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#044 Brainworker


「――それが終わったら、コッチもな」

 熊沢はそう呟くと、僕の方には目もくれずに事務所をアゴで指した。


 僕の一日……正確には職場での一日は掃除から始まる。

 工場、事務所、客用の駐車場そしてバックヤード。基本的にそれをすべて僕が受け持っている。

 大した面積があるわけではないが、一人で全部となればそれなりに時間もかかる。

 そして熊沢は、僕の後ろを尾行てまわってはいちいち口を出す。初めのころは「それなら自分でやれよ」と苛立ちもしたものだが、いまはもう慣れた。


「で、それも終わったらよ――」

「カタログの入れ替えなら終わってます」

 僕は先回りして答えた。


「……そうか」熊沢は工場を覗った。

 奥のリフトには整備中のソアラがあった。

 工場を彷徨っていた熊沢の視線がソアラのところで留まり、指を伸ばした。

「――じゃ、あのソアラのよ――」

「オルタネーターなら手配してあります」

 午前中には届けてくれるそうです――。

 僕は何の感情も込めずに言った。

 熊沢はソアラを指さしたまま、口元を微かに歪めて固まっていた。

「……なんでよ」

 腑に落ちないといった顔をした熊沢は、僕に向かって問い詰めるように言った。

 僕としては熊沢の反応が大袈裟なものに感じていたが、それを顔に出すこともなく「昨日の帰り際に、山田さんに聞いてたんで」とさっきと同じように平坦な声で答えた。


 熊沢という男は小姑のように小うるさい。

 僕がココで働くようになってから間もなく二か月になるが、それはいまでも変わってない。

 しかし最近になってあることに気が付いた。

 熊沢は、こちらが予想外の行動に出た場合、意外と上手い対応ができないということだった。

 だから僕は少しだけ先回りして物事を考えるようになった。

 熊沢の要求自体は決してハードルの高いものではなかったから、まったく難しいものではなかったし。

 もっと早く気づいていればあんなに嫌な思いをしなかったんじゃないか――。そう考えると無駄な時間を過ごしてきてしまった、と反省したい気持ちにもなるが。


 ソアラのオルタネーターは予定通り午前中に届いた。

 トヨタの部品共販の営業は午前一〇時前には部品を持って現れ、それを受け取った山田は午前中のうちにソアラを仕上げた。

 僕の午後のスケジュールには「試運転」の文字が新たに書き加えられていた。



***


 午後一時ちょうどに店を出た僕は、いつものように三ツ目通りに出て塩浜から9号深川線に乗り、湾岸方面を目指した。

 試運転のコースにもいくつかあることを最近になって知った。

 店に持ち込まれるクルマは単純な修理のクルマばかりではなかったから「顧客のニーズ」によって試運転も異なるのだ、と熊沢は鼻の穴を広げながら僕に言った。

 つまり箱根用と湾岸線用とではセッティングがまるで異なるという、ごくごく当たり前ことをもっともらしく言いたかったようだ。


「湾岸線を空港方面に向ってくれ――」

 熊沢は助手席からそう指示を出した。

 湾岸線を空港方面……つまり大井で折り返し、というコース。

「くれぐれも捕まらないようにな」

 キップ切られても経費じゃ落ちねえからな――。

「了解です」

 僕は助手席を一瞥して口元を弛めると、ミラーで後方を覗い、ウインカーを出して右車線に移った。

 やがて辰巳ジャンクションが現れると、シフトレバーに手を伸ばしオーバードライブを解除する。デジタルメーターのエンジンの回転数を示すゲージが跳ね上がる。

 Rの大きい右カーブを抜けて湾岸線へと合流すると、目の前には一直線の道路が延びていた。

 僕は周囲に視線を散らすと、オーバードライブをONに戻しアクセルを軽く煽った――。



***


「ちょっと休憩していくか」

 湾岸線の大井を下りたところで熊沢が言った。

 僕は熊沢の指示に従い、埠頭に近い公園の駐車場にソアラを乗り入れた。ココは熊沢と初めて出会った場所でもあった。

 クルマを止めてギヤをパーキングに入れると、熊沢は「便所、便所……」と呪文のように口ずさみながらドアを開けて駆け出して行った。あんなジジイにはなりたくないものだ。


 僕はエンジンをかけたままクルマを降りると、一度大きくノビをした。

 平日の駐車場には、営業車らしきクルマがちらほら停まっていた。

 彼らはいくつかのグループを形成して談笑したり……中には昼寝をしている人の姿もある。

 そのなかで僕ら……いや、このソアラは異質な存在だと言えた。


 MZ20型・ソアラ3.0GTターボリミテッド――。

 3.0L・DOHCターボエンジンの7M-GTEUを搭載したトヨタのフラッグシップモデル。

 最高出力はノーマルでも240psをたたき出し、四輪ダブルウィッシュボーンサスペンションを採用した足回りの安定感も抜群で――。


 あらためて見回してみると、このソアラは若干車高が低いものの外観上はこれといって派手な装飾は施していない。

 しかし大口径のステンレスマフラーが奏でる排気音エグゾーストノート――。

 アイドリングの状態でもその存在感は際立っていた。

 ハイスペックなラグジュアリーカ―は、山田の手によって"荒々しさ兼ね備えた高速ツアラー"へと変貌を遂げていた。


「――そんなに珍しいもんじゃねえだろ」

 振り返ると、両手に缶コーヒーを持った熊沢が立っていた。

「ソアラなんて珍しくもねえだろよ」

 熊沢はそう言って両手を差し出した。

 僕は彼の手に握られていた缶を見比べると、軽く頭を下げてから左手の方の「微糖」の缶に手を伸ばした。


「結構好きなんですよ、このエンジン……」

 僕はコーヒーのプルタブを起こすと、ソアラを眺めたままふと呟いた。

 缶を口に付けたときなぜだか頬が弛んでいることに気付いた。

「このエンジンって……7Mがか?」

「ええ」

 僕は熊沢を覗い、小さく頷いた。

 元々僕は「ターボチャージャー」というものが好きではなかった。

 ターボ車特有の低回転での重さ、レスポンスの悪さがが好きではなかったのだ。

 しかし7MーGTEUは、そんな僕の先入観を打ち消してくれたエンジンだった。

 高トルクのエンジンは低回転での重さを補って余りあるものだったし、ターボの利きはじめも比較的早い。

 そして何よりこのMZ20型のソアラは僕にとって馴染み深いものでもあったのだ。


「ブースト圧1.3――。400ps近く出てるはずだ」

 もっとも完成品とはいえないレベルだが――。

 熊沢は首を横に振ると、缶を口に運んだ。

「400psなら十分なんじゃないですか」

 僕は首を傾げた。

「まあな。パワーとしては悪くはないが……問題はソコじゃない」

「問題ですか……」

 僕はココまで走りを振り返ってみた。

「まあ確かに上が伸びたぶん、下は物足りない感じがありましたけど――」

「ほー。気付いたのか」

 熊沢は感心したような言葉を口にしたが、それが社交辞令の類に過ぎないということはその眼が如実に語っていた。

「ターボチャージャーはスープラのターボA用を組んである。下が無いと感じたのはそのせいだろ。ま、まだまだ改良っつうか調整の余地があるってことなんだが……問題はそれでもない。なんだかわかるか?」

 熊沢は僕を覗った。

 しかし僕は目を逸らし「さあ」と気のない返事をした。

「さあ、じゃなくて真面目に考えてみろよ」

 熊沢はそう言って苦笑したが、大した時間も与えてくれずに「……時間切れ。答えは耐久性だ」といった。


「耐久性……ですか」

「ああ。7Mは400ps近くまで行くとヘッドガスケットが抜けるケースがあるからな」

「ガスケット……ですか」

 僕は惰性のように熊沢の言葉を反芻した。

「それにターボをでかくすれば、それだけエンジンに負担が掛かる。ピストンの耐久性も心配だし、インジェクションのキャパを上げる必要だって出てくる。場合によってはヘッドに手を入れることも考えなきゃならない」

 熊沢はそう言うと、口元に意味ありげな笑みを浮かべた。

「だからコイツもまるっきりエンジンに手を入れてないってわけじゃない……ま、鍛造ピストンとメタルガスケットくらいのもんだが」

 み~んな、耐久性を高めるためだ――。

 熊沢はそう言ったが、僕は何も答えなかった。

 僕にはそれが「エンジンに手を入れるための口実」に過ぎないように聞こえていた。

「だがな――。エンジンの耐久性を高めるってのは、なにも直接エンジンに手を加えることだけじゃない」

 じゃ、そろそろ行くか――。

 熊沢は意味ありげな笑みを浮かべると、僕の手から空になった缶を取り上げた。



 公園の駐車場を出発して、大井から湾岸線へと入った。

 しかし運の悪いことに、合流した先には交通機動隊の青い制服の背中が見えた。白バイだ。

「なんだよ。これじゃ試運転にならんな」

 熊沢は腕を組んだまま顔を顰めた。

 確かに追い越すのもアウトだろうけど、接近しすぎて存在を悟られてもアウトのような気がする。このソアラの大口径マフラーが車検に対応しているとは到底考えられないし。

 結局、熊沢の指示で辰巳ジャンクションまでは大人しくしていることにした。僕は心持ちアクセルを緩め、白バイとの距離を少しずつ広げていった。



「ところでどうだ。ウチには馴染んだか?」

 助手席の熊沢が言った。珍しく上司っぽい口ぶりに聞こえた。

「……そうですね。みなさんイイヒトみたいで」

「そうだろ。山田って奴は口数は少ないが、腕のいいメカニックだ。レシプロ専門だが間違いのない仕事をする奴だ」

 熊沢は聞きもしないのにそんなことを話しだした。

「吉岡はロータリーのスペシャリストだ。おれが認めたんだから間違いない。そして……その二人よりさらに上を行くのが、何を隠そうこのオレだ」

 熊沢は妙なタメをを作ってからそう言った。

 なんのことはない。結局自分の自慢がしたかっただけらしい。

「ま、そのうち直々に指導してやるからよ。期待して待っとけ」

「はあ。よろしくお願いします……」

 僕は半分呆れていたが、それを顔に出すことなく呟いた。

「ところでよ……」

 今度はなんなんだよ……。

「パインモータースの松井清和、おまえの知り合いなんだってな」

「……?!!」

 思わずアクセルペダルを踏み外しそうになった。

「まったく、知ってるなら早く言えよな」

 熊沢はそう言って笑ったが、なぜ彼の口から松井清和の名前が……。

「松井って……あいつが何かあるんですか?!」


「ん? ああ――」

 熊沢は腕を組んだまま、顔だけをこちらに向けた。

「このソアラの仕上がりは、奴のココに掛かってる……つうわけだ」

 そう言って頭を指さした。




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