#030 改名
青木橋から国道一号線に出たとき、時計の針は九時を少し回ったところを指していた。
家を出てすぐに"ガス山通り"と呼ばれる坂道を下ってるとき、車内の時計は九時のちょっと前を指していたから、ココまで五分くらいで到着したということになる。
ガス山通りの坂を下りきり、本郷町の商店街に出たときから思っていたことだが、今日は道が空いている。
日曜のこの時間の交通量が通常どの程度なのか知らないが、普段の通勤の時と比べると信じられないくらいの空き具合だ。
そしてこんな時間に僕が活動を始めるなんて、たぶん引越のとき以来。
その貴重な日曜日の朝、僕は都内に向かっていた。国道一号線を都心に向かってクルマを走らせていた。
空は薄曇りだった。
妙に明るくて、雨が降りそうな感じはないが、空一面が真っ白な雲で覆われている。
なんだか眩しい――。
陽の光が白い雲を通して乱反射しているようで、フツウに晴れてるときよりも却って眩しく感じる。
僕はダッシュボードに手を伸ばし、サングラスを引っ張り出した。
それにしても……国道一号線は工事箇所だらけだった。
路面は凸凹で、車線を区切る白いラインはまるで手書きのように雑だった。しかも自分が占有しているはずの車線が途中でなくなってしまったりで、走りにくいことこの上ない。
今日は道も空いてるから特に問題はないが、混んでるときだったら相当走りにくいのかもしれない。
やがていくつ目かの切り通しを抜け、下末吉の交差点を過ぎ、鶴見川に架かる橋を渡った。
そういえば熊沢が独立する前に働いていたショップが鶴見区にある、と樫井が言っていたような気がする。
熊沢や堤たちが若い頃に集まっていた店……もうとっくになくなってるような気もするが。
東京都内に入り、国道一号線・桜田通りから別れ、二の橋の交差点を通り過ぎる。
頭上には首都高速が走っている。
目的地はまもなくだった。ちょうど一ノ橋ジャンクションの真下のあたりだ。
ふと昨夜の出来事が頭を過ぎったが、敢えてそのことは考えないようにした。
しばらくは首都高速に足が向かないかもしれない。ちょっとトラウマになりそうだ。
一の橋を左折して一方通行の路地を入ると、そこに現れた小さな店の前に車を寄せる。
店の前には人が集まってきていた。
僕はクルマを降りると、店先から漂ってくる甘い匂いに引き寄せられるように、出来はじめた行列の最後尾に並んだ。
***
「あれ……また来たの?」
祐未さんは僕を振り返り、開口一番そう言った。
僕は手にしていた包みを顔の前に掲げた。
「これ、一緒に食べようかと思って――」
「あ! 鯛焼きぃ?!」
彼女はそう言って僕の手から鯛焼きの包みを取り上げた。
相変わらずいいリアクションをしてくれる人だ。
「最近よく来るわね。このあいだも来たばかりじゃない」
お茶でいい――?
祐未さんは言いながら急須をすすいだ。
「はい。じゃあお茶を――」
僕はそう言ってから「ちょっと近くまで来る用事があったので」と嘘くさい言い訳を口にした。さすがに「祐未さんの顔を見に来た」というわけにはいかない。
僕は一弥君の病院に来ていた。
最近の僕は週末毎にココに来ていた。彼女の顔を見るために来ている。いつも一時間程度ではあったが、ココ以外で彼女と遭うことはまずなかったから。
だから先日、わざわざ家まで尋ねてきてくれたのは本当に貴重な出来事だった。考えれば考えるほど惜しいことをした、と思う。
僕は一弥君のベッドから少し離れたところに座り、窓の外を眺めた。
相変わらず白い雲が空を覆い尽くしている。
真っ白な窓の外の景色は、同じように真っ白なこの部屋との境を曖昧にしていた。
そう言えば、昨夜破損したAA63の右フェンダーは思っていたよりは軽傷だった。
だからといって板金&塗装が必要なことは変わりがないのだが、修理に出す日程については何にも決めていなかった。取りあえず走ることに関しては問題がないから、しばらくはこのままなのかもしれない。
「どう? 新しい家は慣れた?」
祐未さんはそう言うと、湯飲みを乗せたトレイを僕の目の前の簡易テーブルに置いた。
「まあ慣れたと言えば慣れたんですけど――」
僕は軽く頭を下げて湯飲みを手に取った。
「思ってたより朝が大変ですね。16号があんなに混むとは思わなかったです」
一昨日、遅刻しちゃいましたよ――。
そう言って下唇を突きだすと、彼女は「夜遊びしすぎなのよ、聖志は」と僕の額を指で弾いた。
僕の向かいに腰を下ろした祐未さんは、徐に鯛焼きの包みを開けはじめた。
その嬉々とした表情が、僕の中に芽生えていた相反する二つの感情を揺さぶった。
僕は彼女から目を逸らし、一弥君の方を窺った。
しかし彼を直視することもできず、彷徨った僕の視線は手にしていた湯飲みの中に落ち着いた。
「これ、美味しい~」
顔を上げると、祐未さんは鯛焼きの尻尾の方からかじりついていた。
「ホントですか? なんか見た目はフツウですけど――」
僕も鯛焼きに手を伸ばし、頭からかぶりつく――。
「あ。美味……」
「でしょ? おいしいよね、これ」
彼女は言いながら何度も頷いている。
僕は湯飲みを口元に運びながら彼女の仕草を盗み見た。
「――なあに?」
「え……」
彼女はすぐに僕の視線に気付いた。
「いま見てたでしょ、人の顔をジロジロと――」
「いや、あの……」
彼女は悪戯っぽく微笑している。
慌てた僕は彼女の追求から逃れようと「昨日、クルマぶつけちゃったんですよ、首都高で」と適当な言葉を口走った。しかし……言うべきじゃなかった。言ったあとで後悔した。
「――首都高……で?」
やや間をおいて、祐未さんは囁くように言った。
僕にはその声が酷く尖った声に聞こえた。
「もしかして、まだ"走ってる"の?」
僕は何も答えなかった。
しかし彼女はそれを肯定と受け取ったようで、その顔はみるみる曇っていった。
「どうして? なにかあったらどうするの?」
「何もないですよ、べつに――」
「わからないじゃない、そんなの」
真剣な彼女の視線に、僕は耐えきれずに目を逸らした。
彼女の前で事故に関する話題はタブーだった。そんなことはわかっていたはずなのに……僕は自分の迂闊さを呪った。
「聖志にまで何かあったら……」
「何もないです。大丈夫ですよ」
「大丈夫なわけないじゃない。現にカズは――」
「ホントに大丈夫ですって――」
彼女の言葉を遮った。
僕の意志とは関係なく荒くなってしまった語気に、彼女は跳ね上がるように背筋を伸ばし、そのまま口を噤んでしまった。
祐未さんは車に乗らない人だった。免許も持っていない。
だから一弥君や僕のような人間をあまり理解はできないのだと思う。
そして一弥君が事故を起こしたあの日、僕は祐未さんから「もう危ない運転はしないで」と懇願された。
僕は素直にそれに頷いた。彼女の気持ちもわかっているつもりだったから。
だけど僕は走ることを止めなかった。
彼女には黙って走り続けてきた。それまで以上に熱くなって、もう自分では歯止めが利かなくなるくらいに。あの頃は、僕もまたドコかがイカれていたのだろう、きっと。
僕は彼女を窺った。
俯いた祐未さんの細い肩が小さく震えていた。僕は彼女に手を伸ばし掛けて、思いとどまった。
それが一弥君に対する裏切りになるということに自分でも気付いていた。
そして……僕はもう、以前のような走りはできないのかもしれないと心のどこかで気付きはじめていた。
「……カズみたいになっちゃったらどうするの?」
不意に彼女が呟いた。それは消え入りそうな細い声だった。
「死んでからじゃ遅いのよ、わかってる?」
彼女の目は潤んでいた。
「大丈夫ですよ」僕はその視線を正面から受け止めた。
「それに……一弥君は死んでないですよ」
「死んでるのと同じだわ」
彼女はそう言うと僕から目を逸らした。
そして細い指先で目元を拭うと、それっきり黙り込んでしまった。
僕の祐未さんに対する想いははっきりしていた。
好意なんて言う曖昧な言葉では表現できないくらいに。
だけどその感情をカタチにすることは、一弥君に対する裏切りに値することになる。無論彼女に対してこういう感情を抱くこと自体が既に裏切りと言えるのかも知れないが――。
僕は立ち上がった。
これ以上この沈黙に耐えられそうもなかった。そして愁いを帯びた彼女の表情にも――。
「すみません。また来ます――」
僕は直立して頭を下げると、ベッドには目を向けることなく、逃げるように病室をあとにした。
***
週末の走行会――。
待ち合わせ場所の三軒茶屋のファミレスには、まだ誰も到着していなかった。
いつもなら予定時間よりずいぶん前に来ている樫井の姿もない。珍しいこともあるものだった。
本当は今日は参加しないつもりだった。
しかし祐二に押し切られ、結局いまこの場所に来ている。またもや奴の口車に乗せられてしまった。なのに祐二はまだ来ていなかった。本当に適当な男だ。
僕はコーヒーカップを手にしたまま窓の外を覗いた。
誰も来る気配がない。本当にココで待ち合わせでよかったのかだんだん不安になってくるが、違っていたならそれはそれでいいような気もする。
「なんか気乗りしないな……」
僕は頭の中に浮かんだ言葉をそのまま口にしてみた。
言葉にしてみれば少しは気が晴れるかと思ったのだが逆だった。僕が吐きだしたその言葉に、僕自身が締め付けられているような窮屈感を覚えただけだった。
約束の時間を少し回った頃、ブルーのAE86が姿を現した。
ほっとするような、残念なような……どうやら待ち合わせ場所は間違いではなかったようだ。
「あれ? 北条しか来てないの?」
遅刻してきた祐二がクチを尖らせた。
祐二は僕の向かいに腰を下ろすと「まったくアイツらは――」と非難の言葉を並べたが、それを口にする資格は僕にしかないということを彼は忘れているようだ。
そしてちらほら顔を見せ始めた「九蓮宝燈」の面々。しかし樫井の姿はなかった。
「どうしたんだろな、あいつ。なんか聞いてる?」
祐二は僕らを窺ったが、誰もが首を傾げるだけだった。
樫井がやってきたのは、約束の時間を三十分くらい過ぎた頃だった。
青い顔をして駆けてきた彼は「やっぱやばいわ、あれ」と言った。
意味がわからず僕らが首を傾げると、樫井は「九蓮宝燈はやっぱりやばい」と口元を震わせていった。
先日彼の勤める雀荘で、常連の或るお客さんが九蓮宝燈で和了したらしい。
でその数日後、その常連さんが死んだらしいのだが……。
「偶然だろ。持病があったとか――」
祐二は鼻で笑った。
「ねえよ! 前の日に会ったときもピンピンしてたんだから。それに――」
樫井は身を乗り出して持論を展開した。
彼はどうあっても「常連客の死」と「九蓮宝燈」をこじつけたいみたいだったが、祐二は頑としてそれを認めようとしなかった。
「――で、どうしたいの?」
僕は樫井に向かって言った。
べつに助け船を出したつもりはなかったが、これ以上不毛な議論を見せられるのは勘弁して欲しかった。ただでさえ気乗りしないんだから。
できることならこのまま家に帰って明日に備えたいくらいだった。寝不足の顔のまま祐未さんには会いたくなかったし。
「う~ん、取りあえず応急処置を思ってさ――」
樫井はそう言うとポケットに手を突っ込んだ。
「コイツで、さ」
ポケットから出てきたのは油性のマジックだった……。
「うそだべ……。センスなさ過ぎだろ……」
湊はそう呟くと絶句した。
駐車場に停まった僕らの車に貼られたステッカー。
そこには黒いマジックで「ナナメの線」が書き加えられていた。
「まったくいつの間に……」
祐二は指で強く擦ったが、まったく意味をなさなかった。
こうして僕らのチームは「九蓮宝燈」から「丸蓮宝燈」に"強制的に"改名させられることになった。




