#003 Potential
真夜中の東名・横浜町田インターは空いていた。
昼間の渋滞がなんだったのかと思えるほどクルマの流れはスムーズだった。
料金所を抜けた僕は下り方面に向かうと、ギヤを上げアクセルを踏み込んだ。
東名高速道路を西へ。僕は箱根に向かっていた。箱根の十国峠を目指していた。
時計は既に日付が変わったことを示していたが、僕が予定していたより少し遅い時間だった。
それというのも、つい二十分ほど前、家を出る間際に由佳里に見つかった。
彼女は玄関先で僕を掴まえ「ドコに行くのか」と問いただしてきた。挙げ句に「私も連れて行け」と。
しつこく食い下がられたおかげで里穂さんにまで気付かれた。
普段の二人はあまりソリが合わないようだったが、今日ばかりは別だった。
二人はタッグを組み、玄関先で僕と無意味な押し問答を展開したが……仕方がないので最終的には強引に正面突破してきた。
彼女たちは僕を止める術など持ち合わせていなかった。
今日は父がいなかったというのも幸いだったのかもしれない。もっとも最近では父と顔を会わすことはほとんどないが。
厚木インターが近づいていた。
右端の車線を走っていた僕は、さらに加速すると出口の手前でギヤを落とし、左車線を走るトラックとトラックのあいだに車体を滑り込ませた。
本線から分かれて出口の大きな左カーブを抜けると、前を走るトラックをかわして右に寄った。そして料金所を通過すると、再びアクセルペダルを踏み込んだ。
目の前に続いている小田原厚木道路――。
そこには視界を遮るクルマの影はなかった。
小田原厚木道路の平塚料金所を過ぎたところで、運転席のウインドウを少しだけ下ろした。
隙間から吹き込む涼しい風が、車内にこもった熱を帯びた空気をかき混ぜてくれた。
しかし車内に清涼感をもたらしてくれた外の空気は、同時に咽せるような青臭い草の香りを運んできた。
僕はウインドウを上げて空気を遮断すると、気を取り直して再びアクセルペダルを踏み込んだ。
ヘッドライトが照らし出した道は漆黒の闇に向かって延びている。
アクセルを踏み込みながら背筋が奮えた。
できることなら、このままこの暗闇に取り込まれたいと思った。
小田原厚木道路はやがて西湘バイパスと合流し、さらに国道一号線と合流した。
国道一号線に合流してすぐのところにあるローソンに立ち寄った。
ローソンの前の道には、三台のAE86が隊列を組むようにハザードを点けて停まっていた。
そのなかに見覚えのあるクルマがあった。
目の醒めるくらい、真っ青に全塗装された車体――。
このAE86トレノは、城戸祐二のものに違いなかった。
彼とはしばらく会っていない。しかし懐かしくて話がしたいとは思えなかった。
面倒な奴。
それが僕が彼に抱いている印象のすべてだった。
僕は少し考えた。
他のコンビニに行くべきか――。
しかしこの先にコンビニはしばらくないし、それに祐二は仲間と来ているんだろうから、僕に気付かない可能性もある……迷った挙げ句、僕は店内に入った。しかしそれが甘い考えだということをすぐに思い知った。
「お! 北条か?!」
ツナギ姿の祐二は陳列棚の向こうから人懐っこい笑顔を僕に向けてきた。
僕はたったいま気付いたという風に軽く手を掲げた。
「おまえなにやってんだよ、こんなところで!」
わざわざコチラにやってきた祐二は、馴れ馴れしく僕の肩に手を置いた。
城戸祐二は、僕が以前勤めていた会社の同僚だった。
高校を卒業してすぐに就職した神奈川県内の自動車ディーラーで、僕と祐二は同期で配属先も同じだった。
その頃、一緒に箱根に走りに来たこともある。運転の技術もメカニックとしての腕もそれなりに持ち合わせている。しかし――
僕と目があった祐二は、屈託のない笑顔を向けてきた。
僕はそれに合わせるように微笑んだつもりだが、その表情が強ばっているのだろうということは鏡を見なくてもわかることだった。
社交的な彼が「悪い奴ではない」ということも知っている。
だが、その社交的な性格故に僕とは波長が合わないというのも事実だった。
レジを済ませて店を出ると、正面の路上には祐二たちのAE86が停まっていたが、祐二たちの姿はなかった。
嫌な予感が頭を掠めたが……。
予感は当たった。彼らは駐車場に停めた僕のクルマの周りに屯っていた。
三人とも揃いのツナギを着ているが、それと同じものを僕もまだ持っていた。
「お。ロールバーも入れてんじゃん」
祐二の仲間の一人が声を上げた。一番背の高い男が車内を覗き込んでいる。
もう一人の男は僕に断りもなくリヤフェンダーに手を掛け、「固え!」を連呼しながら下に向かって押している。
僕はため息を吐いた。
しかしそれを悟られないよう、努めてゆっくりとクルマに近付いた。
背の高い男が僕に気が付き、その彼の視線で祐二が僕を振り返った。
「おお――。まだ乗ってたんだな、これ」
祐二はそう言って僕のクルマを指さした。
「ああ」
僕は彼と目を合わせることなく言った。
「珍しいクルマだよね」
背の高い男はそう言って笑った。
僕は笑みが浮かんだ彼の顔を眺めていたが、その表情に他意がないのを認めると小さく笑みを返した。
AA63カリーナ1600GT――。
僕の愛車は自他共に認めるマイナーなクルマだった。
しかしエンジンはAE86と同じ4A-Gを積んでいるし、セダンという地味な外観も、剛性という点では少なくとも祐二が乗るハッチバックよりは優れていると思っていた。
そしてなにより僕はこのクルマが気に入っていた。
秘めたポテンシャルが世間一般に認められていないというのも、いまの自分の不遇さと一致しているようで妙な愛着があった。
「――十国だろ?」
声に僕は顔を上げた。
「いまから行くんだろ? 十国峠」
祐二は僕を見つめていた。
口元に薄い笑みを浮かべたまま僕を見据えていた。
ああ――。
僕は彼から目を逸らし、気のない返事をした。
「ちょうどよかった。俺たちもこれから行くんだよ」
祐二はまた僕の肩に手を掛けてきた。
「コイツは結構速えんだよ」
祐二は仲間に向かって言った。
そして「久しぶりに一緒に走ろうぜ」と僕に向かって爽やかな笑顔を見せた。
僕はため息が出そうになったが、それに気付く奴はここにはいないみたいだった。
***
「なんなのよ、マジですげえ速えーじゃん!!」
背の高い男が体つきに似合わない甲高い声で言った。
男は富井義和と言った。
彼も僕と同期入社組だったらしいが、配属された店が違ったせいか見覚えはなかった。
もう一人の少し小柄な方は湊朋文と言った。
彼も同じツナギを着てはいたが、自動車関係の会社で働いてるわけでないらしかった。
「なんであのスピードで突っ込めんの?!」
「だから言っただろ。コイツは意外とやる男なんだよ」
祐二は満足そうに呟いた。
彼が満足そうにしている理由は僕にはよく理解できなかった。
僕らは十国峠のパーキングにいた。
箱根の旧道から七曲がりを抜け、芦ノ湖に出て、箱根峠から十国峠に入った。
箱根峠まではしんがりを走っていたが、十国峠では祐二に促されて先頭を走った。
ここを攻めるのは久しぶりだったが、一時期通い詰めたこのコースを僕の体が覚えていた。
若干ブレーキングが甘くてアンダーが出ることもあったが、それでも僕の操るAA63はテールを流しながらコーナーを高速で駆け抜けた。
「ちょっと見せてもらってもいい?」
富井はAA63のボンネットを指さした。
僕は無言のままボンネットの前に立ち、角にあるピンを抜いた。
目の前にはシンプルなエンジンルームが現れたのだが――
「これってFRP?!」
ボンネットに触れた富井が声を上げた。
富井を押しのけ、湊が興味深そうに覗き込んできた。
「あ、地味~にダクトも入ってんじゃん。これって特注だろ?!」
「まあな」
僕は気のない相槌を打った。
富井の言うとおり、僕のボンネットはFRP製の特注だ。高校の先輩が作ってくれたものだった。
「なんか地味にカネ掛かってるな――」
富井と湊は僕の愛車を興味深そうに観察していた。
僕をそっちのけで僕のクルマについて語る彼らを、僕は不思議な気持ちで眺めていた。
その様子を黙ってみていた祐二が、突然クスクスと笑い出した。
「変わんねえな~、おまえは」
彼は不躾な視線を僕に向けてきた。
「いや、悪い意味じゃねえけど――。本当に人の輪に入るのが下手だよな」
祐二の言葉に僕は顔を背けた。
彼に言われるまでもなく、それは自覚しているつもりだ。
「おまえらもさ、北条をおれたちと同じ基準で考えるのは大間違いよ」
祐二は富井たちに向かってしたり顔で言った。
次の台詞が予想できて、僕はため息を吐いた。
「北条んちの親父は"インペリアルダイニング"の社長だからな」
祐二は僕が想像した以上の満足顔で彼らに僕の父を紹介した。
「インペリアルって……え、あのレストランのか?」
「おお。それよ、それ。コイツは次期社長ってわけよ」
富井と湊は顔を見合わせた。
「マジでか?!」「嘘だべ?!」
一拍おいてそんな声を上げた彼ら――。
それは本当に驚いてる顔だった。
僕は否定も肯定もしなかったが、正確には少し違っていた。
関東を中心に展開している外食チェーン『インペリアルダイニング』は父が代表を務める『北条興産株式会社』の中核事業ではあったが、それはあくまで北条興産の事業の一部に過ぎなかった。そして僕はそれを継ぐつもりなど微塵もなく、おそらく父も僕に継がせようとは毛頭考えていない。
僕ら親子の関係は、一般的な意味でのソレとは全く違うものだった。
「それよりさ、なんで井村は辞めたの?」
祐二は真顔で言った。
井村……絵里のことだった。
「辞めたって……会社をか?」
「なんだよ。おまえに言ってないのか」
祐二は眉を顰めたが、僕はさして興味がない素振りで「ああ」と短く答えた。
絵里が会社を辞めた理由……そんなこと僕にわかるはずもなかった。
「結婚するんじゃないのか」
「……誰がよ?」
投げやりに呟いた。
「誰がって……付き合ってるんだろ? おまえら」
「別れたよ。とっくに」
「え、そうなの?」
祐二は訝しげに口元を歪めた。
彼が何を言いたいのか、僕にはよくわからなかった。そんな僕の視線に気付いたように祐二は話し出した。
「いや、一ノ瀬っていただろ」
一ノ瀬……確か営業部のちょっとチャラチャラした奴だった。
僕の二年先輩だったはず……つまり絵里にとっては三年先輩ということになる。
「その一ノ瀬がやたらと井村にちょっかい出してたんだけどさ――、『北条と付き合ってるから付きまとわないで』みたいな事言ってたから、てっきりおまえと結婚するから辞めたもんだと――」
祐二はそう言いながら首を傾げた。
北条と付き合ってる――。
祐二の話では、絵里はそれをショールームに響き渡るくらいの大きな声で言ったのだという。
確かに一ノ瀬という男はしつこい男だった。
営業成績はそれなりだったと聞いたことがあるが「断られてからが営業だ」を持論にしているらしく、それを女を口説くときにも実践している、と別の先輩に笑い話として聞かされた記憶がある。そういえば、店に配属されてくる女を片っ端から口説いているというのも、当時は有名な話だった。
そんな一ノ瀬が「絵里にまとわりついていた」というのは想像に難くないが、もの静かな彼女がそれに対して声を荒げたというのは想像ができなかった。
しかもショールームのような場所で「僕らの関係」をばらすなんて……。
終わったこととはいえ、ちょっと考えられないことだった。
当時、僕と絵里の関係は二人だけの秘密のはずだった。
同じ職場で毎日顔を会わせる以上、周りの人たちに余計な気遣いをされることも煩わしかったし、勝手な詮索をされることも、僕としては勘弁して欲しかった。
それは彼女も同じだったようで、僕らは社内で二人きりになることを極力避けていた。
もっともショールームで受付をしている絵里と、工場で油にまみれる僕とが二人きりになるシチュエーションなんてそうそうありえなかったのだが。
しかし付き合い始めてから二ヶ月が経った頃、社内に僕らの関係を知らない者はいなかった。
見る人から見れば、僕らの関係は一目瞭然だったということだろう。
それでも僕らは二人の関係を認めようとはしなかった。たぶんあの頃は意地になっていたんだと思う。
そんな僕らの関係は、僕が辞表を出すまで続くことになった。
「どうせ暇なんだろ。電話でもしてやれよ?」
祐二は人懐っこい笑顔で言ったが、僕は何も応えなかった。
僕と絵里が別れた経緯についてははっきりしていない。ただ一方的に連絡を絶ってきたのは絵里の方だった。
いまさら僕の方から連絡をする気にはとてもなれそうもなく――
「意地張ったって意味ねえと思うよ」
祐二はそう言って微笑むと、僕の肩をぽんぽんと小気味よく叩いた。
「そんなところで頑張ってると、気付いたときには誰もいねえ……なんてことになっちまうぞ」
彼は僕に同意を促すような笑みを向けてきた。
その包容力のある視線に負け、僕は足下に視線を落とした。
祐二の言うことはもっともだった。
それは僕が異論を挟む余地がないくらいに。
だけど……僕は彼のこういうところが嫌いだった。




