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#038 相棒

「勘弁してくれよ……」

 ステアリングを握ったまま、僕は思わず呻き声を上げた。

 カローラFXのエンジンは完全に停止していた。

 南中の手前の交差点で町田街道を離れ、住宅街を抜けて成瀬駅を過ぎたところで突然エンジンが吹けなくなった。そして為す術のないまま止まってしまった。

 もっともその兆候がないわけではなかった。

 国道十六号線から町田街道に入ったあたりで既に……いや、家を出たときには……いや、そもそも考えてみれば、熊沢から借りてきた時点でドコかおかしかった。明らかにはじめから調子の悪いクルマだった。それはともかくとして――。

 僕は時計を確認した。時刻は四時を一〇分ほど回っている。つまり、あと一時間もしないうちに夕方の渋滞が始まってしまう可能性がある。

 すぐでも移動させるべきだったが、いまの僕はその手段を決定的に欠いていた。

 このクルマには工具と呼べるモノがない。ソレを取りに行く途中なんだから当然と言えば当然だ。しかもこのクルマには通常の車載工具でさえ存在しない……。

 そう思ったとき、僕のアタマに浮かんだ顔はひとつしかなかった。

 僕は路肩にクルマを残したまま駅前まで走ると、公衆電話から記憶している番号へと連絡を入れた――。




 僕はカローラFXのリヤハッチにもたれ、成瀬駅の方を眺めていた。

 さっきから道行く車が迷惑そうな視線を僕に向けてきたが、僕は感情の扉を固く閉ざし、そんな視線に対して無関心を装った。

 さっさと来ないかな――。

 僕は左手に嵌めた時計を窺った。電話した時間から逆算して、そろそろ到着してもいい頃だった。


 僕が連絡を入れたのは元職場でもあるディーラーだった。

 エンジンが止まった理由が何であれ、あそこには積載車がある。取りあえずこの場所から移動させるには祐二を呼び出すのが一番手っ取り早かった。

 ただ、電話を掛ける瞬間には少しだけ緊張した。

 あそこにはあまり僕をよく思っていない連中が少なからず存在している。だから電話に出た人間が僕が望まない人だったら偽名を使おうとすら思っていた。

 しかしそんな心配の甲斐もなく、受話器の向こうから聞こえてきたのは内藤さんの"営業用の声"だった。

 彼は相変わらず「元気でやってるのか」とあまり意味があるとも思えない言葉を僕にぶつけてくると「ちょっと待ってろよ」と言って電話を保留にした。

 保留中の受話器から流れてくるメロディ。

 それがビートルズの曲だと言うことはわかったが、曲名までは思い出せない。というよりたぶんはじめから知らないのだろうけど。

「――なんだよ、珍しいな」

 メロディが突然ちぎれ、祐二の声が聞こえてきた。

「おまえから電話をくれるのなんていつ以来だっけ?」

 祐二の舌はいつも以上になめらかだったが、僕はそれを遮り「成瀬駅の近くでクルマが故障したから積載車で引き揚げに来てくれ」ということを端的に伝え、受話器を置いた――。


 やがて僕の視界に見覚えのある積載車が現れた。運転席にいるのは祐二だった。

 積載車は僕の目の前を通り過ぎたところで路肩に寄り、バックでカローラFXの前に停止した。

「なによぉ、北条ともあろう男が立ち往生かよ」

 運転席から降りてきた祐二はなぜか嬉しそうだった。しかしそれに付き合ってるヒマなどなかった。

 僕は「工具がない」と言うことと実家に向かっている途中だったと言うことを祐二に話した。そして「取りあえず、ココから移動させたい」と告げると積載車の荷台によじ上り、リモコンを操作しながらウィンチのワイヤーを弛めはじめた。


 カローラFXを積載車に無事積み込むと、取りあえず実家に寄ってもらった。

 故障した現場から実家までは、車では五分ほどで辿り着く位置だった。しかしそれはあくまで「車だったら」という話で、歩いて往復する気には到底ならなかった。

 家には母しかいなかった。彼女と顔を合わせるのは退院の日以来だった。

 工具箱を取りに来ただけの僕だったが、彼女の方は僕に話したいことがあったみたいだった。

 僕としても、つい数時間前までは、晩飯くらいは実家でご馳走になって……なんて考えていた。だけどいざ実家に辿り着いてみるとそんな気はまったくなくなっていた。一度家を出た僕にとって「北条家の敷居」は思っていたより高いものになってしまったようだ。

 僕は「人を待たせているので、また来ます」とだけ告げると、祐二を促し実家をあとにした。



「取りあえずは……このまま入庫すんぞ?」

 走り出してすぐに祐二が呟いた。

 僕は渋々ながら頷いた。

 できることなら元職場あそこには顔を出したくなかった。しかし積載車を呼び出した以上は仕方のないことだった。祐二に電話しようと思った時点で覚悟はできていた。

 僕は狭い車内を見渡してみた。

 見慣れた車内には興味を引くモノはナニもなかったが、ただフロアに染みたオイルの匂いが妙に懐かしかった。

 そしていま走っているのは、かつての僕の通勤路だった。それが余計に懐かしさを感じさせ、古巣に向かっている僕の緊張を煽っているような気もした。

「おそらく燃料系……だと思う」

 僕は訊かれてもいないのにそう言った。

 祐二は前を見たまま「そうか」と呟き、ふっと息を吐いた。

 その仕草が、まるで僕の緊張を感じ取ってのことのように思えて僕は気恥ずかしく感じた。

「なあ。興味本位の質問なんだけど、いいか?」

 祐二が僕の方を窺ってきた。

 僕は何も答えなかった。しかし彼はソレをOKと判断したようで「おまえってナニ目指してんの?」と笑顔で聞いてきた。


 あまりに漠然とした質問――。

 僕は答えに詰まった。


「おまえって変わり者だからさ、意外と敵も多いけど、"走り"に関しては本物だとオレは思ってる。もちろんメカとしての腕も、な」

 ジッサイ、同期の中ではトップクラスだったと思うしよ――。

「だけど、最近なんだかおかしかったじゃん。それでみんな心配しててさ――」


 祐二は真顔で言葉を続けていたが、僕は小さく首を傾げたままそれを聞き流していた。

 彼に言われるまでもなく、いまの僕は以前までの僕とは違っている。

 走りに対する情熱が失せてしまったとは思ってない。だけどいまの僕は怖さを少しだけ知ってしまった。

 他人より少しだけ麻痺している恐怖心――。それが僕の走りを支える源泉だった。だけど、ほんの少しの怖さを知ってしまったいま、ソレを知る前と同じ走りはできそうもない。

 そう考えると、いまの方が「人としては」幾分まともになったのかもしれない。


「――でも、実はそれほど心配してなかったんだ、おれはね」

 そう言うと祐二は僕の方に顔を向けて口元を弛めた。

「なんつうか、以前まえよりいまの方がいいと思ってる。なんつうか……いまの方が人間くさいっていうか、な?」

 ちょっと前のおまえは酷かったしな、自分勝手でよ――。

 祐二はわざとらしく顔を歪めた。


「それほどでもないだろ……」

 僕は彼の視線を切ると小さく鼻で笑った。

 祐二の言葉……それは僕を褒めているようで微妙に貶しているようにも思えた。だけど不思議と腹は立たなかった。


 前方の信号が黄色になった。

 祐二はギヤを落とし、エンジンブレーキを効かせながら停止線ギリギリの位置に積載車を止めた。

 そういえば僕がまだ新人だった頃、こうして二人で修理車を引き取りに行くことがよくあった。

 それはだいたい遠くの現場が多かったから、誰も行きたがらないから僕らに押しつけたんだ、とあの頃は思っていた。

 だけどいまにして思えばちょっと違ってたような気がする。

 あの頃の僕らにできるのはそれくらいしかなかったのだ。たぶん、メカニックとしてはあまり戦力にはならなかったと言うことだったんだ。 


「で、本当のところ、いまのおまえはナニを目指してんの」彼はもう一度言った。

「いつまでも公道ってわけじゃないんだろ?」

「……まあな」

 取りあえずそう答えてから、僕は考えを巡らせた。しかしいまの祐二の言葉に「特別な意味」は込められていないみたいだった。

 僕が走り始めたことに理由なんてなかった。

 ただクルマが好きなだけで……まあ、子供の頃には「F1レーサーになりたい!」なんて無邪気なことを考えていたこともあったけど。

 だけどそれはあくまで夢であって、本当になれるなんて考えてたわけではない。ましてやその為の努力をしてきたわけでもない。

 それでも僕は走ることが好きだった。ギリギリのスピードでコーナーを駆け抜けるときの爽快感が好きだった。

 ひとつのミスが命取りになる、まさに「死と隣り合わせのスリル」に心の底から酔っていた。寧ろ「どうせいつか死ぬのなら、いっそこのまま……」という考えが、いつも僕の頭の片隅に張り付いていた。

 何の盛り上がりもない僕の生活のなかで、極限までアクセルを回すその一瞬だけが、僕が僕でいることを強く自覚させた。死を意識することではじめて生きていることを実感できた。

 ま……そう考えると、僕がいかれた人間だったということは疑いようがない。

 一弥君から誘いを受けたのはそんな頃だった。既に四輪に転向していた彼が突然「一緒にパイクスピークを走ろう」と言い出した。

 パイクスピーク国際ヒルクライム――。

 毎年アメリカで開催されるラリーアメリカの公認レースだったが、あの頃の僕はその名前を知らなかった。だから熱っぽく語る一弥君とはずいぶんな温度差を感じていたものだったが。

 だけど、いつしかそれは僕の目標になった。後付ではあったけど、あてのなかった僕の「生き方」を肯定してくれる理由がようやく見つかった気がして――


「そのうち教えてくれよな」

 祐二の声に僕は顔を上げた。

 そのとき目の前の信号が青に変わった。

 彼はクラッチを踏み込むとギヤを1速に入れ、ゆっくりと積載車を発進させた。

「ま……気が向いたらでいいからさ」

 祐二は口元を弛めた。

 それ以上、僕に何かを喋らせるつもりはないみたいだった。


 祐二という男に対する僕の見方は、一緒に働いていた頃といまとではだいぶ違ってきていた。

 当時は面倒な奴だと思っていたが、意外と周りに対する気遣いができる奴なんだと最近では感心することもあるくらいだ。


「……」

 僕はふと思った。

 僕と彼が組む可能性について。

 いつか一弥君が僕をパートナーとして認めてくれたように、僕が祐二とコンビを組んでパイクスピークに挑戦する可能性って……。


 たぶん、ないな――。

 あまりに現実感に乏しい空想に、僕は思わず口元を弛めた。



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