#048 Bottom Dead Center
午後一番でソアラの試運転に出ていた。
山田が昼休みを返上して仕上げたソアラを駆り、湾岸線から東関道へと走らせ酒々井パーキングまでやってきていた。
僕はエンジンを掛けたままクルマを降りると、低い排気音を響かせるソアラを眺めた。
このソアラにはつい数日前にも試運転で乗っていた。湾岸線を大井まで走らせていたのだが……今日のソアラはあのときとはまるで違っていた。
踏み込んだときのレスポンスは以前より良くなっている気がしたし、低速時に感じていた物足りなさも解消されている。そしてなにより高速での加速感は――
「――どうよ?」
不意に背後から聞こえてきた声……振り返るとソコには熊沢が立っていた。
便所から戻ってきた熊沢はいつものように両手に缶コーヒーを持っていた。
「ありがとうございます」
僕は丁重に頭を下げ、彼の手から缶コーヒーを受け取った。
そしてプルタブを引き起こすと敢えてソアラから目を逸らした。僕の興味の対象を熊沢に悟られるのはなんとなく面倒なコトのような気がしていた。
パーキングに大型バスが入って来るのが見えた。
成田空港に向かうリムジンバスのようだ。
ソアラから少し離れたところに止まったバスからは、これから海外に行くのだろうと思われる人たちがあふれ出てきた。
そういえば久しく海外には行ってない。最後に行ったのは中学のときだ。
と言うより最近は「海外」どころか「旅行」と呼べるものに行った記憶がない。特にここ数年はまったくないと言ってもいい。
今度、祐未さんを誘ってどこかの国に行ってみようかな――。
ふと、そんなことを思った。
いまの僕に「行きたい場所」なんて思い浮かぶものは何もなかったが、彼女が行きたいと思うところであればドコでもよかった。
現実を忘れて二人でのんびりと過ごすのもきっと悪くないはず――
「――全然違うだろ?」
声に振り返ると熊沢がソアラを顎でさしていた。
「このあいだとはまるで別物だろ?」
そう言った彼の顔には意味ありげな笑みがこびりついていた……ちょっと鬱陶しいくらいの笑みだ。
僕は何の感情も込めずに「そうですね」呟くと、熊沢から目を逸らし、何もなかったかのように缶に口を付けた。
「え? おいおい、それだけかよ――」
熊沢は大袈裟に両手を広げた。そして「なんか感想とかはないのか?」と苛立ったような声で言ったが、僕は黙ったまま首を右に傾けた。
酒々井パーキングを出て、富里方面に向かった。
シフトはドライブに固定したままアクセルペダルを強く踏み込む。
デジタルメーターのゲージが跳ね上がり、ソアラは軽やかな加速を見せる。
このソアラの走りは、僕がいままで乗ってきたソアラとは明らかに違うモノだった。
それは馬力とかそう言う問題ではなく、走りのフィーリングそのものが僕の知るソアラとは次元が違っていた。
「成田の分岐を過ぎたら、大栄までは200km/h巡行で――」
「了解です」
僕は熊沢の指示に従い、徐々に速度を上げていった。
本来ならリミッターの効く速度に迫っていたが、このクルマにとっては単なる通過点に過ぎない。
遙か前方を走るクルマが成田方面にウインカーを灯すのを確認すると、僕はさらにアクセルを踏み込んだ。
ソアラのスピードメーターはあっさりとノーマル時の限界点を超えた。
「どうよ?」
熊沢が呟いた。
僕は前を見たまま、心の中で首を傾げた。
いつも思うことだったのだが、彼の台詞には主語がない。
それに全体的に端折り過ぎていて、何をどう答えたらいいのかわからなくて困ることがある。
「……なにがですか?」
僕は仕方なく、前方を凝視したまま首を傾げた。さすがにこの速度で視線を切るのは恐怖感がある。
「はあ? なにがですか、はねえだろよ」
熊沢は怪訝そうな声で言った。
「なにも感じねえのかよ、このスピードに? だいたいおまえって奴は普段から――」
「ああ……確かに速いですね」
敢えて淡々とした調子でクドクドと喋る熊沢を遮った。
そして「ゾクゾクするくらい……ですね」と言葉を続けた。
それが僕が感じたストレートな印象だった。
「……だろ? 怖いくらいの速さだ」
「ですね……」
僕は小さく頷いた。
スピードに関してはある程度の免疫ができてると思い込んでいたが、さっきからほんの僅かではあったが背筋に緊張が走るのに気付いていた。走行車線を行くクルマの微かな挙動にも過敏に反応する自分に、若干の驚きを感じていた。
スピードに対する恐怖。それを感じたのはいつ以来だろう――。
思い返してはみたが、たぶん単車に乗ってた頃まで記憶を遡る必要がありそうで断念した。
「じゃ、次でいったん下りるか」
佐原香取だな――。
「了解です――」
熊沢の声に頷いた僕はアクセルに乗せた右足のチカラを抜いた。
デジタルメーターのスピード表示が、まるでカウントダウンをするかのようにみるみる小さくなっていく。
そして窓の外を流れる景色がだんだんと緩やかになっていく――。
僕はウインカーを灯すと、左車線へと移った。
佐原香取インターチェンジで下りた僕らは、そのままUターンして上り車線に入った。
本線に合流すると右車線に移り、アクセルを軽く踏み込んだ。
ソアラはストレスのない立ち上がりでぐいぐいと加速していく――。
「いまのクルマは肝心な部分は電子制御だからな」
まったく嫌になる――。
熊沢が独り言のように呟いた。
僕は助手席を窺ったが、熊沢は「危ねえから前を見ろ」と前方を指さした。
そして「ココからは安全運転で頼むわ」とだけ告げると徐にシートを倒した。
「湾岸線に入ったら起こしてくれ」
熊沢はそう呟くと、間髪入れずに寝息が聞こえてきた。
なんなんだよ、この人――。
僕は口元が引きつるのを感じた。
彼が試運転についてくる意味……僕にはそれがどうしても理解できなかった。
***
事務所を出たのは九時半になる少し前だった。
入社する前は「定時は五時半」と聞いていたのだが、五時半に帰ることができたのはたぶん数えるほどしかない。
いつか絶対「労働基準監督署」に訴えてやろうと思っているが、いまはまだその時ではないような気がしている。
店先の自販機でコーヒーを買うと、通りを塩浜方面に向って歩く。
二十メートルほど行った先を入ると狭い小さな砂利敷きの空き地がある。
そこは熊沢の店の社員駐車場兼ガラクタ置き場になっていた。
僕はカローラFXに半身で乗り込むと、ドアを開けたままエンジンを掛けた。
ドコからともなく「耳鳴り」のように聞こえ続けるモーターの音に紛れ、カローラFXの軽い排気音が響く。
僕は左足でアクセルペダルを煽った。
いくら暖機をしていても誰も文句を言わない環境……この場所のいいところはそれだけだと思う。
エンジンの回転数が安定してきたところで、僕はドアを閉めて四点式のシートベルトで身体をシートに括り付けた。
そして窓を少しだけ窓を開けると、ギヤを一速に入れ、ゆっくりとクラッチをつないだ。
三ツ目通りを北に向かい、木場の交差点を左折して永代通りに入る。
殺風景な人工島を脱出してこの道に入ると、僕はなんとなくほっとした気持ちになる。
はっきりとした理由はわからないが、いつもココを通るたびに同じようなコトを考えている。
それにしても――。
僕はカローラFXの貧相なインパネまわりを眺めた。
さっきまでのソアラと比べるのはどうかと思ったが、あまりにも落差が激しいような気がする。
僕は乱暴にアクセルを煽ってみた。
1600ccのツインカムエンジンは軽い吹け上がりを見せたが、思っていたような昂揚感は得られなかった。
そして……僕はさっきから今日の試運転を振り返っていた。
痺れるような高速走行で感じた前回とのフィーリングの違い。
熊沢はそれをロムによるものだと言った。あの小さな欠片がクルマの持つポテンシャルを最大限に引き出してくれるのだ、と。
そして、いくらターボを組んだりマフラーを換えたりしても、コンピューターに手を入れなければ能力を引き出せないし、却ってクルマ自体の寿命を縮めることになるのだ、と熊沢は少し寂しそうに言った。
そのロムの書き換えにおいて、松井清和という男はソコソコ有名なんだそうだが……。
熊沢にそう聞かされても、僕としてはピンと来なかった。
松井という男と知り合ってから五年以上経ったと思うが、奴がクルマを弄ることはほとんどなかったように思う。
一応整備士の資格は持っているという話だったが、やってることと言えばオーディオやなんかの電装系の取り付けや修理だけだったハズだし。
そんな男が世のチューナーたちに重宝される存在だと言うことに「納得がいかない」というより、怒りに似た感情が沸いてくる。たぶん僕は本当にアイツが嫌いだと言うことなのだろう。
隅田川の橋を過ぎ、茅場町を左に折れて新大橋通りに入った。
この先、汐留のあたりで海岸通りに合流するのだが……。
僕はふと天使のことを思い出した。
彼女が現れるのは都心環状線の浜崎橋から江戸橋のあいだ……たぶんこのあたりから首都高速に乗ることもあるのだろう。
僕は久しく首都高を走っていない。最後に走ったのは天使にニアミスしたあの夜だった。
そういえば、あのときはまだAA63に乗っていたんだっけ……。
カローラFXは築地会館を過ぎようとしていた。
対向する車線に車はなかった。ミラーを覗くとソコには後続車の姿もない――。
そう思ったときにはブレーキを強く踏み込んでいた。
前輪がロックしテールが若干左に流れたが、構わずステアリングを右に切ると、カローラFXは車体を揺らしながらターンを決め、交差点を過ぎたところで逆向きに停止した。
交差点は右折禁止だったみたいだが……Uターンだからまあいいだろう。
僕はそのまま銀座から首都高速に乗った。
微かな緊張感を抱えながら緩い勾配を駆けあがる――。
しかし……合流した瞬間に僕は後悔した。
視界に飛び込んできたのは赤いテールランプの長い長い列だった……。




