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#045 Psychological warfare

「お帰り――」


 クルマを降りてシャッターに手をかけたとき、頭の上から声が聞こえた。

 見上げると、そこには窓枠に肘をついて僕を見下ろす祐未さんの姿があった。

 僕はいったん左手の時計に目を落としてから、もう一度顔を上げた。

「待ちました……よね?」

「うん。ずいぶん、ね」

 彼女はにっこりと笑ったが、その笑顔を額面通りに受け取るわけにはいかなかった。

 僕は急いでクルマをガレージに収めると、シャッターを下ろし、靴を脱ぎ捨てて階段を駆け上った。



「――もう少し遅かったら、一人で食べて帰っちゃおうかと思ってた」

 祐未さんはそう言って拗ねたように口を尖らせた。

「すみません。思ってたより仕事の進みが悪くって――」

「遅くなるのはいいのよ。ただ連絡してもらえると助かるわ。コッチにも作る都合があるんだから、せめて会社を出たころにでも――」

 彼女は僕の言い訳を聞く素振りは微塵にもみせず、諭すように言った。

 清里に行ったあの日以来、祐未さんはまたウチに来てくれるようになっていた。

 さすがに毎日来てくれるというわけではなかったが、それでも僕には十分だった。

 しかし――


「またこれですか……」

 テーブルに出てきたのはリゾットだった。

「だってこのあいだの軽井沢で食べたリゾット、あれ本当に美味しかったんだもの」

 祐未さんはうっとりとした表情でそう言った。


 先日、清里を出た僕らは軽井沢へと向かった。

 試運転に行くことになったときから、軽井沢で晩飯を食おうと決めていた。

 中軽井沢の駅の近くにあるイタリアンレストラン「La-mare」――。

 軽井沢には似つかわしくない名前のその店は、僕が高校の頃にバイトしていた駒沢のレストランの当時のオーナーシェフ……理由ワケあって駒沢の店を離れた彼が二年前に開いた店だった。

 その店で祐未さんが食べた「チーズリゾット」。

 以来彼女は完全にそれに嵌ってしまった。あれからウチに来るのは三度目だが、そのたびに「チーズリゾット」を拵えては眉間に皺を寄せている……困ったもんだ。


「絶対にあの味を再現してみせるわ」

 祐未さんはそう言って握ったこぶしに力を込めた。

 そんな静かな闘志を燃やす彼女を前にして、僕のなかに幼稚な対抗心が湧きあがってきた。

「そういえば、僕のビーフシチューはあの人に教えてもらったんですよ」

 少し自慢げに胸を反らした。

「どうしてもって言うなら、レシピを聞いてきてあげてもいいですよ」

 言いながらその恩着せがましい台詞に苦笑いがこみ上げた。


 おそらくレシピについては、彼は嫌な顔一つせずに教えてくれるに違いない。あの人は昔からそういう人だったし。

 オーナーと会ったのは一年ぶりだったが、彼はいまだに「駒沢にいたころ」と変わらずに僕と接してくれている。

 だけどそれは僕にとっては意外なことでもあったし、そして少しだけ心苦しいことでもあった。

 僕は彼に対して悪い印象はなにひとつとしてない。しかし彼はそうではないかもしれないとずっと思っていた。彼が東京を離れる原因は、少なからず僕にもあったのだろうと思っているし。

 だからもし仮に僕が彼の立場だったとしたら、たぶん僕は彼と同じ様な態度ではいられないのだろう。八つ当たりに近い感情だったとしても、きっと赦すことはできない――


「ま、レシピの件はひとまず置いておいて……」

 声に顔を上げると、祐未さんが僕を見つめていた。

「はじめてじゃなかったでしょ?」

 彼女は言った。「私以外の人とも行ってるでしょ、あのレストランに」。


 僕は首を傾げた。

 確かに一年前、僕は絵里を連れてあの店に行っている。

 しかし彼女がなぜそう思ったのか、僕にはそれがわからなかった。

 あの日、オーナーは決してそんな話題には触れていないし、僕自身も特に隠す意図があったわけではないが、それと悟られるような態度はとっていないはずだった。

 そしてもうひとつ……その言葉の真意はどこにあるのかと考えてみた。

 しかし彼女の表情を探ってみても、その答えに辿り着く予感はなかった。


「――まあ……そうですね」

 僕は渋々重い口を開き、曖昧に答えた。

「ふ~ん」

 彼女は微かに首を傾けた。

「誰と行ったの?」

「誰って……」

「私の知ってる人?」

「いや……昔付き合ってた人です、けど」

「昔ぃ? だってあのお店まだ二、三年しか経ってないんでしょ」

「え。いや、え~と……去年ですね、たぶん」

 なんなんだ、いったい……?

 彼女の執拗な質問攻めに、僕は戸惑いを隠せなかった。

 いっそのことその口を塞いでしまうべきかもと思ったが……そんなことを考えただけで僕は耳まで熱くなった。


「その彼女……いまは何してるの?」

「いや、知らないですよ。もう別れてずいぶん経ちますし」

「なんで別れたの?」

「なんでって……」

 また難しい質問を……。

「さては……フラれたのね?」

 祐未さんは身を乗り出してきた。

「どうしてフラれちゃったの? 何か悪いことしちゃったの?」

 嬉々とした表情の彼女を見て、僕は思わず深いため息を吐いた。


「……なんでそんなコト訊くんですか」

 不満を隠すことなく呟いた。

 しかし言った後でなんとなくバツが悪くなって……僕は彼女から目を逸らし唇を尖らせた。

 すると彼女は声を上げて笑った。

「――ゴメンね。ちょっと意地悪してみたくなったの」

 彼女に目を戻した。その無邪気な表情にもう一度ため息がこぼれた。

「……横暴ですよね、ホント」

「だって~、自分ばっかり幸せそうなんだもん」

 彼女はそう言ってさらに笑ったが、僕の何を見て「幸せそうだ」と感じたのか……それが僕には理解できなかった。


「そういえば、ココって隣にも部屋があるのね」

 彼女は不意に話題を変えた。

 その指先は「隣室」の方を指していた。

「ココって一軒家だと思ってた、ずっとね」

 確かに一階はひとつしかないから、祐未さんがそう思ったとしても不思議はない。

「二階だけ別れてるんです。ほら専用階段があるじゃないですか」

 うちの玄関の脇に――。

「――ね。さっき気付いたわ」

 彼女は「いままで気付かない方がどうかしてた」と言わんばかりに首を傾げた。

「でも、いまだにどんな人が住んでるのか知らないんですよ。いつ行ってもいないんで」

 引越の挨拶もしそびれちゃって――。

 僕は苦笑いしながら首を傾げた。

「え。さっき会ったけど」

「……ホントですか?」

 僕が驚きの声を上げると、彼女はゆっくりと頷いた。


 二時間くらい前に僕の部屋にやってきた祐未さんは、ちょうど階段を下りてきたB号室の住人と鉢合わせしたらしい。

 彼女の話では、隣人は肩のあたりまである長い金髪を後ろで束ねた背の高い痩せた男……ここまで聞いたところで、僕はあまり筋の良くない人物を想像した。

 しかし隣人は、祐未さんと顔を合わせると大袈裟なくらいに驚き、何度も頭を下げながら彼女の横をすり抜け、通りに出て行ったのだという。

 極度の対人恐怖症……と言う可能性もなきにしもあらず、か。


「ヘンな人じゃなければ何にも問題ないんですけどね、僕としては」

 気配すら感じさせない隣人にしてみれば、寧ろ僕の方こそ迷惑な存在なのは疑いようがない。

「ま、そのうち顔を合わせることもあるんじゃない?」

 祐未さんは他人事のように言った。




***


「う~ん。やっぱりちょっと違うわね」

 祐未さんはリゾットをつつきながら唸った。

「べつに問題ないんじゃないですか」

 僕は言ったが、彼女は「そう言う問題じゃないのよ」と眉間に皺を寄せた。


 祐未さんが作ったリゾットは悪くなかった。少なくとも最初のときよりも進歩しているのが窺える。

 確かにあの店と同じ味ではなかったが、同じである必要などまったくない。だいたい向こうはプロなんだし比べる方がどうかしている。

 だけど真剣な表情の彼女を前にそれを言うのはちょっと気が引けた。


「なんだろ、何かが足りない気がするんだけど――」

 彼女がそう呟いた。完全な独り言だと思うが。

 強いて言うなら、足りないのはゴルゴンゾーラだというのは間違いなかったのだが……それを僕の口から伝えることも憚られた。 

 祐未さんのプライドを傷つけるくらいなら、ちょっとくらいコクがなかったとしてもいいじゃないか、と。そもそも僕はこの味でいいと思うし。


 それにしても――。

 不意に僕の脳裏に昼間の熊沢の言葉が過ぎった。

 そして食事時には絶対に思い浮かべたくなかったもの……松井清和の顔が頭に浮かんできた。

 このタイミングに出てきたあの顔がさらに嫌いになりそうだ。


 熊沢の言葉を鵜呑みにすれば「ソアラのチューニングに松井が関わっている」と言うのは疑いようがない。しかもかなり重要な位置を任されているということも。

 しかし「松井」という男と「チューニング」という言葉が、僕の中ではまったくつながらなかった。

 確かにパインモータースは地元ではソコソコ名の知れた自動車整備工場だったし、ちょっとしたチューニングくらいなら問題なくやってのけるのだろう。

 しかしそれはパインモータースという会社の話で、松井清和個人については別だった。

 整備工場の跡取り・・・として産まれながら、あいつは油にまみれることを極端に嫌っていた。だから僕らと違っていつも綺麗な手をしていた。

 手先だけは妙に器用な男で電装系の修理は得意としていたが、それはただのオーディオオタクだというだけで、それ以外にはまったく――


「おいこら――」

 突然祐未さんが僕の顔を覗き込んできた。

 その予測もしない距離感に思わず仰け反ったが、あえて表情だけは平静を装った。

「なんですか……」

「ナンですかじゃないでしょ。なにをさっきからぶつぶつ言ってるの?」

 祐未さんは訝しげに眉を顰めた。

 その顔はきっと僕が「リゾットに対して因縁をつける」とでも思ってるに違いない。


「いや、全然たいしたことじゃないんですけど――」

 僕は笑みを浮かべて首を傾げると、熊沢から聞かされた話を彼女に聞かせた。

 それに加えて僕と松井の因縁……昔、付きまとわれたこと、箱根の帰りに追突されたこと、そして奴の特殊な性癖のことを端的に話した。

 ただし若干の脚色はさせてもらった。絵里の存在を祐未さんには悟られたくない――そんな防衛本能にも似た感覚が、僕の思い出を曖昧でぼやけたものに変えた。しかし……


「あの……なんなんですか」

 僕は目の前で身を捩る祐未さんにそっと話しかけた。

 ヒキツケを起こしたかのように不規則な呼吸をする彼女は、苦しそうな表情で笑い続けていた。僕にとってはまったく笑い事ではないのに――。


「ホント……笑い事じゃないんですけど」

 僕はため息を吐いた。

「だって……オカマにオカマ掘られたなんて――」

 彼女はそう言ったきり、言葉が続かないほどに笑い続けた。しかも「オカマが、オカマが……」とうわ言のように繰り返しながら。

 僕はもう一度ため息を吐いた。そして笑いの収まらない彼女を眺めた。


 そんなに僕の身に降りかかった不幸が嬉しいのだろうか――。

 僕は腑に落ちない気持でアタマを振った。

 その刹那、僕の脳裏を懐かしい笑顔が過った。これと同じ光景に出くわした記憶が微かに蘇った。


 そういえばあのときの絵里もそうだった。

 憮然とする僕の横で彼女はいつまでも笑い転げていた。

 そんな彼女を横目に、僕はただため息を吐くことしかできなかったっけ――。


 僕は祐未さんに視線を戻した。

 彼女はまだ笑い足りないようで、テーブルに顔を伏せるようにして笑っていた。

 不意に胸の奥の方が疼いた。

 そしてこの痛みすらどこか懐かしい気がして……僕はそっと口元を弛め、そして立ち上がった。


「ん……どこ行くの」

 祐未さんは細い指先で目尻を拭いながら僕を見上げた。

 僕は下唇を突き出し「酒買ってきます。呑まなきゃやってられないですから」と不満げな素振りで言った。もっともべつに不満などなかったが。


「ふ~ん。じゃ、今日は送ってくれないのね」

 彼女は目元には笑みを残したままクチを尖らせた。

 普段は送っていくと言っても拒むくせに……まったく勝手な言い分だ。

「べつにそういうつもりじゃ……」

「ハイハイ。暗い夜道を一人さびしく歩いて帰れってコトよね」

 祐未さんは僕の言葉を遮り、好き勝手なことを言い出した。

 それにしても、今日の彼女はいつになく口数が多い。しかもやや攻撃的なニオイがするくらいに。

 そんな喋り続ける彼女を見下ろし、僕は小さく息を吐いた。


「だったら泊まっていけばいいじゃないですか」

 今度は僕が祐未さんの言葉を遮った。ようやく彼女の口撃が止んだ。

「酔っぱらって寝ちゃったこともあったんですから……一回も二回も同じですよ」

 僕は鼻歌を唄うように軽い調子で言った。


 祐未さんは僕を見上げていた。 

 たぶん僕の言葉の意味を彼女なりに考えているのだろう。

 だけど僕の言葉に深い意味なんてなかった。

 もちろん彼女が深い意味として受け取る可能性は捨てきれなかったが、それでも僕にとっては深い意味のない言葉だった。


 べつに何もしませんよ――。

 僕は笑った。たぶん本当に何もできないという予感が残念ながら僕の中にもあったし。


「そうね――」

 やがて彼女はテーブルに両手を着くと、すくっと立ち上がった。

 そして壁の時計を一瞥してから僕に視線を戻した。

「自分の呑むお酒くらい自分で選ばなくっちゃ、ね」

 じゃ、クルマ出して――。

 彼女は朗らかな声でそう言うと、僕の横をすり抜け、階段を下りて行った。



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