#033 リセット
何もないガレージは広かった。
あるべきはずのものがそこにないという現実――。それを受け容れるのはなかなか難しいことなんだとあらためて思う。
僕は大切にしていた相棒を失った。
車体に大きなダメージを負ったAA63は、事故後すぐに警察署内へと運び込まれていた。
だけど僕は警察署に足を運ぶことはなかった。祐二が用意してくれた書類に判を押し、そのまま廃車の手続きを取った。
"その日のうちに解体屋に運び込まれた"
そう聞かされたのはそれから数日後のことだった。
なぜ、最期にもう一度会いに行かなかったんだろう――。
自分でも不思議だった。あんなに大事にしてたはずなのに。
ただ、いまは心にぽっかりと穴が開いてしまったような気分だった。
あんな走りを繰り返していた以上、いつかはこんな日がくるんじゃないかと漠然と考えていた時期もある。
だけど唐突にそれが訪れたいま、僕を包み込む喪失感は僕が想像していたものよりはるかに大きく、そしてつらいものだった。
心に刻まれた小さくて深い疵――、この感覚に慣れるのは容易なことではないかもしれない。
そして……この疵が完全に癒える日はたぶん訪れないような気がする。
僕はガレージのシャッターを開けたまま、イスに腰を下ろして陽が落ちかけた空を眺めていた。
なんだか爺さんになってしまったんじゃないかと錯覚してしまう。
まだ体中の所々に痛みは残ってる。
鎖骨もくっついてるわけではない。
だけど日常の生活にはそれほどの支障はないくらいにまで回復していた。
そして……無事に退院はできたものの、いまの僕はあまりに暇だった。
入院している間に、僕は運送会社をクビになってしまった。
考えてみれば仕方のないことだ。
走り屋狩りに出くわすと言う不運はあったものの、峠で自爆して警察の厄介になった長期休養中の一アルバイト。それをつなぎ止める理由なんてあるはずもない。
僕としても、そろそろ辞めようかと思ってた頃だったからちょうど良かったのかもしれない。
あのままいたら、おそらく僕はカキタをぶん殴っていたのだろうし。
そういう意味では"加害者"として警察にお世話になる前に辞められたのは寧ろ"いいこと"だったのかもしれない。
そしていいことと言えばもうひとつ――。
「――こんなところでなにしてるの?」
目の前に現れた彼女は、そう言って僕を見下ろした。
「そろそろだと思ってココで待ってたんです」
僕は椅子に座ったまま目を細めた。
視線の先には買い物袋をぶら下げた祐未さんが立っていた。
僕は立ち上がって彼女に歩み寄り、買い物袋に手を伸ばした。
彼女は僕の怪我を気遣うように「大丈夫だから」と言ったが、僕は笑って首を振り、彼女の手から袋を取り上げた。
右手はまだ自由が利かなかったが、左手はほとんど問題がない。ただ利き手じゃないからちょっと不自由には違いなかったのだが。
「――それにしても……見事に何にもない部屋ね」
初めて僕の部屋に足を踏み入れた祐未さんは、室内を見回し呆れたように口元を弛めた。
確かに何もない部屋だった。生活に必要なモノがすべて揃っているとは言い難い。
しかもいまでは一階のガレージも空っぽで、もし仮に空き巣が入ったとしても、あまりの物の少なさに閉口するに違いない。
それでもいままでは「家にいる」こと自体がほとんどなかったから困ることはなにもなかった。
でも、これからはココにいる時間も増えそうな気がする。それは予感というより、希望に近いモノだったのかもしれないが。
「パスタでいいよね?」
キッチンに立つ彼女が僕を振り返った。
僕は大きく頷いた。祐未さんに「いい?」と聞かれてダメなわけがない。ただソコにいてくれるだけでもいいくらいなんだから。
彼女は夕飯を用意してくれるためにウチに来てくれていた。
右手が使えず不自由な僕を気遣ってくれたようで、彼女の方から言い出したことだった。
夕飯ができるのを待つあいだ、僕は床に腰を下ろして雑誌を広げていた。
しかしその内容についてはほとんど頭に入ってこなかった。
僕はずっと、夕飯の支度をする彼女の後ろ姿に気を取られていた。キッチンから聞こえてくる音に耳を澄ましていた。
「美味……」
思わず呟いた僕の言葉に、祐未さんの顔がほころんだ。
「ホントに……?」
「ええ、美味いですよ。僕、味覚だけは人よりちょっといいと思ってますけど……ホントに美味いです」
僕は左手に持ったフォークでパスタを口へと運んだ。
トマトソースのよく絡んだ細めのパスタは、少なくとも僕の味覚にがっちりとはまった。
「聖志にほめられると、なんだか調子にのっちゃいそうだわ」
彼女は照れたような笑みを浮かべた。
その笑顔に釣られるように、僕も笑った。
食事が終わると、祐未さんはすぐに食器を洗い始めた。
僕はその横でコーヒーを淹れるための準備を始めた。
彼女は「私がやるわよ?」と言ったが、僕は笑ってそれをいなすと冷蔵庫からペットボトルに入った水を取りだした。
やかんに水を注ぎ、コンロにかけて火を付ける。そしてドリッパーにペーパーフィルターをキッチリとセットして、棚からガラスの瓶を引っ張り出した。
「いい匂いね」
祐未さんは瓶に顔を近づけた。
パッキンの付いたフタを開けた途端、部屋に広がるコーヒーの香り……店の人はこれを「ローストナッツの香り」だと言っていたが、それは僕にはよくわからなかった。
細挽きの豆をフィルターに入れると程なくやかんの湯が沸いた気配があった。
「聖志が淹れたコーヒーって久しぶりね」
祐未さんはカップを両手に持ち、ふーふーと息を吹きかけている。
「あ。熱かったですよね?」
彼女は猫舌だったということをいまさらながら思い出した。
「大丈夫。でも……ちょっとイラっとする美味しさだわ」
彼女は独特の言い回しで僕が淹れたコーヒーをほめてくれた。
特別なコトをしているわけではないが、水と豆には拘っている。特に水については、以前の上司に教えてもらった丹沢の湧き水で、いまでもなくなりそうになると18Lのタンク二つをクルマに積んで汲みに行ってる。
その水はもっぱらコーヒーを飲むときの為のもので、それ以外には使ってない……まあ実家にいたときには由佳里が隠れて飲んでいたのは知っていたのだが。
それはともかくその水ももうすぐなくなる。だけど汲みに行くにもいまの僕には「アシがない」という現実が少しだけ気分を重くしている。
「いつもご飯はどうしてるの?」
祐未さんは言った。しかしそれは僕の食生活を心配しているという感じではなかった。
「その日によってマチマチです。帰りが遅い日は外食ですけど」
「じゃ、それ以外は自炊?」
「ですね」
「ふ~ん。どんなもの作ってるの?」
「どんなって……高カロリー炒飯とか高カロリー回鍋肉とか……」
「ビーフシチューは?」
「は?」
「最近は作らないの? すっごく美味しいって聞いたんだけど……」
聞いたって誰に……とは言っても思いつく顔は二人しかいない。
「作ってないです。時間もないですし」
あれを作るのは凄く時間が掛かる。
あれを作るときの僕はいつだって本気だから片手間に作ることなんか絶対にできやしない――
「じゃ、今度ご馳走してもらおっかな」
能天気な言葉に僕は顔を上げた。
「だってしばらくはヒマなんでしょ?」
彼女は笑いながらそう言ったが、それは僕にとってはやんわりとキツい言葉でもあって……でも、まあいいか。
僕は近々「ビーフシチュー」を振る舞うことを約束し、代わりに僕の腕が治るまでは祐未さんが僕の晩飯の面倒を見てくれるという、僕にとっては断る理由のない約束を交わした。
その後も彼女は矢継ぎ早に話題をふってきた。
しかし僕が怪我を負った事件――、いや事故について話題にすることはなかった。あまりに不自然だと思えるくらいに。
彼女が意図的に「その件に触れること」を避けているのだろうということは考えなくてもわかることだった。きっと彼女からすれば、あの日の僕の行動自体が「彼女に対する裏切り」みたいなものだと感じているはずだ。
あまりにも簡単に約束を反故にした僕――、それを看過してくれるほど彼女は甘い人間ではなかったはずだし。
だから病院で最初に彼女と顔を合わせたとき、僕は罵倒されることを覚悟していた。
あれほど「危ない運転はするな」と言われていたにもかかわらず、大垂水峠なんて言う場所で自爆した僕……何を言われても文句は言えないと覚悟していた。
だけど彼女は何も言わなかった。ただ僕と目が合うと、ふっと頬を弛め、声を出さずに何かを言った。
ばか――。
口の形から読み取れたのはそんな言葉だった。
安堵が溢れ出したような優しい表情の彼女が言った「ばか」という言葉……なぜだか僕の胸に強く響いた。
強く罵倒されるよりも、よっぽど僕の心を強く揺さぶった。
僕は何かを言おうとして口を噤んだ。上手く言葉が出てこなかった。何かを言わなければと強く思うほど、それが言葉になることはなかった。
このときになって初めて、僕は彼女との約束を軽く考えていたことを深く反省した。
「ごめんなさい――」
僕は頭を下げた。
彼女は小さく頷いてくれた。その一言で全てを理解してくれたようだった。
「じゃ、そろそろ帰ろうかな」
祐未さんは独り言のように言った。
「え……帰っちゃうんですか?」
「うん。聖志の反省の言葉も聞けたしね」
彼女はそう言って微笑した。
「本当に一人で平気よ?」
彼女は言ったが、僕は耳を貸さなかった。
駅までの道はそれほど寂しいわけではなかったが、それでもこんな時間に一人で帰すのは気が引ける。
ちょっとコンビニに用があるんです――。
僕はそう言って勝手に彼女のあとをついていった。
ガス山通りの坂道を二人並んで下っていく。
思っていたより勾配がきつい。
祐未さんはこの坂を上ってウチに来てくれた。そう考えると嬉しい反面、少しだけ申し訳ない気持ちになってくる。
「車がないと不便?」
祐未さんが僕を振り返った。
僕は頷き「もちろん不便です」と表情を変えずに言った。
「でしょうね」
彼女は僕の答えがわかっていたかのようにそう呟くと、また前を向いて歩き出した。
僕は彼女の後ろを歩きながら、いまの問いにどんな意味があるのだろうと考えてみたが、明確な答えが出る気配はまるでなかった。
そしてつかず離れずの距離を保ったまま、山手駅へとたどり着いた。
「結局送ってもらっちゃったわね」
彼女は僕を振り返ると、少し不満そうに呟いた。
「気にしないでください。ココに用があっただけなんで」
僕は駅前のコンビニを指さした。
彼女はコンビニを一瞥すると僕に向き直り小さくため息を吐いた。
「なんだか病人を連れ回しちゃった気分だわ」
「いや、だから病人じゃないんですけど……」
僕は言ったが彼女は取りあってくれず、「また明日ね」と微笑むと僕に向かって手を振った。
僕は改札に吸い込まれていく祐未さんの後ろ姿を見送った。
彼女は一度だけこちらを振り返り、もう一度手を振ってくれた。僕も左手でそれに答えると、彼女は肩をすくめるように笑みを浮かべ、僕の視界からいなくなってしまった。
行っちゃった――。
僕はため息を吐いた。そして灯りに吸い寄せられる虫のようにコンビニに向かった。
店内に入ると惰性で雑誌の陳列棚へと向かった。
そこにはいつもは必ず手に取る雑誌があったが、いまはそれを見る気にはならずに通り過ぎる。
僕はアテもなく店内を一周した。
なんともいえない寂しさを感じている。ただ、明日も祐未さんに会えるという約束だけが、いまの僕には支えになっていた。
店内をくまなく歩き回った僕だったが、とくに欲しいモノは見当たらず、仕方なく500ミリリットルの牛乳パックをひとつ掴んだ。
「――こんにちは」
コンビニを出たところでそんな声が聞こえ、僕は反射的に振り向いた。
ソコには真っ白なVFRが停まっていた。
そして……その傍らには涼しげな笑みを浮かべた神藤泰昭の姿があった。




