉井って奴はぽっちゃりとした男で、ガタイはいいが優しそうな雰囲気をまとっている。
しかし、一度だけ話してくれた彼の過去……。
そのとき肩越しから見せてくれたカラフルな背中の模様は、僕の目に焼き付いて離れてくれない。
そしてその吉井をアゴで使う熊沢と言う男――。
彼こそが一番ヤバい男だというのは疑いようがない。見た目にも堅気にはみえないし。
ま……とは言っても、僕にしてみれば「ただの小姑」だとしか言いようがないのも事実だが……ん?
なんだか外がバタバタと騒がしい。
僕は窓の外に目を向けた。それとほぼ同時に入口のドアが勢いよく開いた。
「――スイマセン!! 遅くなりました!!」
祐二が息を切らして飛び込んできた。
彼が到着したのは、集合時間を五分ほど過ぎた頃だった。
祐二が到着すると、熊沢から今日の競技会の「参加受理書」を手渡された。
受理書によればゲートオープンは七時、ドライバーズブリーフィングは九時となっていた。
「じゃ、そろそろ行くか」
オレの後ろについて来い――。
熊沢はそう言うと、吉井の助手席に乗り込んだ。
やはりレガシーは伊豆見のクルマだった。
そして僕と祐二は積載車に乗り込み、レガシーの後ろに続いた。
ジムカーナの会場は熊沢の店からそれほど離れていないところにあった。
江東区内のガス会社の敷地にあるアスファルト敷きの広場。そこにパイロンを並べてあるだけだった。
今日の競技会は、熊沢の知り合いのショップが主催する大会だった。
ノーマル吸排気系の前輪駆動車のレギュラータイヤクラスでB車両規定……つまり車検に通る車であれば基本的にOK。
シード制限があるらしいから、モータースポーツと言うには底辺すぎるメンツが集まっている可能性は高い。
そして僕と祐二は、前回と同じくCR-Xでのダブルエントリーだった。
パドックでは参加者たちがクルマに積んであった荷物を下ろしていた。
車載工具やスペアタイヤなど、取りあえず走ることには必要のないと思われるモノをクルマから下ろしている。
その点、CR-Xは楽だった。
普段は使ってないクルマだから荷物なんて何もないし、スペアタイヤすら積んでない。
ふと隣にいるAE92レビンが目に入った。
参加者と思しき小柄な男は、トランクから次々と荷物を下ろしている。
その大荷物を見て、僕は微かに首を傾げた。
なんでそんなに荷物を積んできてしまったんだ、家に置いてくればよかったんじゃないか、と。
少なくとも荷物に混じったコールマンのバーベキューコンロは違和感がありすぎるように思う。
まあ、周りを見渡した限りでは、「底辺の競技会」という僕の想像もあながち外れではないみたいだ。
「おい――」
振り返ると熊沢が僕と祐二を手招きしていた。
「オマエら早く受付済ませて来いよ」
彼はそう言って受付を親指でさした。
受付で参加受理書と免許証、そしてライセンスを提示し、コース図とゼッケンとプログラムを受け取る。
そしてパドックに戻ると、CR-Xを積載車から下ろし、車体の側面にゼッケンを二枚並べて張り付けた。僕のゼッケンは「62」、祐二は「64」だった。
「おれ、コレが苦手なんだよな……」
祐二が囁くように言った。
彼はさっき受け取ったコース図に目を落としていた。
公式の車両検査を済ますとコース図を手にしたまま競技コースに出た。
この走行前の慣熟歩行は、コースをアタマにたたき込むのと同時にコース攻略のための重要な作業でもある。
僕は祐二と並んで歩きながら、頭のなかでドライビングをシミュレーションする。
スタートしてはじめのストレート。距離的には短いから二速に入れるかどうか微妙な感じだ。
一個目のコーナーは遠目から一気に寄せるイメージか――。
パイロンに近付き過ぎると、次の細かいスラロームへの入りがキツくなりそうな気がする。
で、一番遠いパイロンはフルブレーキングとサイドブレーキを引いてターンを決めて……僕は頭の中で画を描いていった。イメージ的にはシフトノブよりサイドブレーキを握っている時間の方が長くなるような気がする。
そして……路面の状態は思ってた以上に悪い。こうして歩いてみると、数多くの凹凸があることに気付く……タイヤへの負担は意外と大きいかもしれない。
一台のクルマをシェアする「ダブルエントリー」の僕らとしては一番気を付けなければいけない点だったが……まあ、ノーマルタイヤだし、真夏じゃないから問題ないか。
でも念のため、サイドターンの多用は避けておいた方がいいかもしれない。
「なあ、ココの進入はさ――」
そう言いかけて、言葉を切った。
「……どうかしたのか?」隣を歩く祐二を窺った。
彼は青い顔をしていた。
祐二は僅かに顔を上げると「やばい。コースが全然アタマに入って来ねえ……」と引きつった顔でそう言った。




