#039 Khimaira
初出勤の日、僕は熊沢と一緒に僕の元職場であるディーラーに向かっていた。故障したカローラFXを引き揚げるために、だ。
ディーラーに入庫した日から既に三日が経過していたが、車両は手つかずのまま置いてあるはずだった。おそらく裏の社員用の駐車場に廃車待ちの下取り車と一緒に並べられているのだろう。
「最初っからウチに連絡してくりゃよかったのに」
こういうのを二度手間っつうんだ――。
助手席の熊沢は鼻歌混じりに言ったが、彼の店に自前の積載車があるなんて思いも寄らなかった。
しかも荷台をそっくりそのまま地面に下ろすタイプ……ディーラーにあるものなんかより、よっぽど立派な積載車だ。熊沢の店は意外と儲かってるのかもしれない。
熊沢がオーナー兼メカニックを務めるBEAR'S Auto Serviceには、熊沢のほかに三人の従業員がいた。
メカニックが二人、山田と吉岡という男。それと事務兼経理の松本という女の人。
つい二〇分くらい前に初めて顔を合わせて、挨拶もそこそこに熊沢に連れ出された僕としては、彼らがどんな人たちであるのか皆目見当がつかない。ただ、熊沢の下で働いていられるということは、恐ろしく気が長い人たちだと言えるのかもしれない。
保土ヶ谷バイパスを下川井で下り、中原街道に入る。いつもなら混むことのない道だったが、今日に限っては都岡高校を過ぎたあたりから、急に流れが悪くなった。
僕は右にウインカーを出し、ひかりが丘団地の信号を曲がった。遠回りになるので少し迷ったが、それでもコッチから行った方がたぶん早い気が――
「お、裏道か?」
いままで大人しくしてた熊沢が口を開いた。
「いるんだよな、裏道が大好きな奴が。で、この裏道は普通に行くより早いんだろうな?」
「……さあ、どうですかね」
僕は醒めた声で言った。
熊沢のほうを見ることはなかったが、彼がどんな顔をして僕を見ているのか想像するのは容易かった。
彼がどんな人間なのか、未だによくわからない。しかし、あまり性格がよいとは言えないということだけは疑いようがない。
なんだかんだで、こうして二人で車に乗ってる機会は多い。だけど、そのたびに僕は少しだけ気分の悪い思いをしている。
彼は僕が嫌がるだろうというトコロをピンポイントで突いてきた。そしてそれはいつでも突然で、僕に身構える猶予を与えてくれなかった。
ま……それはともかくとして――。
「なんなんですか、あれって」
僕は助手席を一瞥して言った。
熊沢は顔を上げたまま固まった……何のことだと言わんばかりの表情で。
しかし惚けているわけではないみたいだった。
僕はため息混じりに「カローラFXのことです」呟いた。
ああ、あれか――。
熊沢は合点したように口元を弛めた。
「言わなかったか? 車検までだって」
悪びれずにそう言うと前を指さした。
信号は青に変わっていた。僕はアクセルを吹かし、ゆっくりとクラッチを繋いだ。
車検が切れたら廃車にする――。
確かに熊沢はそう言っていた。だけどそれは車検を取らないということで、取れないという意味だとは思ってなかった。
しかし……あのクルマはでたらめなクルマだった。
ディーラーに入庫してはじめに車検証を確認したとき、エンジンは5A-FEと記載されていた。一五〇〇CCのハイメカツインカムだ。
だけど実際に積んであったのは4A-GE。一六〇〇CCのDOHCだった。しかもミッションは5速MTだったが、これもATから載せ替えていたことが判明した。
僕には理解ができなかった。エンジンに手を入れるのは邪道だと思っているが、それは僕だけの拘りだから他の人に押しつけるつもりはない。
だけど、チューニングのベース車としてカローラFXを選ぶセンスは「?」だった。もっと他にいくらでもいい車があると思うのだが。
しかも「違法改造車」として、ディーラーでは修理を受け容れてくれなかった。認定工場でもあるから当然だ。
「公認……取ればよかったんじゃないですか」
取れるのかは知りませんけど――。
「取る価値があるか? あのクルマに」
熊沢はそう言って笑った。
確かにイジリ甲斐があるとは言えないが、それを熊沢の口から聞かされるとなんだか腹が立つ。
「ま、取りあえずあのクルマはスキにいじっていいからな」
熊沢は言った。
恩着せがましく聞こえたのは気のせいではないと思う。それにたったいま「価値なし」の烙印を自分で押したクセに……。
はあ――。
僕はため息とも相槌とも言えない返事をした。
同時に、これから熊沢の下で本当にやっていけるのだろうかという不安が僕の中で渦巻いていて――
「ただし、だ。カネはかけるなよ」
ムダだからな――。
そう言った熊沢の表情はどこか嬉しそうに見えた。
***
「おかえり~」
帰宅した僕を祐未さんが迎えてくれた。
彼女は二階の窓から顔を出し、僕に向かって手を振っていた。
「すみません、遅くなっちゃって――」
僕はそれだけを言うと、シャッターを開けてクルマをバックでガレージに納めた。
そしてシャッターを下ろすと、助手席においてあった紙袋を掴み、そそくさと階段を駆け上った。
出勤初日の今日、祐未さんは僕の就職を祝ってくれるためにウチに来てくれていた。
僕としてはどんな理由であれ、彼女が来てくれることは大歓迎だった。
「鍵、渡しておいてよかったです」
僕は言いながら紙袋を彼女に差し出した。
初日から遅くなることはないだろうとタカをくくっていたが、念のためにと思って祐未さんに合鍵を預けておいた。結果としては本当によかった。家の前で待ちぼうけをしている彼女の姿を想像するとちょっと心が痛むし。
「そんなことより初日から大変ね」
祐未さんは僕が差し出した紙袋を両手で受け取ると、肩をすくめて微笑んだ。
僕はため息をひとつ吐くと「仕事で遅くなったっていうより……」と帰り際の出来事を短くまとめて彼女に話した。
いまからおまえの歓迎会をやるぞ――。
帰り際、熊沢が何の前触れもなしにそう宣った。
僕はソレをやんわりと辞退したが、熊沢は僕の心中を察することなく「カッシーニも呼ぶか」とか「城戸君も呼べ」などと言い出した。だから最後には「今日だけは絶っっっ対にムリです!」と強硬な態度で押し切って帰ってきた。
「――ま、自分勝手なんですよ。熊沢って人は」
僕は鼻で笑った。
「でも、今度は長続きしそうじゃない」祐未さんは笑った。
「……なんでですか?」
「だっていい人そうじゃない。そのクマザワさんて」
「……」
祐未さんは僕の話をちゃんと聞いてたのだろうか?
それはともかく、取りあえずシャワーを浴びさせてもらった。
遅れて帰ってきた分際で申し訳ないとは思ったが、肉体労働に従事している身としてはそこは譲れないルーチンでもあった。
とは言っても、今日は車の引き取りと掃除くらいしかして来なかったのだが。
シャワーを浴びてダイニングに戻ると、祐未さんはすでに缶ビールを手にしていた。
「も~、遅いから先に開けちゃったわ」
そう言った彼女は、心なしか頬が赤くなっているようにも見える。
僕は少し長いため息を吐いた。そしてまだ乾ききっていない髪を掻き上げ、彼女の向かいに腰を下ろした。
祐未さんと酒を飲むのは初めてだった。しかし彼女が「酒に強い人だ」ということは一弥君に聞かされた記憶があった。
あの頃は、僕の中の彼女と酒のイメージがどうしても結びつかなかった。
だけど、いま目の前にいる彼女は、間違いなく「酒豪」言われる部類に入る人なんだろう。
「あの……ちょっと飲みすぎなんじゃないですか……?」
「なに……? 私に指図する気……?」
「……いえ。べつに」
なんでもないです――。
僕は肩を竦めた。
一応彼女のことを気遣ったつもりだったのだが、彼女はそう受け取ってはくれなかったみたいだ。
「聖志ぃ、飲んでるぅ?」
僕は黙って頷いた。彼女も満足そうに頷くと、まだ封を切ってないワインに手を伸ばした。
ほろ酔いの彼女の手つきが危なっかしく思えて、その手からコークスクリューを取り上げた。そして代わりにコルクを抜くと、コップになみなみとワインを注いだ。
祐未さんはその一部始終を、満足そうな微笑を浮かべて眺めていた。
それにしても普段はまったく飲んでるところを見たことがなかったのに……まあ、それはそれで僕の知らなかった彼女の一面を見たような気がして悪い気はしなかったのだけど、なんだか保護者になってしまったような不思議な気分だ。
***
「ねえ、祐未さん! 祐未さんってば!」
僕は遠慮気味に祐未さんの肩を揺すった。
しかし彼女からの反応はなかった。テーブルに伏せたまま、小さな寝息をたてていた。
「マジですか……」
僕は時計に目をやった。
特別遅い時間ではないが、終電の時間を考えればギリギリといったところだった。もっともいまの彼女の状態では、終電に間に合ったからといって安心というわけではなさそうだった。
かといって彼女の家まで僕が送っていくというのもあまり現実的とはいえなかった。
祐未さんにつき合って僕自身も酒を飲んじゃっていたからクルマはムリだし、電車で送っていったら僕の帰りのアシがない。
「さて……マジでどうすっかな……」
口に出してそう言ったものの、どうするべきなのかは既に答えを出していた。
僕は立ち上がり、寝室に向かった。取りあえず、シーツを新しいモノに取り替えようと思った。
ダイニングに戻ると、相変わらずテーブルに伏せている祐未さんにもう一度声を掛けてみた。しかしやっぱり反応はない。
仕方がないな――。
僕は一礼すると、彼女の背後へと回った。
「じゃ、失礼します……」
そう呟くと肩を抱いて身体を起こした。そして彼女の右腕を僕の首のうしろに回し、そのまま抱え上げた。
その瞬間、彼女が耳元で何かを囁いたような気がした。
「……なんですか?」
僕は彼女の口元に耳を近づけてみた。しかし彼女が再び何かを言うことはなかった。
祐未さんを抱えた僕はそのまま寝室に向かった。
そして完全に眠ってしまった彼女を、シーツを交換したばかりのベッドの上にそっと下ろした。
「完全に眠っちゃってるよ……」
いい気なもんだな――。
僕はため息を吐くと、ベッドに横たわる祐未さんを見下ろした。
彼女は身じろぎもせずに寝息を立てている。いくらなんでも無警戒過ぎると思えるくらいに……。
「飲み過ぎなんですよ……」
まったく――。
僕はもう一度ため息を吐くと、指を伸ばして彼女の頬をつついた。
しかし相変わらず無反応だった。
僕はベッドの脇に立ったまま彼女を寝顔を眺めた。そう言えば祐未さんの寝顔を見るのはたぶん初めてで――。
そんなことに気付いたとき、祐未さんの無防備な唇が目に留まった。
艶やかに濡れた唇を目にしたその刹那、幾つもの衝動が僕の身体を駆けめぐった。彼女をモノにしたいという本能的な衝動が僕の身体を震わせて――。
ふと我に返り、僕は慌てて彼女から離れた。
マジで危なかった――。
僕は安堵を含んだため息を吐き出すと、ベッドを背にして床に腰を下ろした。
ちっぽけな理性が、僕のなかに眠る粗暴な本性をなんとか押しとどめてくれた。それはたぶん、一弥君に対する義理とは少し違っていた。
そして……同時に笑みがこみ上げてくるのに気付いた。
「やっぱ……もっと飲んどくべきだったよな……」
思ったより酔っていない自分を悔やんだ。
酒のチカラを借りなければ彼女をモノにする勇気すら持てない自分を悲しく嗤った。




