#043 既視感
笹子トンネルを通過した。
勝沼インターチェンジに差しかかると、目の前には甲府盆地が広がっていた。
周囲に山を配した市街地の全景を眺めながら、カローラFXは左車線をゆっくりと走っていた。
助手席の祐未さんは静かだった。
さっきから窓の外を眺めている様子だが、特に言葉を発することもなかった。
彼女は基本的に明るい人だが、素面のときにはそれほどよく喋るという印象はない。そういう意味ではいまの状況は特に変わったモノではなかったのだが……。
ラジオのない車内――。普段の僕はそんなことは気にも留めないが、今日に限っては何か気の利いた音が欲しいと思った。
不思議とインパネまわりからの軋み音とロードノイズばかりが耳についた。
「取りあえず清里に行きます――」
僕は助手席を窺い、独り言のように呟いた。
「清泉寮でソフトクリームを食おうかと思って」
ココで言う必要はなかったのだが、それでは僕自身の間が持たなかった。
しかし一呼吸おいて祐未さんから返ってきたのは、「そ」というこれ以上ないくらいに短い、もはや言葉とはいえないような答えだった。
清里の清泉寮――。そういえば絵里とも一度だけ行ったことがあった。もちろん彼女のたっての希望で、だったのだが。
僕としてはソフトクリームにはそれほど興味はなかった。
だけどドライブに行くにはちょうどいい距離のような気がしたから彼女の希望を受け入れた。もし清泉寮が神奈川県内だったら、たぶん僕は「近すぎる」と言う理由で断っていたはずだ。
絵里もまた大人しい人だった。
助手席の彼女はいつでもお行儀の良い人で、僕の運転を非難することのない稀な人物だった。
そういえば、そんな彼女を隣に乗せて「走り」に行ったことが一度だけある。
いつでも澄ました表情でいる絵里を怖がらせてみたくなったのだ。
ドライブに行こう――。
そう言って真夜中に誘い出すと、彼女はまったく疑う素振りも見せずに僕の前に姿を見せた。
僕は嬉々とした表情の彼女を四点式のベルトで助手席に括り付けると、箱根の旧道をドリフトをきめながら駆け上がり、十国峠を抜け、熱海までの道を一気に走り抜けた。しかし……
彼女は動じなかった。
本当に拍子抜けするほどに平然としていた。
唯一怯えたような声を出したのは、熱海街道と合流した先で、「ココ、火葬場」と僕が助手席の窓越しに指をさしたときだけだった。
もっともそんな小さな悲鳴では潜在的サディストである僕の「悦び」が満たされることはなかったのだが。
韮崎インターチェンジが近付いてきた。
ココにも来た記憶があった。ココを下りたところにある小さな練習コースに走りに来たのだ。
まだ僕が自動車販売会社にいた頃、そこに出入りしていたタイヤ販売会社が主催したドリフト大会に無理やり出場させられた。
大会と称するモノで走ったのはそれがはじめてのことだった。
完全な草レースの類ではあったが、ある程度の安全を確保されたスペースで「走り」だけに専念できる環境は新鮮でいて、どこか物足りなくも感じていたものだったが――
そのとき、左車線を走る僕の横を黒いGTOが走り抜けていった。
GTOは僕を追い越すと急な角度で左車線に入り、そのまま本線から離れて韮崎で下りていった……ちょっと気分の悪い奴だ。
そういえば、相模湖駅前で見かけたスープラとは、中央自動車道に乗ったところまでは一緒だった。
右にウインカーを出して信号待ちをしていたスープラは、信号が青になったのと同時に左折した僕の後ろに入ってきた。
相模湖の湖畔をなぞるようなカーブを走るあいだ、スープラはずっと僕の後ろに張り付いたままだった。
僕はアクセルを踏み込みたい衝動を抑えながら、無数に続くカーブを走り抜けた。
相模湖インター入口の信号を右折し、料金所を通過しても背後に張り付いたままのスープラだったが、本線に合流するのと同時に右車線に移り、加速してやがて僕の視界からいなくなってしまった。ストレスが溜まっていたのは向こうも同じだったようだ。
そして祐未さんがどういう意味で「あれにすればいい」と言ったのかはわからない。
あれっきり口にしないから、たまたま目の前に止まっていたから言ってみただけ……と言う可能性が高いと思うが。
それにあのクルマが「スープラ」という名前だということすら、きっと祐未さんは知らないに違いない。
そんなことを考えてる間に須玉インターチェンジが近付いてきた。
***
「なんでココに来ようと思ったの?」
不意に祐未さんは呟いた。
カローラFXがちょうど清里駅前を通過するところだった。
「なんとなく……です」
特に意味はないです――。
僕は助手席を一瞥してそう答えた。
実際にココであることに理由なんてなかった。少し疎遠になっていた彼女との距離を近付けるための「試運転」であったわけだから「伊豆」と言われれば伊豆でもよかった。もちろん千葉とかでも。
ただ何となく一番初めに思いついたのがこの場所で、そしてこの場所には悪いイメージがない……それだけのことだった。
清泉寮でソフトクリームを食べた僕らは、特にやることもないのでしばらく駅付近を散策した。
こうして彼女と並んで歩いたのは久しぶりだった。クルマがなかったころ、僕の家から駅までの坂道を歩いたとき以来だ。
僕は空を見上げた。
今日は本当によく晴れていた。雲ひとつない青空……僕の日ごろの行いが良いという証拠だろう――。
「晴れててよかったですよね」
僕は祐未さんを覗った。
「そうね」
彼女はそう呟くと、じっと僕を見つめ返してきた。
僕は逃げずにその視線を受け止めたのだが……彼女は堪えきれなくなったように吹き出すと、首を傾げた僕からそっと目を逸らした。
正午を過ぎたころ、僕らは目に入った蕎麦屋に入った。
それほど腹が減っているわけではなかったが、今後の予定を考えるといま昼飯を食っておくべきだと思った。
昼飯を食べ、駅前のクルマに戻ると時刻は午後一時を少し回ったところだった。
「……どこに行くの?」
祐未さんが呟いた。
走り出してそれほど経ってなかったが、家とは違う方向に向かっているということに気付いた様子だった。
「もう一か所、付き合ってほしいところがあるんです」
僕はそう告げると、彼女の同意を取り付けることもなくアクセルを踏み込んだ。
***
帰りの中央自動車道は混んでいた。
下り車線はガラガラだったが、上り車線は断続的に渋滞が続いている。
本当は帰りは「八王子」で下りようと思っていたのだが、先の見えない渋滞に嫌気がさし「相模湖」の出口でステアリングを左に切った。
インターを出て合流した国道二〇号線は、中央道ほどではないものの交通量は多かった。
信号が変わり、だらだらと進む車列の最後尾に付けた僕は、湖畔沿いに続くカーブを前のクルマとの車間を測りながらゆっくりと進んだ。
やがて車列は相模湖駅前の信号に差しかかった。
ほとんどのクルマは直進だったが、僕は右にウインカーを出し、右折車線へと入った。
「――真っ直ぐ行って」
声に振り向くと、助手席の祐未さんはフロントガラスの先へと指を伸ばしていた。
真っ直ぐ……つまりは大垂水峠越えだった。
祐未さんを乗せてそこへ行くことに、僕としては大きな躊躇いがあったのだが……しかし次の瞬間にはミラーに目をやっていた。
そして後続のクルマがないことを確認すると、ステアリングを左に切って直進方向へと復帰した。
「このあたりだっけ……」
祐未さんの問いに僕は小さく頷いた。
「下りてみてもいい?」
続けざまの彼女の声に、僕は黙ったまま小さく頷き、カローラFXをコーナーの「待避所」に寄せた。
松山園のギャラリーコーナーの少し下――。
一弥君のKPは、ココのガードレールにフロントから突っ込んだ。
あの一弥君が自爆するなんて、僕にはいまでも信じられなかった。
上り車線を走ってきた低床のトレーラーがセンターラインをはみ出した――。誰かがそんなことを言ってたような気がするが、あの日の僕にはそんなトレーラーを見た記憶は残っていない。
ただ僕が駆けつけたとき、一弥君の赤いスターレットは原形を留めないほどに大破し、車体から漏れだした粘性のあるオイルが足元に溜まっていた。
やがてそのオイルがゆっくりと坂道を流れ出したとき、僕は慌ててそれを堰き止めようと両足で塞いだ。
なぜそんな意味のないことをしたのか、僕自身もよく憶えていない。
誰かに羽交い絞めにされ、耳元で大声で何かを言われたとき、ようやくそれが何の意味も持たない行為だということに気付いた。
「やっぱり痛かったよね……きっと」
祐未さんはガードレールの縁を撫で、そう囁いた。
それは独り言のようで、何らかの応えを求めているふうではなかった。
「大した痛みじゃないですよ、きっと――」
僕は彼女から目を背け、小さな声で呟いた……あくまで独り言、として。
事故の瞬間、一弥君はそれほどの痛みは感じなかったんじゃないかと僕は思っている。
現に僕もこのあいだの事故では、痛みを感じる間もなかったし、痛いと思ったのは病院のベッドの上で目を醒ましてからのことだったし。
そういう意味では一弥君は痛みを感じる機会はないのかもしれない。
外傷に関しては眠っているあいだにすべて癒えてしまったようにみえるし、目を醒ました頃には痛みなんかあるわけがない。
つまり、そういう意味では一番痛みを感じていたのは祐未さんだと言えるのかもしれない。
僕らはクルマに戻り、大垂水峠を再び八王子方面に向かった。
なかがみ屋のコーナーに差し掛かったところで、「僕の事故現場はココなんですけどね」と少し戯けて言った。
彼女は僅かに後ろを振り返ると「ふ~ん。ここなんだ」と呟いた。
あまり関心がなさそうな応え――、僕はそう感じた。
それにしても、かつて通いつめた峠道は、今日に限って交通量が多かった。おそらく僕の知る限りではいちばん混んでいる。
しかしいまの僕にはそれほど苦痛ではなかった。
こんな時間になんでこんなに混んでいるのかと不思議には思ったが、それでもだらだらとしたクルマの流れに悪態を吐くこともなく収まっていられた。たぶんいまの僕は、他にクルマが走っていなかったとしてもアクセルを踏み込まないような気がする。
「……怖くはないの?」
高尾に差しかかったところで祐未さんが口を開いた。
「運転が……ってことですか?」
助手席を窺うと、彼女は無言のまま小さく頷いた。
「そうですね……」
言いかけて口を閉ざした。
以前までは「怖さ」なんていう感情はなかった。
しかし今は少なからず「それ」を知ってしまっている。
それは間違いなく「祐未さん」という存在あってのことだった。
僕の中で彼女の存在が大きくなっていくにつれ、僕の心を包んでいた殻が壊れて、それまで抑えつけられていた感情が溢れだした。
そのなかのひとつが「恐怖心」だった、と言えなくもないのだろうけど――。
「――考えたこともなかったです」
僕は言った。薄笑いを浮かべ、平然と嘘を吐いた。
助手席の祐未さんは微笑を浮かべていた。
そして俯き加減のまま、「きっと強いのね、聖志は」と呟くと、真っ暗な窓の外に視線を伸ばした。
強いわけじゃなく、鈍いんですよ――。
僕は言おうとして口を噤んだ。
彼女の声が、まさに僕の鈍感さを哀れんでいたような気がして……僕は小さくため息を吐いた。




