#047 速さと巧さ
月曜日、いつもより少しだけ早く家を出た。
ガス山通りの坂道を下りきると、本牧通りに出る信号はちょうど青に変わったところだった。
僕はブレーキに乗せかけた右足をアクセルに戻して軽く煽り、いつもなら左折する信号を加速しながら直進した。
やがて現れた見晴トンネルを抜けると、目の前に現れた大通りの信号も青だった。
僕は再びアクセルペダルを踏み込んで交差点を突っ切ると、その先の「新山下」から首都高速狩場線に乗った。
家を出てからココまで、一度も止まることなく首都高速に乗ることができた。
普段の僕なら単純に「ツイてる」と喜んでたはずだが、パインモータースに向かっている今日だけは少し複雑だった。
週のはじまりのこの日に、なぜ松井の顔を見なければならないのか――。
それを考えると釈然としない気持ちになるが、それについては深く考えないようにした。
金港ジャンクションから首都高速三ツ沢線を経由して第三京浜に入った。
月曜日の通勤時間帯と言うこともあって交通量は多い。しかしクルマの流れはスムーズだった。
第三京浜を港北で下り、仲町台方面に向う。
そこから港北ニュータウンを掠めて北に向えば、そのうち松井清和の実家・パインモータースの看板が出てくるはずだった。
この分だと予定していたよりずいぶん早く松井清和の顔を拝むことになりそうで……それが何となく気分を重いモノにしていた。
***
「――まさか北条君が熊沢さんのところにいるとはね」
久しぶりに会った松井清和は上機嫌だった。
その表情は、僕のAA63に追突したことなど既に遠い過去のコトとして葬ってしまったようにも見えて、さらに僕を苛立たせた。
「そんなことはどうでもいいんだが――」
僕は松井の背後を覗った。
奴はその視線に気付き「ああ、そうだった」とワザとらしく声を上げると、僕に背を向け工場の奥に消えた。
一人残された僕は工場内を見渡した。
パインモータースに足を運んだのは久しぶりだったが、工場は相変わらず活況だった。
顔見知りの従業員の姿もあったが、軽く手を挙げて挨拶をする程度で、とても立ち止まって話し込んでいられる状況にはなさそだうだった。
ただ、ココに入庫しているクルマ……客層は熊沢のところとはまったく違うようだ。熊沢の店には間違っても軽トラが入庫されることなどないだろうし。
「お待たせ――」
しばらくして松井が戻ってきた。
その歩き方がオカマっぽく見えて、俄に殺意が芽生えた僕だったが、爪が食い込むほどに掌を握りしめ、ギリギリのところでなんとか堪えた。
そんな僕の心の内を知らない松井は「これが熊沢さんから頼まれたモノ」と笑った。その手には小さな箱があった。
松井から手渡された箱……中身が入っていないんじゃないかというくらいに軽い。
「一応、精密機器だから取り扱いは注意してね」
松井の声に無言のまま小さく頷くと、僕は箱に目を落とした。
厚さは二センチくらい、大きさはハガキくらいの紙製の箱……重量感に乏しいその箱には何も印刷はされていない。こうしてみる限り、めぼしい情報は一切見当たらなかった。
「なんなの、これ……?」
僕は箱を翳してみた。
「ロムだよ」
「ロム……?」
松井の言葉を反芻しながら箱に目を落とした。
「ま、エンジンが心臓なら、そいつはココかな」
顔を上げると松井が頭を指さしていた。
いつかの熊沢と同じポーズをきめた"したり顔のオカマ"――。
その瞬間、さっきの殺意が蘇った。
気付いたときには、僕は松井の太腿に蹴りを入れていた。
***
パインモータースを出た僕は、中原街道から目黒通りへと抜け、白金のあたりで国道一号線に合流した。
都心の道路は予想していたとおり混雑していた。
いつもなら知る限りの裏道を駆使して「いちばん時間のかからないルート」を選択するのだが、今日に限っては渋滞にどっぷりと嵌ったままでいようと思った。
僕……いや「ロム」の到着を首を長くして待ってるに違いない熊沢に対するせめてもの抵抗のつもりで――。
しかし渋滞に嵌りながらも、昼になる前には熊沢の店に到着していた。
「――お。いま来たのか」
カローラFXのドアを開けたとたんにそんな声が聞こえた。
声の方を振り返ると、そこに立っていたのは宇野だった。珍しくスーツを着込んでいた。
「どうも……おはようござい――」
「重役みてえだな、おい」
宇野は僕の挨拶を遮って茶化すように笑うと長い髪を掻き上げた。
「朝イチで寄るところがあったんで」
僕はロムの入った箱を掲げた。
そして「カローラFXに乗ってる重役はいませんよ」と鼻で笑った。
彼はカローラFXを一瞥すると「ま、確かに――」と、妙に納得したような表情で頷いた。
宇野はよくこの店にやってくる。
だけど午前中に来ることはほとんどない。熊沢の話では「極端に朝が弱い」というのが理由らしい。
熊沢とは数年来の付き合いらしいが、僕はそれほど親しくない。ココで働くようになってから顔をあわせること自体は増えたが、話をすることは滅多になかった。それについては、僕の方が「意図的に避けていた」とも言えたのだが。
白いBMWのM3に乗る自称・青年実業家――。
遊び人然とした風貌と相俟って、僕の目には彼の何もかもがアヤシク映っていた。
しかも何の仕事をしているのか詳しくは知らない。
一応、中古車の買取・販売なんかもしているらしい。しかしそれすらも「本業ではない」と彼は言っていたし。
「ああ、そうだ」
BMWに乗り込もうとしていた宇野が僕を振り返った。
「あれって急いでるのか――」。
あれ――。
すっかり話題に出ないからもう忘れてしまったのだろうと思っていたのだが……どうやら宇野は「僕のお願い」を憶えていてくれたらしい。
「いえ、べつに急いではいないですけど――」
僕はそう言うと「コイツの車検が切れる前であれば」とカローラFXを親指でさした。
宇野はフロントガラスを覗き込んだ。
「一月、か――」
彼は独り言のように呟くと思案するように目を閉じた。
そしてしばらくしてから何度か頷くと、「OK。なんとかすんわ」と言い残し、BMWに体を滑り込ませた。
駐車場を出ていくBMWを見送ってから事務所に顔を出すと、熊沢は接客席で足を組んで新聞を広げていた。
「おう。やっと来やがったか」
待ちくたびれちまったぞ――。
熊沢は開口一番そう宣うと、新聞を乱暴に折りたたんで勢いをつけて立ち上がり、こちらに向かって足を踏み出してきた。
「ちゃんと"お使い"はできたか?」
熊沢は挑発するようにそう言ったが、いちいち相手にはしていられない。
僕は熊沢の鼻先に箱を突き出し「取扱い注意、だそうです」と抑揚のない声で言った。
「わかってるさ」
熊沢は箱を掴むと僕の横をすり抜け、「山田あ!」と工場に向かって叫んだ。
そしてそのまま事務所を出て工場に行ってしまった。
まったく……他人をムカつかせることにかけては超一流だな――。
僕は熊沢の後姿を見ながら心の中で何度も首を傾げた。
よくあんな人の下でみんな我慢できてるよな――。
そんなことを考えながら振り返ると、そこには経理の松本さんの姿があった。
彼女は相変わらず気配を消したようにして机に向かっていた。
たぶんああいう自己主張の強くない人じゃないと熊沢と一緒に仕事なんかできっこない……ん?
あれ……?
ふと見渡した事務所内は思ったより片付いている気がした。
土曜日に帰るときには満杯になっていた接客席の灰皿も、いまは吸殻が数えるほどしかない。
どうやら掃除は誰かがやってくれたらしいが……
「松本さん。今日は誰が掃除を?」
彼女は眼鏡の縁を持ち上げながら顔を上げると、無表情のまま僕の背後を指さした。
「おれだ。文句あるか」
振り返ると熊沢が立っていた。
熊沢は僕の横をすり抜け、接客席のソファに腰を下ろした。
そして「きれいに片づいてるだろ? いつもよりずっと」と口元に嫌みな笑みを浮かべた。
だったら毎日自分で掃除しろよ――。
僕は喉元まで出かかったそんな言葉を呑み込んだ。
しかし熊沢の言うとおり、事務所内はいつもよりもきれいに片づいているように見えた。
以外と几帳面な彼の一面を垣間見た気がして、何となく嫌な気分になった。
「そんなことよりよ――」
再び新聞を広げた熊沢が僕を窺った。「おまえ、スープラ探してるのか?」。
さっそく来たか――。
僕は思わず口元を弛めた。
宇野に相談した時点で熊沢の耳に入るのは時間の問題だと思っていたから驚きはなかった。
「あんまり期待できない感じでしたけどね」
タマが少ないらしくって――。
「まあな。でもターボSとかならいくらでもあるだろ」
「まあ、そうなんですけど――」
僕は言いかけて口を噤んだ。
確かに熊沢の言うとおり3000の「ターボS」もしくは「ターボリミテッド」なら出回ってる台数も多いとは思う。
しかし僕が宇野に頼んだのは500台限定の「ターボA」――。
もともとの絶対数が少ないだけに宇野も苦戦しているようだった。
おそらく熊沢としては、廉価モデルのターボSあたりを買ってきてターボA仕様に改造すればいいと考えてるハズだった。
だけどそれはやっぱり気が向かない。それでいいのなら、はじめからターボAには拘っていない……だけどこの話をはじめると、お互いに熱くなってきっと長話になる――。
「――もう少し待ってみます。まだ時間もありますし」
僕は熊沢の気を逸らすように、敢えて気のない素振りで言葉を返した。
程なく正午になり、昼休みに入った。
僕は熊沢に連れられ、近くにある食堂に向かっていた。
さっき出社したばかりの僕としては、いきなり昼飯ということに若干の抵抗があったが、熊沢は「そんなこと気にするタイプなのか?」と不思議そうな目で僕を見た。
「あ、そうだ。今度の日曜、空けておけよ」
不意に前を歩く熊沢が僕を振り返った。「ジムカーナだからな。祐二君にはもう言ってあるが」
僕はため息を吐いた。
ジムカーナには興味がないと何度も言ってるのに……。
「以前にも言いましたけど、ジムカーナにはまったく――」
「まあそう言うな」
熊沢は僕の言葉を遮って笑うと「おまえと祐二君には期待してるんだ」と続けた。
「いや……それはどうでもいいんですけど――」
僕はため息まじりに首を傾げた。
「ジムカーナをやりたい奴なら他にもいると思いますけど」
たぶん富井や湊なら喜んで参加するだろうし。
「誰でもいいってわけじゃない。仮にもウチのカンバン背負って参加さすわけだからな」
無様を晒すわけにはいかないだろ――。
熊沢は戯けた声で言った。
「だったら祐二ひとりでもいいんじゃないですか? なんで僕まで……」
僕は呆れたように首を捻った。
「それは、おまえが他人より少しだけ速く走れるからに決まってるだろ」
熊沢は「少しだけ」を強調するように言った。
「おれも仕事柄、上手い走りをする奴ならいくらでも知ってる。だが速く走れる奴となるとコレがなかなか……」
そう言って熊沢は空を仰いだ。
「とは言ってもおまえの現在の走りはジムカーナでは通用しない。ジムカーナで勝てる奴は速い奴じゃない、上手い奴だ」
だからこそ、ソコにはおまえが学ぶべきことがある――。
「学ぶこと……ですか」
僕は腑に落ちない気持ちで呟いた。
熊沢の言わんとしていることはわかるが、僕にとって「走る」ということはもっと自由なモノだった。だからいまさら何かを学ぶつもりはないし、窮屈な考えに囚われることもしたくなかった。
もし僕が本当に速いのだとしても、それは誰かを追いかけるうちに自然に身に付いた、言ってみれば「誰かの真似」に過ぎないものだった。だから当然「オリジナルの速さ」には敵わないとも言えるのだけど――。
「ま、取りあえずレースってのは何かとカネがかかるもんだしよ」
熊沢は自嘲気味に呟いた。
「手っ取り早くスポンサーをとっつかまえるためだと思って割り切れや」
生憎おれの友人には無尽蔵にカネを出してくれる奴はいねえしな――。
そう言って口元を弛めた。




