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#040 ライセンス

「試運転、行ってきます――」

 誰にというわけでもなく言った言葉に、先輩メカニックの吉岡が「了解」と手を挙げた。

 吉岡はボンネットを外したRX-7のエンジンルームに顔を突っ込んでいた。

 レシプロエンジンのチューンを得意とするこの店において、稀に持ち込まれるロータリーエンジン。それを任されるのは決まって彼なんだそうだ。

 僕は工場内を見渡した。とは言っても二台のリフトがあるだけの工場は見渡すほどの広さはない。

 事務所を覗いたが、そこにも熊沢と山田の姿はなかった。

 僕はチャンスとばかりに、そそくさとクルマに乗り込んだ。

 職人然としている山田はともかく小姑タイプの熊沢は、僕が「試運転に行く」と言えば助手席に乗り込んでくるに決まっている。

 だけどそれは是非とも避けたいところだった。試運転のときくらい一人にしてほしい、と言うのが僕の率直な気持ちだった。


 三ツ目通りに出て、塩浜から首都高速9号深川線に乗った僕は、辰巳方面に向かってクルマを走らせた。

 メーターを確認しながらエンジンの回転数を一定に保ち、速度は抑え気味にして耳を澄ます――。

 しかし特に気になるような異音は聞こえては来なかった。

 辰巳JCTの大きな左カーブから首都高速湾岸線へと合流する。

 千葉方面に向かう直線道路に入ると、僕はエンジンの回転数を気にしながらアクセルを強めに踏み込んだ。

 それに応えるようにカローラFXは加速していく。

 決して「滑らかな加速」とは言えなかったがレスポンスは悪くない。

 少なくとも一週間前とは別物の走り・・・・・だと自信を持って言えるくらいには仕上がっていた。


 新木場を通過した。

 カローラFXはメーター読みで140km/hをキープしている。

 これと言って問題は見当たらなかったが、足回りの軟さが気になるといえば気になる。せめてショックアブソーバーとコイルスプリングくらいは換えたいと思うのだが……。

 僕の脳裏を熊沢のしかめっ面が過ぎった。

 やっぱりやめておこう――。

 僕は自分に言い聞かせて一人で頷いた。

 無駄無駄と念仏のように言われるのはわかりきっていたし、「最近の若い奴はすぐに――」と口癖のようなフレーズを繰り返されるのもナンだか癪だった。


 葛西JCTを通過したところで、僕は一番左の車線に移った。

 併走する国道三五七号線を横目に見ながら、葛西出口が近付いてきたところで四速にシフトダウンした。

 エンジンの回転数が跳ね上がり、みるみる速度が落ちていく。

 本線から離れた僕は、国道三五七号線に車がいないことを確認するとアクセルを踏み込んで合流し、そのまま一番左の車線へと移動した。そして臨海公園前の交差点を左折して環七通りに入った。

 環七に入ると、まずは目に入った出光のガソリンスタンドに立ち寄った。

 さっきからエンプティランプが点灯しているのが気になっていた。

 おそらく店まで帰るには何の問題もないのだろうが、家まで帰るにはたぶんちょっと足りない気がする。

 一〇リットルだけ給油すると、再び環七で葛西駅方面を目指した。


 葛西駅の先の長島町の交差点を左折して葛西橋通りへ――。

 僕は頭のなかで店までの最短ルートを描くと、アクセルを軽く煽った。




 店に戻ると、見覚えのあるAE86が停まっていた。

 僕がクルマを停めると、事務所のドアが開き、熊沢が顔を出した。

「おまえ……たかが試運転にどこまで行ってんだよ!」

 熊沢は大股で駆け寄ってきた。

「ドコって――」

 僕は湾岸線から葛西を通って……というたったいま走ってきたルートを端的に説明した。一応、途中でガソリンスタンドに寄ったことも。

 僕が一連の話を終えると、熊沢はあからさまにため息を吐いた。

「なんでそんな遠くまで行く必要があるんだ? 三ツ目通りを往復するぐれえで充分だろ。だいたい、おまえはな――」

 始まった……小姑・熊沢。

 彼に小言を聞かされるという作業は、たぶんココの就業規則の第一条に書かれているのだろう。見た目に反して細かい人……それがココに入ってから僕が抱いた「彼の印象」でもある。

「――まあいい。それより客が来てる」

 熊沢はそう言って事務所を親指でさした。

「客……? 僕に、ですか?」

 僕は店先にあるクルマを指さした。

 川崎ナンバーのオレンジ色のAE86――。樫井のクルマに違いなかった。



 事務所にはTシャツ姿の樫井がいた。

 彼は僕の姿を認めると「よう」と言って右手を掲げた。

 僕は「久しぶり」と呟くと、接客席にいた彼の向かいに腰を下ろした。

 樫井と会うのは本当に久しぶりだった。

 僕が最後に首都高を走ったとき以来だから四ヶ月ぶりくらい。

 相変わらず短く刈り込んだ髪の毛の前の方だけを茶色く染めていた。


「まさか熊沢さんのところで働いてるとは思わなかったよ」

 樫井は言ったが、それは僕も同じだった。

 僕は熊沢に対して少し面倒くさい大人という印象を持っていたから、あまり関わりを持ちたくはなかった。

 それが今では上司と部下という関係になっている。たまたま誘われたタイミングがよかった――、つまりはそういうことなんだろう。

「もうケガはなんともないのか」

「ああ」

 僕は意味もなく腕を回して見せた。

「そりゃよかった。それより、最近ゼンゼン来ないじゃん」

 走行会によ――。

 樫井はクチを尖らせた。

 彼に言われるまでもなく、あの事故以来、僕は走行会に参加していない。

 隔週末の「丸蓮宝燈」の集まりにも、水曜日の熊沢たちの集まりにも顔を出していない。それより熊沢と祐二以外の誰とも会っていない。僕としては寧ろそっちの方が気になっていた。だけど自分でもどうしたらいいのかわからず、なんとなくそのままにしてきてしまった。


「いまはアレに乗ってんの?」

 樫井の視線の先、ガラス越しに見えたのはカローラFXだった。

「ああ。通勤用として借りてるんだ」

 僕は口元を弛めた。

「じゃ、今度の土曜はあれで参加な? 久しぶりに箱根にでも行こうぜ」

「悪い。今週末はダメなんだ」

 僕は即答すると、顔の前で軽く手刀を切った。

「え~マジで~?」

 不満そうにそう言った樫井に向かい、僕はもう一度「悪い」とつぶやいた。


 今週末、僕は祐未さんとの約束があった。

 彼女とドライブに行く約束を取り付けていたのだ。

 祐未さんと逢うのは、彼女が酔いつぶれてウチに泊まっていった日以来、約二週間ぶりだった。

 あの日……というか翌朝、祐未さんと顔を合わせた僕は何とも言えない気まずさに包まれていた。それは彼女も同じだったようで、その顔に困惑のいろを浮かべて「どうして起こしてくれなかったの」と僕を責めた。しかしそれが単なる照れ隠しに過ぎないということは彼女を見てればわかることだった。

「一応、声は掛けたんですけど」僕は言った。

 そして「指一本触れていないから安心してください」と苦笑いすると「当たり前でしょ!」と逆に怒られそうになった。理不尽な話だ。

 それ以降、彼女は僕の家には来ていない。

 祐未さんと逢えない時間は、僕にとっては気が遠くなるほど長いモノに感じている。

 だけど、お互いにバツの悪い思いをした僕らにとっては、少し冷却期間が必要な気もしていた。

 そして三日前の夜、僕は彼女に電話してドライブに誘い出した。「修理したカローラFXの試運転に付き合ってほしい」と嘘をついて。

 しかしその時点ではカローラFXは自走不能だった。エンジンを下ろした状態で裏の車両置き場に放置してあった。

 カローラFXを修理することに対して、僕はあまり気が乗らなかった。エンジンをいじった不正改造車に興味はなかったし、どうせ祐未さんからの返事も期待できないと思ってたし……。

 ところが祐未さんの返事は僕の予想に反するモノだった。

 彼女は平然と言った。「だったら空気のきれいなところに行きたい」と――。


 翌日から僕は変わった。

 山田に手伝ってもらいながら一気にエンジンを組み上げ、昨日、カローラFXにエンジンを載せた。で、先ほど試運転に出かけられるまでに仕上がった。

 人間、気持ち次第でなんでもできるもんなんだなあ、とあらためて思う。

 

「――そういえば、ライセンス取ったんだって?」

 樫井は言った。

 相変わらず耳が早い。おそらく熊沢から聞いたのだろう、「だからおまえも取れ」とか言われて。

 先週、僕と祐二は熊沢主催のジムカーナ大会に駆り出された。

 ホンダ・シティのワンメイクのようなレースに、僕と祐二はポンコツのCR-Xでダブルエントリーで参加させられた。

 CR-Xは熊沢が所有する車の一つだった。

 小汚いクルマではあったが整備はしっかりとされているようで、走りにくさは感じなかった。

 順位的には振るわなかったが、今回の目的はA級ライセンス取得のための条件である「完走」だったから特に気にしていない。

 それにしてもカローラFXと言い、熊沢の趣味はよくわからない。

 FFのハッチバックが好きなんだとしたら、僕とはまるで趣味が合わないと言えるのだろう。


「レーサーにでもなるのか?」

 樫井はステアリングを握るような仕草をしながら笑った。

 僕は曖昧に首を傾げると、「樫井は取らないのか? 簡単に取れると思うけど」と逆に問いかけた。


「う~ん、そうだな……」

 樫井は腕を組み、小さく唸った。そして「あんまり興味ないんだよな」と囁くように言った。

「基本的にに嫌いなんだよ、あーいうの」

 樫井はそう言葉を続けた。

 興味がないと言ったときとは違って、はっきりとした意志を感じさせる声だった。

「あーいうの……って?」

「免許証とか……そういう感じのモノさ」

 樫井はそう言って悪戯っぽく笑った。

 その笑顔の意味が、僕にはまったく理解ができなかった。



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