#032 キレイゴト
「走り屋狩りぃ?!」
城戸祐二は店内に響き渡るような大声を上げた。
店内の疎らな視線が祐二たちのテーブルに集まった。
「――声がでけえよ」
湊朋文は腰を浮かせかけた祐二を両手で制すと顔を顰めた。
「まあ、オレも聞いた話だから詳しくは知らないけどな」
湊はそう言うと、細かく切り刻んだハンバーグを無理矢理頬張った。
まるでそれ以上の質問には答えられないという意思表示のように見えた。
北条聖志が大垂水峠で「走り屋狩り」の被害に遭ったという話は、翌日には祐二たちそして熊沢たちの耳に入っていた。
そして翌々日の新聞には、事件の詳細と逮捕された自称右翼団体構成員の小さな顔写真が載った。
しかし記事の内容は必ずしも被害者に対して好意的な内容とは言い切れないもので、そのことが祐二たちの気分を害していた。
「それにしても、何で大垂水峠なんかにいたんだろうな……」
腑に落ちないという風に湊が呟くと、祐二もまるで心当たりがないとでも言うように首を傾げた。
「ついてないよな、あいつも」
湊はそう言うと、口元だけを微かに弛めた。
彼らは聖志が大垂水峠をホームにしていたことを知らなかった。だから彼が巻き込まれた今回の事件についても、偶然そこに居合わせたと言う程度の認識しかなかったのだ。
「で、どうするよ?」
湊は祐二を窺った。
「なにが?」
祐二はフォークを手にしたまま首を傾げた。
「お見舞いに決まってんべ」
他に何があるんだよ――。
湊は怪訝そうな目を祐二を向けたが、祐二はそれに気付かぬふりで小さく息を吐いた。
「お見舞いねえ……」
祐二は苦笑すると、テーブルの上のグラスに手を伸ばした。
「なんだか複雑みたいね……あいつんちって」
そう言ってグラスを顔の前に翳した。
***
「ちょっと、ムリしないで――」
祐未さんは慌てて僕の方に手を伸ばしてきた。
「平気ですよ。このくらい――」
僕はベッドの上で身体を起こそうと試みたが、体中に痛みが走っただけで思うようには動いてくれなかった。
「ほら……まだムリよ。病人は病人らしく寝てなさい」
祐未さんはそう言って微笑した。
「病人じゃなくて怪我人なんですけどね……」
僕は言ったが、彼女は同じようなモノだと間違いを認めようとはしなかった。
ベッドに仰向けになったまま、僕は天井を見つめた。
いつかこんな光景を想像していたこともあったような気がする……だけど、思ったほど悪くはない。
頭が少し重い感じがする。ちょっと強く打ったらしい。
右腕が上がらない。どうやら鎖骨が折れてるという話だ。
でもそれ以外には特に問題はない。寧ろいまは僕にとって諸手を挙げて歓迎したいくらいの状況だった。
「リンゴ食べる?」
祐未さんはそう言ってリンゴを手に取った。
「はい。食べさせてくれるなら」
怪我人ですから、僕は――。
僕は挑戦的な笑みを浮かべてそう言った。
彼女はクスッと笑うと「ちょっと待ってて」と、慣れた手つきでリンゴを剥きはじめた。
そんな彼女の横顔を見ながら、僕は妙に満たされた気分になっていた。こんな状況が続くなら「鎖骨の一本くらいくれてやってもいい!」と本気で思えるほどだ。
この病院に運び込まれて五日ほど経っていた。
一昨日、警察の人間が来て簡単な話を聞かれたから、僕の身に何が起こったのかということも大枠としては理解できていた。
僕はいわゆる「走り屋狩り」に遭ってしまった……のだそうだ。
それで事故ってこの病院に運び込まれ、目が醒めたのは三日目の朝だったらしい。
真っ白な部屋で目を覚ましたとき、ベッドの傍らでは里穂さんがぽろぽろと大粒の涙を流していた。
相変わらず大袈裟な人だと思ったが、二日間は眠ったままだったらしいから、本当に心配をかけてしまったのだろう。
ただ、僕としてはこんなに眠ったのは何年ぶりだろうと皮肉にも思い、そしてそれを憶えていないことがもったいないと悔やんだりもした。
そして由佳里が顔を出したのは、僕が完全に目を醒ましてからのことだった。
思いのほか元気そうな僕に拍子抜けしたのか、それとも心配し過ぎがオーバーフローして怒りに変わってしまったのか、彼女は僕を見るなり凄い剣幕で怒り始めた。
彼女が並べ立てた罵詈雑言の中に「こっそり出ていきやがって」というようなフレーズが三回も出てきたから、僕が置き手紙を残して出てきてしまったことにかなりのご立腹だったようだ。
そう考えると、いくら「遅くなってしまった」とは言っても、やっぱりあの日は実家に顔を出すべきだったのかもしれない。
そうすればこんな事件に巻き込まれることはなかったわけだし、痛い目に遭わずに済んだわけだし。
でも……それでは祐未さんに看病してもらえないから、もし時間が巻き戻ったとしても僕はやっぱり大垂水に行ってたのだろう。我ながら正気の沙汰だとは思えないが。
「はい。どうぞ――」
祐未さんはそう言って楊枝の刺さったリンゴを僕の口許に近づけた。
「すみません……」
僕は顔を近づけ、リンゴを半分だけかじった。
楊枝に残った方のリンゴに血が付いたりしてないかが気になったが、綺麗な歯形の付いた切断面にはそれらしきモノは見当たらない。
僕は歯が丈夫だと言うことに少しだけ感謝したくなった。
そして残りのリンゴに食いついたとき「そんなに慌てなくても……ゆっくり食べなさい」と祐未さんは苦笑しながら諭すように言った。
僕が入院して以来、祐未さんは毎日僕の元に来てくれている。彼女とこんなに長い時間一緒にいた記憶はいままでなかった。
昨日までは里穂さんもいた。僕の入院を祐未さんに知らせたのは彼女だったらしい。
しかし二人が言葉を交わすことはないみたいだった。少なくとも僕の前では顔を合わせることさえ意図的に避けているかのようだった。
僕は目を閉じ、小さく息を吐いた。
おそらく何日かすると僕は晴れて退院の運びとなるのだろう。
つまり祐未さんを独占できるのもあと僅かってことなんだけど――。
「そういえば……」
僕は祐未さんを窺った。
「いいんですか? ずっとこんなところにいて」
「……どういう意味?」
彼女は僕を見つめたまま小さく首を傾げた。
「いや、一弥君のところに行かなくていいのかな、と」
ああ――。
彼女は少しの間をおいてから興味のなさそうな返事をした。
そしてうっすらとした笑みを浮かべ、僕から目を背けた。
「あそこにいてもしてあげられることなんて何もないし」
彼女の横顔に浮かんでいたのは愁いを帯びた笑みだった。
深い絶望を帯びたあきらめのいろだった。
「そんなこと……ないと思いますよ、たぶん」僕は言った。
「一弥君にもきっとわかってるはずです。ただ言葉にはできないってだけで……」
そう言い終えたとき、彼女は小さく頷いた。そして小さな声で「ありがとう」と呟いた。
その一連の仕草を目にしたとき、何故だか僕は胸が強く締め付けられるような気がした。
「じゃ……顔出して来ようかな。聖志にも励まされちゃったし」
祐未さんは舌を出した。
僕の胸はさらに窮屈になった気がした。善人ぶって余計なことを言った自分に腹が立った。
「また明日、ね」
祐未さんは右手を伸ばして僕の頭を撫でた。
僕はその手にそっと触れた。
子供扱いされたことに凹む間もなく、僕は自由が利く左手で祐未さんの手を掴んでいた。
彼女は何も言葉にしなかった。
一瞬だけ逡巡するような表情を浮かべたが、何も言わずに左手を僕の手に重ねてきた。
祐未さんの手は小さかった。壊れそうなくらいに華奢で、そして暖かかった。
本当は強く握りしめたかったが、チカラが入らなかった。だけど僕はずっとこのまま――
「――うぃ~す!!」
突然の来訪者の声――。
僕らは繋いだ手を慌てて離した。
「よ! 大丈夫か?」
その声を聞いた瞬間、僕は本当にキレそうになった。おまえらは毎回邪魔しやがって――。
「じゃ……また明日、ね」
祐未さんはそう言って手のひらを翻した。
来訪者たちに軽く会釈すると、彼らと入れ替わるように部屋を出ていった。
僕の至福の時間はこうして終わりを告げてしまった。この"間の悪い奴ら"のお陰で……。
「いまのって、このあいだの人だよなっ?!」
富井は言ったが……なぜそんなデカイ声を出すのか理解ができない。
「悪い。また邪魔しちまったな?」
祐二が呟くと、彼らは一様にバツの悪そうな笑みを浮かべた。
僕は彼らから目を逸らし「べつに……」と努めて感情を抑えていった。
いまの僕は、彼らのあまりのタイミングの悪さに、怒りを通り越して悲しくなっていた。
「ところで身体の方は何ともないのか?」
祐二は真顔でそう言った。
僕は彼の真剣そうな目を見て大きくため息を吐いた。
「……何ともないように見えるのかよ、この状況が」
いまの僕はどう見たって立派な怪我人だった。
「鎖骨が折れてる。あばらは無事らしいが痛みはある。頭痛もある。結構強く打ったらしくてな。それから……」
「いや。もういい」
悪かった――。
祐二は僕に向かって手を合わせたが……縁起が悪いのでそれもやめて欲しい。
「それよりホントに災難だったな」
湊が眉間に皺を寄せた。
「なんか酷い状況だったらしいじゃん。マジでその程度で済んでよかったって言うか――」
彼はいつになく饒舌だった。事故当時の状況にずいぶんと興味を持っているみたいだった。
僕はあのときのことはハッキリと憶えていた。
男が飛び出してきた瞬間、テールが流れた瞬間……そして制御不能になったAA63の運転席から目にした男の顔。あの狂気と悪意に満ちた表情は僕の目に焼き付いている。
しかし、僕の事故は明らかに自爆だった。
走り屋狩りに遭遇したというのは間違いがなかったが、彼らは僕に指一本触れていない。
確かにコーナーで突然飛び出してきたのは「僕の走行を妨害する」意図があってのことなんだろうけど、もし飛び出してきたのがあの男じゃなく「鹿」だったとしても、僕はおそらく同じような事態に陥っていたのだろう。
結局、僕は咄嗟の出来事に対応ができなかった。想定外の出来事にパニックに陥ってAA63を制御することができなかった、ということになるのだが……あ!
「ん……なに?」
「あ、いや……AA63はどこにあるんだろ、と思ってさ」
車体の損傷は激しいはずだった。おそらく自走は不能だったのだろうと――
「全損だってよ」
「え……?」
「警察署まで運んだレッカー屋が熊沢さんの知り合いらしいんだけど『ありゃダメだ』って言ってたらしいぞ」
湊は遠慮のない言葉で言った。
彼の頭には「オブラートに包む」とか「間接的な表現」とか言うものはないらしい。それにしても……。
「全損か……」
僕はふっと息を吐き、湊の言葉を反芻した。
その可能性については頭になかったわけではない。
寧ろ可能性としては高いような気もしていた。
しかし事実としてあらためてそれを突きつけられると、何とも言えない寂しさが胸に迫ってくる――。
「……全損、だってさ――」
もう一度、自分に言い聞かせるように言葉にしたとき、どういうわけか笑みがこぼれた。
全然可笑しくなんかないのに……なぜかこみ上げてくる笑みを抑えることができなかった。




