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#046 Catharsis

「――はあ……。いえ、わかりました……」

 僕は受話器を置くと大きく息を吐いた。

 壁の時計は十一時を指していた。

 土曜日のこんな時間に電話をかけてくる人なんて限られている。飛びつくようにして受話器を掴んだ僕の耳に飛び込んできたのは予想に反した低い声だった。

 期待していた電話ではなかったというだけでテンションは下がっていたのだが、その電話の相手が熊沢だということが余計に僕の気分を下げた。

 しかも用件が「月曜日の朝、パインモータースに寄ってから来てくれ」と――。

 なんだか知らないが「頼んでいたものが出来上がった」ということらしいが、僕は松井には会いたくなかった。

 しかしそれを熊沢に告げることは躊躇われた。

 熊沢の性格からすれば、きっと面白がって松井を僕に近づけようとするハズで……そうなったらまた職を失うことになるのだろうということは容易に想像ができた。


 僕はキッチンに向かった。

 冷蔵庫を開け、冷やしておいたロックグラス取り出して氷を入れると、テーブルにあったCLEMENTINEの封を切り、なみなみと注いだ。

 つい数ヶ月前まで僕には酒を飲む習慣などなかった。

 だけどいつのまにか酒の嗜好まで父に似てきたようで気が滅入る。しかも心地いい酔いが回ってくる気配はなく、それがまた僕を不快な気分にさせていた。

 僕はキッチンの横の窓を開け、窓際のスツールに腰掛けた。

 気象庁の予報通り今年は残暑が厳しく、九月に入った今でもまだまだ暑い日が続いている。しかし窓から入り込む涼やかな空気だけは、季節がすでに秋を迎えていることを自覚させてくれるようだった。

 祐未さんのいない夜、僕はこうして飽きることなく遠くに揺れる夜景を眺めながらグラスを傾けている。

 べつにそれが楽しいわけではないが、あまりに静かすぎて他にやることが思い浮かばなかった。

 彼女のいないこの部屋は、時を刻む秒針と時々冷蔵庫から漏れるサーモスタットの切り替わる音くらいしかしない。彼女がいない夜は静かで、そして長過ぎた。

 その祐未さんは以前よりも頻繁に僕の元を訪れるようになっていた。いまでは来ない日の方が珍しいくらいに。

 まったりとした僕らの関係――。

 それが劇的に進展したのは夏も終わりに近づいた蒸し暑い夜だった。



***


「――いま、家にいる……?」


 祐未さんからそんな電話をもらったのは午後七時を回った頃だった。

 気がつくと、いつの間にかすっかり陽が落ちていた。

「いますけど……いまドコにいるんですか」

 僕は言いながら照明のスイッチに手を伸ばした。

「家よ。たったいま、帰ってきたの」

 祐未さんは言った。

 彼女は夏休みに入ってすぐに実家に帰省していた。

「帰りの電車が混んじゃって、ホントたいへんだったわ」

 聖志に迎えに来てもらえばよかった――。

 彼女は呑気な声でそう言うと「お土産を買ってきたのでいまから持っていく」と僕に口を挟む間を与えてくれずに一方的に電話を切った。


「ホント……勝手な人だな」

 僕は受話器を持ったままため息を吐いた。


 夏休みは実家に帰る――。

 祐未さんにそう聞かされたのは彼女が帰省する朝だった。

 彼女の休みに合わせて無理を言って連休をもらっていた僕としては「肩すかし」を食らったような気分だった。

 だけどいまさら「休みを返上したい」なんて口が裂けても言いたくない。

 結局、休みのあいだ僕はほとんど部屋から出なかった。

 したいことも、しなければならないこともなく、一日中ベッドの上に横たわっているか、たまにベッドを抜け出して買い置きしてあったバーボンを空けるか……いずれにしても窓を閉め切った蒸し暑い部屋で、昼も夜もない時間を貪っていた。

 そんなときに掛かってきた祐未さんの電話だから嬉しくないはずがなかったが、いま感情を露わにするのはよくないような気がしていた。

 退屈な休みのあいだ、鬱屈した感情をギリギリの緊張で飼い馴らしてきた僕としては、久しぶりに彼女に会ったからと言ってそれを開放するのはとても危険なことのように思っていた。


 そして一時間ほどして祐未さんはやってきた。右手に重そうな紙袋をぶら下げて――。

 

「――はい。おみやげ」

 祐未さんは紙袋を僕の方に差し出した。

 受け取った袋には日本酒の四号瓶が入っていた。

 ラベルの銘柄は僕でも知っているものだったが今まで口にしたことはない。

 もっとも僕には日本酒を飲む習慣はなかったから、祐未さんが自分で飲むために持ってきたのかもしれないが。


「それにしても――」

 声に顔を上げると、祐未さんは腰に手を当てて部屋を見回していた。

 彼女の言いたいことはだいたいわかった。彼女が最後に見たこの部屋の状態と現在いまとではだいぶ違っている……べつに模様替えをしたわけではなかったけど。

 やがて部屋を彷徨っていた彼女の視線がある一点で留まった。そこには僕が脱ぎ捨てた衣類が散乱していた。

「も~、子供じゃないんだから――」

 彼女はそう言ってしゃがみこむと、散らばった衣類をかき集めて洗面室へと消えた。

 僕は頭を掻いた。

 祐未さんが来る前に掃除をしておくべきだった。そういえばなんとなく部屋全体が酒臭いような気もするし……あ。

 僕は急いで寝室に向かった。

 酒のニオイという点においては、たぶんあの部屋が一番臭いはずで――


 あ~!!


 ダイニングの方から声がした。悲鳴とは少し違う祐未さんの声……。

 僕は窓のクレッシェンド錠に指を掛けたところだったが、鍵はそのままにダイニングへと引き返した。

 ダイニングに足を踏み入れると、祐未さんの小さな背中が見えた。

「ナニやってるんですか」

 僕の言葉に、彼女はゆっくり振り返った。

「あ゛……」

 思わず声が漏れた。

 振り向いた彼女の手にはクシャクシャになった白い塊があった。

「これナニ?」

 祐未さんは醒めた声でつまみ上げた塊……白い厚紙を顔の高さに掲げた。

「いや、なにって……」

 彼女が手にしていたは何日か前まではだった。さらにその数時間前まで遡ればソコにはチーズケーキが収まっていた。

 夏休み中に一緒に食べようと思って買ってきたチーズケーキ。

 だけど祐未さんはいないし、そんなに日持ちはしないし……ということで食べてしまった、二日に分けて。

 箱は丁重につぶしてゴミ箱に放り込んでおいたのだが、まさかそんなものを彼女が見つけてしまうとは思わなかった。我ながら少し迂闊だった。


「私も食べたかった」

 彼女は口を尖らせたまま呟いた。

「また買ってきますよ。それでいいでしょ?」

 僕は宥めるようにそう言ったが、彼女は拗ねた表情で「ずるい」そして「いま食べたかった」と無茶なことを言った。


「ズルイって……」

 僕はこみ上げてくる苦笑いを抑えながら肩を竦めた。

 突然やってきてそんな子供みたいなことを言われても――。

 そんなことを思ったとき、ふと笑顔でいる自分に違和感を覚えた。

 さっきまでこの部屋を支配していた陰鬱な空気……それがいつの間にか一掃されていることに気付いた。まるで彼女がいるだけでこの部屋が色付いたみたいに。

 そして、ほんの数時間前までは間違いなくあった怠惰で自虐的な感情……いまではすっかり僕の中から消え失せていた。

 しかしそれと入れ替わるように現れたべつの感情……それが昂ぶるのに気付いて――。

 次の瞬間、僕は手を伸ばして祐未さんを抱き寄せた。

 彼女は声にならない声を上げ、驚いたように身を固くした。そして微かに僕の胸を押し返してきたが、僕は包み込むようにその手を掴んだ。

 祐未さんの手首は折れてしまいそうなくらいに華奢だった。僕はその細い両手首を彼女の頭の上でひとつに重ね、左手ひとつで壁に抑えつけた。そして自由になった右手で彼女の輪郭を確認するように頬を撫でた。

 両手の自由を奪われた彼女は僕をまっすぐに見据えていた。その目に浮かんだのはあきらかに僕に対する抗議のいろだった。

 僕はその視線を正面から受け止めた。

 しかし……彼女は僕から目を逸らすと、やがてあきらめたように抗うことを放棄した。そしてひとことだけ消え入りそうな声で囁いた。

 僕は静かに頷くと、押し寄せる衝動に任せるように彼女に唇を押し付けた。

 その刹那、彼女の瞳が揺らいだのがわかったが、それには気付かぬふりで乱暴で貪るようなキスをした。


 僕はたぶん冷静だった。

 昂ぶる感情に突き動かされてはいたが、それでも僕は冷静でいたのだと思う。

 僕は祐未さんを強く抱きしめた。何かに流されたわけではなく醒めた頭で一弥君を裏切ることを選んだ。






 翌朝、ブラインドの隙間から差し込む光で目を醒ましたとき、いつもはからっぽの僕の隣には祐未さんがいた。

 彼女は既に目を醒ましていたようで、じっと僕の顔を見ていた。

 僕はそっと視線を外した。そして彼女の胸元に掛かっていた薄いブルーのキルトケットをつまみ上げ、中を覗き込む――

「いてっ……」

 彼女は無言のまま僕の頭を叩くと、頬を膨らませて僕に背を向けた。

 僕は懲りずに彼女の小さな肩に触れた。そして後ろから抱き留め、チカラ任せに僕の方に向き直らせると胸元を覆っていたキルトケットをはぎ取った。

 白い肌が露わになると、彼女は不満そうに僕から目を背けた。

 僕は構わず彼女を引き寄せると首筋に舌を這わせた。

 祐未さんは無反応だった。僕から目を背けたその表情はやっぱりドコか不満そうで、それが僕の闘志・・を掻き立てた。

 やがて彼女はくぐもった吐息を漏らした。そしてじれったそうに僕の頭に手を回してきた。

 僕は首筋から唇を離し彼女の頬をそっと撫でた。そして彼女の髪を梳くように指を絡ませながら唇を重ねた。昨夜の余韻を引き摺るようにゆっくり、そして深く舌を絡ませ――


「…………」

 不意に悪戯心が湧きあがった。

 僕は彼女から唇を離すと口元を弛めた。

 彼女は僕の表情から何かを読み取ったらしく、身を翻して逃れようとしたが、僕はそれを阻止して彼女をベッドに押さえつけた。

「ちょ、ちょっと待って――」

 彼女は激しい抵抗を見せたが、僕は構わず彼女の白い胸元に唇を押し付けた。

 そして唇の位置をずらし、もう一度強く吸った。

「――ちょっとぉ!」

 彼女は僕を跳ねのけた。

 そしてベッドサイドに置いてあった鏡に手を伸ばした。

「どーするのよ、これ?!」

 今日から仕事なのに――。

 彼女は胸の痣を指さした。

 僕がキスをした鎖骨のあたりには赤紫色の痣が二つ浮かび上がっていた。真っ白な肌に浮かんだ痣はどこか卑猥な感じがした。

「マーキングですよ」

 僕は笑った。

「まあ、オスの本能っていうか――」

 そう言いかけると、彼女は頬を膨らませて手元にあったクッションを振り上げた。

 僕はそれを受け止めると彼女の手を掴まえ、そっと抱き寄せた。

「不満そうな顔をするから、つい」

 耳元で囁くと、彼女は僕の手を振りほどき、僕の両耳をつまんで引っ張った。

「ああいう一方的なのは嫌――」

 彼女はそう言って睨んだ。

 僕は何も答えず、ただ「意味が分からない」というふうに首を傾げたが、彼女がそれに反応を見せることはなく、それ以上何かを口にすることもなかった。 



 彼女がベッドを抜け出したあとも、僕はしばらく仰向けになったままでいた。

 目を閉じると、昨夜の祐未さんの息遣いが蘇ってくる。

 まだ僕の腕には彼女を抱きしめたときの柔らかい感触が残っている。

 その一方で湧き上がってくる罪悪感……それをうち消すように、僕はさらに彼女の淫らな姿を思い浮かべては軽い自己嫌悪に陥って――。

 そんな微熱を帯びたアタマとカラダを、バスルームから微かに聞こえてくる水の弾ける音が耳の奥から冷ましてくれるような気がした。

 



***

 

 それからの僕らは、逢うたびに「いままで無駄・・に過ごしてきた時間」を取り戻すかのように、感情の赴くままに抱き合っている。

 僕自身、時々感情のコントロールを失い、乱暴に彼女のカラダを揺さぶることもあった。

 だけど僕の求めを彼女は拒まなかった。彼女は僕の全てを受け入れてくれた。

 だからといって彼女とのあいだに横たわる誰かの面影が完全に消えてなくなったわけではなかった。

 僕らはいまでも共通の罪悪感を抱いていた。

 しかしお互いにそれを口にすることはしない。どちらかが話し出す前にお互いの口をふさぐように唇を重ねている。

 そういう意味では、僕らが抱き合うのはカタルシスそのものだと言えるのかもしれない。

 もっともそれを口実にして、僕らは「僕らの行為」を正当化しようとしているとも言えたのだが。


 ただ、初めて向き合ったとき彼女の目に浮かんでいた涙……それを思い出すと胸が痛む。

 彼女の覚悟が僕のそれより大きいような気がして申し訳ない気分になる。彼女と逢うたびに「違う誰かの姿」を重ねていた自分を深く恥じた。



 ――――。


 グラスの氷が融ける音で、僕は我に返った。

 壁の時計に目をやると、いつのまにか日付が変わっていた。

 べつに明日は何の用事もないからこのまま朝を迎えたって構わないが……ふとテーブルに置いたCLEMENTINEのラベルが目に入った。

 ラベルに描かれた悲劇の少女――。

 不意に頭を過ぎった不吉な想像に、思わず僕は身震いした。



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