#041 定番
「それが終わったらコッチな」
熊沢はそう言ってつま先で蹴り上げるような仕草をした。
そのぞんざいな態度に手にしていたモップを放り投げたい衝動に駆られた僕だったが、心の中で熊沢に対する呪詛を唱えることで何とか感情を押しとどめた。
彼がつま先で指した方にあるのは店のバックヤードだった。
一度だけ足を踏み入れたことがあるが、あまりの乱雑ぶりに入るのを躊躇われたのはまだ記憶に新しい。
僕は工場を一瞥してため息を吐いた。
山田は一昨日から「ハコスカ」に掛かりっきりだし、吉岡は昨日から「RX-7」に張り付いている。なのに僕の仕事と言えば掃除ばかり。
なんで熊沢が僕を雇ったのか――。
乱雑なバックヤードの片付けをしながら僕は考えた。
僕はココに来て以来、カローラFXの修理をした以外は工具を握っていない。代わりに毎日モップを握っている。
一度熊沢に直談判した。「仕事をさせてくれ」と。
しかしそんな僕の要求を熊沢は一蹴した。
「客から預かった大事なクルマをおまえに任せるわけにはいかねえだろ」と――。
「――ま、こんなもんでいいだろ……」
僕は額の汗を拭うと、思わず独り言を口にした。
乱雑だったバックヤードは、いまでは少なくとも人が歩ける程度には片付いている。
しかし、たったそれだけのために午前中いっぱいかかってしまった。
「お。終わったか」
振り返ると熊沢が立っていた。
彼はバックヤードを覗き込むと、何も言わずに二回頷いた。
一瞬、ねぎらいの言葉を催促したい気持になったが、却って気分が悪いことになりそうな予感がして僕は口を噤んだ。
熊沢はそんな僕の心中を慮る様子もなく、工場を振り返って「山田あ――。どうよ?」と声をかけた。
準備できてますよよ――。
熊沢の背後からそんな声が聞こえた。
***
湾岸幕張パーキング――。
僕は駐車場に車を止め、メーターを見つめたままエンジン音に耳を傾けていた。
クラシカルなサウンドが妙に心地いい。
走るということに関して最低限の装備しか纏っていない感じが、僕の趣向とも合致している。
基本的にこういう素朴なクルマが、僕としては好みだった。
「お~、悪いな」
小走りで戻ってきた熊沢は、助手席に乗り込むとそう言って笑った。
「歳をとるとよ、なんだか小便が近くなってよ――」
熊沢は聞いてもいないのに、そんなどうでもいいことを説明してくれた。
おかげで高揚しかけていた僕の気分は完全に醒め切ってしまった。
僕と熊沢は試運転に来ていた。山田がエンジンを組んだハコスカに乗って。
試運転に行くぞ――。
そう言って熊沢がハコスカの助手席に乗ったのはつい二〇分くらい前のことだった。
僕は熊沢に促されるまま運転席に座り、高速湾岸線から東関東自動車道へと抜け、この幕張パーキングまで走らされてきた。
試運転担当――。
僕がそう任命されたのはつい先ほどのことだった。
いままでは堤や吉井に頼むことが多かったようで、彼らの都合に合わせるのに難儀していたと熊沢は苦笑いしていた。
しかしさっき僕に「大事なクルマが云々」とか言ってたのに、部外者に試運転を任せるなんて……無茶苦茶だと思ったが、それを口にするのは止めておいた。
「どこまで行くんですか」
幕張を出てすぐに尋ねた。
僕はまだ昼飯を食べていなかった。それほど腹が減ってるわけじゃなかったが、熊沢の試運転に付き合わされた挙句に昼飯抜きなんてことはゴメンだった。
しかし熊沢は行先を告げてはくれなかった。「取りあえず酒々井まで」と言っただけで、はっきりとしたことは口にしなかった。
京葉道路と交差する宮野木ジャンクションを通過した。
僕は熊沢の指示に従い、アクセルを強く踏み込んだ。
レスポンス良く吹け上がるエンジンと、響き渡る甲高い排気音。
そのどれをとっても僕にとっては心地のいいものだった。やっぱりこういうシンプルな作りのクルマの方が――
「どうよ? ハコスカの乗り心地は」
熊沢は僕の心中を見透かしたように言った。
「古い割にはしっかりしてる気がします」
僕は無感動な声で答えた。そして「これ、ソレックスですよね」と続けた。
ああ――。
熊沢は少しの間をおいてから、口元を緩めた。
「L28改3.1L、ソレックス44Ø、タコ足、でマフラーは50Ø……まあ、定番中の定番て奴だな」
「定番中の定番ですか――」
僕は熊沢の反芻した。
そして小さく息を吐いた。
「……天使も同じなんですよね、たぶん」
「天使ぃ……?」
熊沢は怪訝そうに語尾を上げた。
「はい。天使のケンメリもソレックスですよね? やっぱりL28改で――」
「違うだろが。……つうか本気で言ってるのか?」
熊沢は呆れたようにそう言ったが、僕は何の反応もできなかった。
そんな僕を一瞥した熊沢は、わざとらしく大きく首を振った。
「アレはソレックスじゃねえ、ウェーバー。それくらいの違いもわからねえのか、最近の若い奴は」
だいたい音が違うだろが――。
熊沢はため息混じりに言ったが、音を聞き比べたことなんかないから僕にはわからない。
「……あいにく僕はEFIの世代なんで」
僕は嘯いたが、熊沢は「そう言う問題じゃない」と鼻で笑った。
「ウェーバーってのはソレックスよりデリケートなんだ。季節っつうか気温によっても左右されるしな。ただデリケートなぶん、セッティングが嵌ったときは吹け上がりが違う」
感動するぞ、マジで――。
熊沢はそう言うと唇の端を上げた。
「へえ……」
僕は間抜けな相槌を打った。
やがて酒々井パーキングエリアに到着した。
パーキングに入ると、なるべく周囲にクルマが止まっていない場所を探した。しかし平日のこの時間、それを探すのはまったく難しいことではなかった。
僕は駐車場のほぼ真ん中の位置にハコスカを止めると、ギヤをニュートラルに入れ、サイドブレーキを引いた。
「なんだ。下りないのか?」
エンジンを切ろうとしない僕を、熊沢は不思議そうな目で見ていた。
「はい。大事なクルマをココに置いていくわけにはいかないので」
僕は精一杯の皮肉を込めて言った。
しかし熊沢は「そうか」とだけ呟くと、クルマを下りて自販機の方に向かって歩き出した。
熊沢の後姿を見送った僕は運転席の窓を下ろした。そしてシートに深く身を沈めてそっと目を閉じた。
僕は首都高を駆けるケンメリの姿を思い浮かべていた。
天使の走りを間近でみた僕としては、あれは熊沢の言う「セッティングが完璧に嵌った状態」だったと信じたい。彼女のケンメリは、首都高に現れるときにはいつでも最高の状態で――。
考えがそこまで至ったところで、僕はふと気が付いた。
ケンメリのセッティングは彼女自身がやってるんじゃないかと言うこと。そして彼女自体が腕のいいメカニックである可能性は高いんじゃないかという――
「――コーヒーでいいだろ?」
なんの前触れもなく聞こえてきた声に、僕は吃驚して目を見開いた。
窓から差し込まれた熊沢の手には缶コーヒーが握られていた。
僕は「すみません」と囁くような声で礼を述べると、平静を装って彼の手から缶を受け取った。
熊沢が助手席に乗り込むと、僕らはパーキングエリアをあとにした。
そして東関道の本線に合流する頃になって、ようやく僕は行き先を知った。
「このまま終点まで行って、犬吠埼の方に向かってくれ。そこで昼飯にしよう」
美味い蛤を食わす店があるんだ――。
熊沢はそう言って笑った。
その笑顔はいつもの嫌みな感じとは違う、子供のような自然な笑みに見えた。
「熊沢さん――」
僕はステアリングを握ったまま助手席を窺った。
「堤……さんが天使を追いかけてる理由ってなんですか」
堤が天使を捜して水曜日の首都高速を走っている、というのは熊沢とはじめて会ったときに聞いていた。だけどその理由について聞かされたことはなかったし、自分から尋ねたこともなかったのだが……。
「さあな。今度、自分で聞いてみな」
熊沢はそう言って笑った。
その笑みに何か含むモノがあるのを感じ取ったが、それがいったい何なのかまでは読み取ることができなかった。
***
第一京浜から国道一号線に合流し、横浜駅を過ぎたところを左折して桜木町方面へと向かう。
いつも通りの仕事帰りの道だったが、横浜スタジアムの横を走り抜け、労災病院の前を通り過ぎたあたりで背後から妙な気配を感じていた。
そしてそれは、首都高速をくぐって元町の横を過ぎたあたりで確信に変わっていた。
僕はメーターを確認した。速度は70km/h弱――。
若干速度超過はしているが、白バイに追尾されるほどだとは思えない。
それでも念のため、エンジンブレーキを利かせて徐々に速度を落とす……。
しかし後ろに張り付いた白バイが離れる様子はなかった。
僕はあきらめ、なるべく後ろを気にしないようにした。
そしてトンネルを抜けたところで速度を落として左に寄り、そのまま路肩にクルマを停めた。白バイをやり過ごそうと考えたのだが――
白バイはすぐ僕の後ろに停止した。完全にロックオンされていたって言うことらしい。
僕は観念して免許証を取り出した。
しかし窓越しに覗き込んできたのは交機の人間ではなかった。
「――こんにちは」
そこに立っていたのは神藤泰昭だった。背後を振り返ると、そこには紛らわしいVFRが止まっているのが見えた。
花咲町で信号待ちしてたら、北条さんが走っていくのが見えたので――。
神藤は平然とした顔で言った。
だけどそれが真実ではないのは明らかだった。
僕がこのクルマに乗っていることはごく限られた人間しか知らないし、昨日までの約二週間はCR-Xに乗っていた。しかも夜だから顔を確認することだって難しいはず。
つまり、どういうわけか彼は僕がこのクルマに乗ってることを知っていて、それでどこかで待ち伏せしてて……。
しかし彼の表情に見え隠れする自信は、僕のそんな推理を幼稚でバカバカしいものだと思わせる何かがあった。
「よくわかったな。クルマが替わったのに」
僕は精一杯の嫌みのつもりで言った。
しかし神藤は「クルマが違ってもわかりますよ。走りの癖で」と僕の疑念を吹き払うような明るい声で言った。
「……癖なんかあるか?」
僕は彼から視線を逸らし、囁くように言った。
「ありますよ。特徴って言ったほうがいいかもしれませんけど」
神藤はそう言うと、何かを思い出したように口元を弛めた。
彼が言う特徴に興味はあったが、いまはそれを追及する気はなかった。
「――で、何か用でも?」
僕は敢えて突き放すように言った。
しかし神藤は相変わらず余裕のある表情を崩すことはなかった。
「ええ。なかなか来てくれないので」
迎えに来た方がいいかな、と――。
「あいにく時間がとれないんだ。いまの会社は人使いが荒くてね」
僕はわざとらしく顔を顰めた。
神藤はクスクスと笑うと、「なんでそんな会社で仕事してるんです?」と不思議そうに呟いた。
「……働かないと生活できない」
僕は短く答えた。
神藤は薄い笑みを浮かべて小さく頷いただけだった。
しかしその表情を見たとき「僕の家庭環境を含めたすべて」を彼に把握されてるんじゃないか、という嫌な予感が脳裏を過ぎった。
彼の仕草から滲み出る余裕が僕の疑念を掻き立てる。彼と話していると落ち着かない気分になるのはきっとそのせいだった。
「だったら――」
神藤は僕をまっすぐに見据えた。
そして「いい仕事があるんですけど」と呟いた。
「いい仕事……?」
僕は神藤の顔を見返した。
「ええ。運送屋みたいなものなんですけど……北条さんにピッタリだと思いますよ」
神藤は涼しげに微笑んでいた。




