#042 試運転
ベッドを抜け出したのは、まだ窓の外が暗い時間だった。
喉の渇きを覚えた僕は、キッチンに向かい冷蔵庫を開いた。そして飲みかけのコーラのペットボトルを取り出し、口を付けた。
すっかり気の抜けた甘いだけの液体――。
飲み始めてから気付いたのだが、喉を潤すには少々量が多かった。かと言って残すにはハンパな量で……僕は咽そうになりながらも、すべてを胃袋に流し込んだ。
それはともかく、この部屋はなんだか暑かった。
窓は薄く開いていたが、風はなく蒸し暑い。
シャワーを浴びたい――。
不意にそう思った僕は、汗ばんだ肌を覆う湿気っぽいシャツを脱ぎ捨て浴室へと向かった。
湯温を少し熱めに設定し、立ったまま頭からシャワーを浴びる。
肌を刺すような熱い飛沫が寝惚けたままだったアタマとカラダを醒ましていく。
昨夜、僕は日付が変わるころまでガレージにいた。
カローラFXの最後の仕上げ……とは言ってもイマサラやることなんて何もないので、くすんだボディーを丹念に磨きこんだ。
おかげで今日は肩の後ろあたりの筋肉に少し張りがあった。ちょっとチカラが入りすぎたのかもしれない。僕は熱いシャワーに肌を晒しながら、右の上腕部を揉みほぐした。
ん――?
シャワーを止めたとき、どこからともなく微かな電子音が聞こえてきた。
浴室を出ると、その正体はすぐにわかった。目覚まし時計だった。
何でこんな時間に――。不思議に思ったが、そういえば昨夜寝る前にセットしたんだっけ。
僕は濡れた身体をタオルで拭うと、目覚まし時計がけたたましい音を立てる寝室へ向かった。
普段の日曜日は昼過ぎまでダラダラとベッドに横たわっていることも多い僕だったが、今日の朝はいつもより早かったから目ざまし時計をセットしておいた。
しかしあまり意味がなかった。思ってたとおり、目覚ましが鳴る前に目が醒めた。
醒めたというより正確に言えばほとんど寝ていない。まあ眠れないのはいつものことだったが。
目覚まし時計を止め、着替えを済ませた僕は、キッチンに向かいステンレスのやかんをコンロにかけた。
食欲はなかったが、コーヒーは飲みたかった。
お湯が沸くのをを待つあいだ、僕は濡れた髪の毛をタオルで乾かしながらガレージへと駆け下りた。
昨夜磨き上げたカローラFXは、ガレージの白色灯に照らされ、いつになく艶やかな輝きを放っていた。
僕はウエスを片手に運転席のドアを開けると、キーの挿さったままのイグニッションを回した。
キュルキュルというセルのまわる音に遅れて低く響く排気音――。
僕は左足でアクセルを軽く煽ると、跳ね上がるエンジンの音に耳を傾けた。
それを何度か繰り返すと、僕はエンジンをかけたままクルマを下りた。そして窓を開け、換気扇を全開に回すと階段を駆け上った。
***
家を出てガス山通りの坂道を下りきると、左折して関内方面へと向かう。
本郷町の商店街は日曜日の早朝ということもあってか、まだ人気はなかった。
山手駅の入口を過ぎたところで右手にある不動産会社の看板が目に入った。
そういえば昨夜、神藤に会ったのはこのあたりだった。
まあ正確に言えばずっと後を尾行られていて、捕捉されたのがタマタマこの場所だった……というだけなのだが。
彼は「仕事がある」と言っていた。
僕としては熊沢のところで働き始めたばかりなので、「運送屋みたいなもの」ということ以外には詳しい話を聞こうとしなかった。高校生に仕事を世話してもらうほど落ちぶれてはいないという妙な自負もあったのだ。
だけどいまにして思えば、もう少し興味を示してあげた方がよかったかな、と反省もしている。素っ気なかった自分の態度が大人げないモノのように思えた。
麦田の信号を左折し、山元町を右に折れる。
切通しを抜け、車橋を渡り、長者町に差しかかると途端に路上駐車が目に付き始めた。
片側二車線道路の左側をふさぐ車の列。しかし道路わきには開いている店はほとんどなく、人の気配もあまりなかった。
僕はふと、左手に目を落とした。
時計はちょうど七時になったことを示していた。
間もなく日ノ出町の交差点だった。待ち合わせ場所までの時間を考えればまだ少し早かったのだが……僕はもう一度左手を眺めた。そして首を傾げた。なんで今日に限ってこの時計をしてきてしまったんだろ……と。
タグホイヤーのS/elは、二十歳の誕生日に自分で買ったモノだった。
元々僕はこの時計を気に入っていたが、最近ではコレを身に着けることはなくなった。
前回この時計を嵌めたのは一年以上前。絵里と最後に出かけた日のことだからよく覚えている。
あれ以降はなんとなくこの時計を手にすることを避け、キャビネットの奥にケースに入れて仕舞い込んだままだった。なのに今日に限って、無意識だったとはいえ、この時計を嵌めてきてしまうなんて……なんだか縁起が悪い気がして笑えない。
だけどイマサラ家に帰って時計を替えてくるのは馬鹿らしかったし、時間的にもそれほどの猶予はない……僕はなるべく時計のことは考えないようにした。
そんなことより道路は想像以上に空いていた。
国道一号線に出たところで少しだけ流れが悪くなったが、それでも待ち合わせ場所の相鉄線・弥生台駅に到着したのは約束の時間より二〇分くらい早い時刻だった。
しかし祐未さんはすでに到着していた。彼女はロータリーに到着した僕を見つけ、小さく手を振っていた。
「早かったわね、思ってたよりも」
彼女はクルマが走り出してすぐに僕の方を覗い、口元を弛めた。
「そうですか?」
フツウですよ、たぶん――。
僕は彼女に目を向けることもなく、素っ気ない態度で呟いた。
祐未さんに会うのは二週間ぶりで、それだけで僕のテンションはメーターを振り切りそうな勢いで昂ぶっていたのだが、いま油断して表情を弛めてしまったらもう元には戻らない可能性が大きい。それだけはどうしても避けたかった。
「ドコに行くのかは決まってるの?」
「ええ。だいたいは、ですけど」
僕は厳しい視線を前に向けたまま小さな声で答えた。
さすがに行先の見当くらいはつけていた。
とは言っても「清泉寮でソフトクリームでも食おう」という程度だったのだが――
「……?」
助手席に妙な気配を感じ、僕は祐未さんの様子を覗った。
彼女は口元を抑えていた。
一瞬「クルマ酔い」を疑ったが、そういうわけではなさそうだった。
「……なんですか?」
僕はため息まじりに呟いた。
すると彼女は悪戯を見つかった子供のように肩を竦めた。
そして口元を抑えていた右手を下ろすと、「だって……なんだかヨソヨソしいから」と今度は口元を隠すことなく笑った。
弥生台駅を出た僕は「かまくらみち」を左折して「立場」の交差点から長後街道に入った。
厚木市内を抜けて相模湖インターから中央道に乗ろうと思っていた。
距離的には「かまくらみち」を右に折れて町田方面に向い、八王子あたりから中央道に乗った方が近いような気もしたのだが、なんとなくいまは町田には近づきたくなかった。
それに町田から八王子へと向かう道は、僕の中では大垂水峠につながる道でもあった。祐未さんを隣に乗せてそんな道を通る気にはとてもじゃないがなれそうもなかった。
長後街道を通って藤沢町田線まで出た僕は、長後駅前の渋滞を嫌い、左折して「高倉」の交差点から「用田辻」方面を目指した。しかし「用田辻」の交差点も渋滞している可能性はかなり高かったから、御所見中学を過ぎたところを左に入って交差点を迂回した。そしてそのまま細く入り組んだ路地を抜け、相模線の門沢橋駅の先から相模川に架かる橋のたもとへと出た。
「ドコなの、ココ……?」
祐未さんは呆れたように呟いた。
「この川を渡れば厚木です」
僕は目の前を流れる相模川をなぞるように指さした。
橋から見下ろした川岸には、たくさんの人の姿があった。たぶん、バーベキューでも始めるんだろう。
今日はよく晴れていた。
バーベキューはもちろんだが、ドライブ日和でもあった。フロントガラスの向こうには、丹沢の稜線がくっきりと浮かび上がっている。
「ラジオ、つけてもいい?」
祐未さんはそう言うと、僕が答えるよりも早くラジオのスイッチにその細い指を伸ばした……のだが、スピーカーは沈黙したままだった。
彼女は首を傾げ、もう一度ラジオのスイッチを押した。
しかしスピーカーからはノイズすら聞こえては来なかった。
祐未さんは微笑を浮かべたままため息を吐いた。
「……本当にボロいクルマが好きなのね」
「……」僕には返す言葉がなかった。
つい数日前まで走ることすらできなかったカローラFX。それを短期間でここまで仕上げたという自負が少なからず僕にはあった。
そして今日のドライブにあたっては「エアコンが壊れていない」ということも確認していた。僕としてはエアコンがなくても耐えられるが、それを祐未さんにまで強いるわけにはいかないので。
しかしラジオは盲点だった。普段から聴く習慣のない僕としては、まったく気付きもしなかった。
「いまどき珍しいんじゃない?」
祐未さんは目元に笑みを湛えたまま言った。
「……何がです?」
「ラジオしか付いてないクルマなんてあまり見ないでしょ。しかも壊れてるし――」
祐未さんの口からは「僕のクルマ」に対するダメ出しの言葉が止めどなく湧き出てきた。だけど久々に聞いたその懐かしいフレーズは、緊張気味だった僕の気持ちを弛ませてくれた。
クルマは厚木市街を抜け、国道四一二号線に入った。
このまま延々と進めば、やがて国道二〇号線に合流する。中央道の相模湖インターチェンジはそこから少し先にあった。
「で……ドコまで試運転に行くの?」
祐未さんが意味ありげな口ぶりでそう言った。
ドライブに誘い出した「口実」はすでに見抜かれているみたいで少し動揺したが、この場でそれを認めるわけにもいかず「この先から中央道に乗ります」と感情を押し殺した声で言った。
それに対する助手席からの反応はなかった。
僕は横目で彼女を覗うと「聞いてました?」と念のため問いかけた。
しかし、彼女はすぐには言葉を返してはくれなかった。
少しの間をおいて返ってきたのは「大丈夫……?」という囁くような声だった。
それは僕が予想していたどの返事にも当てはまらないものだった。
目の前の信号が黄色に変わった。
タイミング的には通過できそうな感じだったが……僕はミラーを確認しながら速度を落とし、停止線の手前に余裕を持って止めた。
そして助手席に目を向けた。
そこには、まるで僕が振り向くのをずっと待っていたかのような彼女の視線があった。
「本当に大丈夫なの?」
彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「高速道路なんか走ったらバラバラになったりして――」
「……なりませんよ」
彼女の言葉を遮ると、僕は思わずため息を吐いた。
いくら突貫工事で修理したとはいえ、そんなことあるはずがない。
しかし……僕のそんな面白味に欠ける答えに、彼女はクチを尖らせてしまった。
「ま……とは言っても数か月後にはバラバラになってると思いますけど」
解体屋行きでしょうね――。
僕は苦笑いした。
「どうして?」
祐未さんは不思議そうに首を傾げた。
僕はフロントガラスのシールを指さした。
「車検なんです。切れたら廃車にするらしいんで」
「取ればいいじゃない、車検」
祐未さんは無邪気な表情でそう言った。せっかく直したんだし――と。
確かに彼女の言うことはもっともだった。
だけどこのクルマが「違法な改造を施してあるから車検が通らない」と言うような余計なコトはあまり言いたくなかった。言ってもわからないだろうし。
「実はですね……」
僕は独り言のように切り出した。
「買おうかと思ってるんですよ、クルマ」
自分で言っておきながらドコとなく取って付けたような台詞のような気がして、思わず僕は苦笑いした。
「ふ~ん。そうなんだ」
祐未さんはそう呟くと、窓の外に視線を伸ばした。
彼女の反応は興味があるのかないのかちょっと読めないモノだった。
もしかしたら僕がクルマを買うことをあまり快く思っていないのかもしれない。
やがて相模湖駅前の信号に辿り着いた。
赤信号で停止した僕の目の前には、交差する国道二〇号線があったが車の流れはスムーズみたいだった。
この交差点を右に行くと大垂水峠だった。考えてみれば八王子を回るより、コッチの方がよっぽど大垂水峠には近い――
「……ナニ買うの」
不意に祐未さんが呟いた。
さっきと同じでその言葉からは何の感情も窺えない。だけどその表情は「クルマを買うこと」自体を否定しているというわけではなさそうに見えた。
「いえ、まだソコまでは決めてないですけど……今度はボロくないクルマにしますよ」
僕は肩を竦めて苦笑いした。
カローラFXの車検は来年一月に到来する。
いまはまだ七月だったが、ギリギリになって慌てるのは嫌なので次のクルマについても考え始めていた。
ただ、その方向性については少しだけ悩んでいた。
今までのように「走り」のみを重視したモノにすべきか、或いは――
「ふ~ん。じゃ、あれなんかどう?」
彼女は真っ直ぐに指を伸ばした。
その視線の先、フロントガラスの向こうには真っ黒なスープラが停まっていた。




