#029 消耗戦
一ノ橋ジャンクションの左カーブの手前、右車線を走っていた天使が車線を無視してインへと切り込んでいった。
僕も釣られるように同じ弧を描いてコーナーを走り抜ける。
天使の駆るケンメリは、スピードに乗ったまま芝公園の出口を通過した。
僕も引き離されないように一定の距離を保ったまま天使の後に続く。
芝公園の入り口から白いプレリュードが合流してきた。
天使はそれを察知していたかのように、流れるような動きで右車線に移った。
僕も天使に張り付いたまま同じラインを通って続いていく――。
彼女の後ろはとても走りやすかった。
環状線を走り慣れているからということもあるのだろうが、各コーナーをムダのないライン取りで走り続けている。
僕は後方から天使を窺いながら、ふと妙な懐かしさのようなものを感じていることに気付いた。
まもなく浜崎橋ジャンクションの左カーブが現れる。
無数のコーナーがある環状線の中で、この浜崎橋とその先の江戸橋……この二つは僕が得意とするコーナーだった。
特に内回りの浜崎橋は、直線が続いたあとに出てくる急カーブだけに、コーナーへの進入速度と進入角度がポイントになる。
これこそが僕が絶対的な自信を持つ"このコーナーを攻略するための鍵"でもあった。
ジャンクションの分岐が迫ってきた。
僕は右いっぱいに寄った。そして前を行く天使との車間を取った。
天使のライン取りは典型的な"アウト・イン・アウト"。
コーナーの外いっぱいから内に切り込み、そのまま外へと逃げていく。
ココでもきっと同じ攻めで来るはずで、そのタイミングこそが僕のチャンスになるはずだ。
天使がやや速度を落とした。
さっきと同じように、インに切り込みながらコーナーへと突っ込んでいく。僕はブレーキングを遅らせ、コーナーのより深い位置へと突っ込む。
そして……天使はコーナーの出口で外へ流れた。予想していたとおり、コーナーの内壁を掠めるようにして外へと膨らんでいく。
もらった――。
このタイミングを待っていた。
僕はアクセルを強く踏み込んだ。コーナーの深い位置から直角に近いカタチで内側を突き、立ち上がりで加速して天使を抑える。パワーの差は否めないが、立ち上がりでの瞬間的な加速なら、車体の軽いAA63にも勝機があるはず――、だったのだが……。
僕は天使をかわすことができなかった。
コーナーの出口でケンメリのリヤフェンダーが僕の右フロントフェンダーに接近したが、接近しただけで並ぶこともできなかった。
なんでだ?
僕は唇を噛んだ。タイミングは完璧だったはずなのに――。
「ねらいは悪くなかったけどな」
熊沢が呟いた。
「コーナーの立ち上がりに目を付けたのはマズマズだがコーナーへのアプローチが甘い。ま、ブレーキングが甘いからそう言うことになるんだが――」
ブレーキングが甘い――。以前、誰かに言われたことがある言葉だった。そして僕自身も普段から意識している言葉でもあった。だが今の踏み込みは悪くなかったと思っている。少なくとも甘いと言われるほどのブレーキングではなく――
「おまえ……ただアクセルを踏み込んでりゃ速く走れる、なんて思ってないか?」
熊沢は言った。
僕は視線を助手席に向けたが、すぐに前に戻した。
「……違うんですか」
小さな声で訊き返した。少しトゲのある言い方で――。
しかし助手席からは何の言葉も返ってはこなかった。
ただ、少しの間をおいてから、深いため息とともに「わかってねえなあ」という呆れたような独り言が聞こえてきた。
そしてもう一度、さっきよりもさらに深いため息の気配があった。
汐留を過ぎて環状線の景色は一変していた。
さっきまではビルの間を縫うような高架の道だったが、いつのまにか地中に潜ってしまったような切り通しの道を走っていた。
頭上には一般道の陸橋が掛かり、その橋桁が車線を跨ぐように林立している。
そして天使はその橋桁を縫うように、車線変更を繰り返しながら猛スピードで走り続けていた。
僕は彼女の背後に迫りながら、彼女が首都高を途中で下りてしまう可能性について思いを巡らせてみた。
宇野が最初に天使と遭遇したのはこの辺りのはずだった。彼女がドコから乗ってきたのかはわからないが、この辺りで環状線を離れてしまう可能性もあるような気がしていた。
仮に一般道に下りてしまった場合、それでも僕は彼女のあとを追うつもりでいた。一般道の方がより危険を伴うことは間違いないが、僕にとっては有利に働くような気がする。
//――こちら紅丸です――//
堤の声だった。
彼のクラウンはさっきまでは「僕の前」を走っていた。
//――くまさんは現在どのあたりですか――//
熊沢は億劫そうにマイクに手を伸ばすと「京橋を通過したところ」と平坦な声で言った。
//――了解です。この先で内回りに合流します――//
//――マーベリックです!! 自分も参戦します!!――//
「……だとさ。まったく物好きな連中だな――」
熊沢は鼻で笑った。
堤と祐二が合流してくる……僕は堤の走りを見たことはなかった。樫井が言うには相当速いらしいが、いまだにその走りを目にする機会には恵まれていなかった。
「堤さん、速いんですよね」
僕は確認するように呟いた。
熊沢は「ああ――」と短い応えを返してきた。そして「少なくともおまえよりは可能性があるだろ――」と何の感情も窺えない調子で続けた。
一瞬その言葉の意味に思いを巡らせたが、あまり深く考えないようにした。
まもなく宝町の出口を通過する。
その先には江戸橋ジャンクションの左カーブが待ち受けている。環状線の最大の難所でもある急カーブだ。
浜崎橋と同様に、僕はこの急コーナーを得意としていたが、さっき熊沢に言われた台詞が頭の片隅にこびり付いて離れなかった。
浜崎橋での走りは、僕の中で完璧に近いライン取りだった。
しかし熊沢はそれを「甘い」と指摘し、事実天使を抑えるには至らなくて……。
僕は頭の中で確認するように「さっきの状況」を振り返ってみた。
しかし熊沢の指摘については首を傾げざるを得なかった。ただひとつ言えることは、江戸橋でさっきと同じ様な展開に持ち込んでも勝機は薄いということ、そして――
//――こちら紅丸。内回りに合流しました――//
無線から聞こえてきたのは堤の声だった。
//――現在竹橋を回ったところですが、くまさんはどのあたりですか――//
「こちらクマちゃん。え~もうすぐ江戸橋……天使も一緒ですよ」
//――了解です――//
僕は堤との位置関係を確認し、頭の中でシミュレートした。
堤のスピードはわからないが、僕らが後ろから追いかけるカタチになっているのは知ってるから「抑え気味」で走っているということは想像できる。このまま行けば、おそらく千代田トンネルのあたりで彼と合流できるような気がする。つまり天使とサシで勝負できるのはそのあたりまで、ということになりそうだ。祐二もどこかで合流するはずだったが、取りあえずいまは祐二のことは除外した。
まもなく江戸橋ジャンクションだった。
以前、祐二が見事なドリフトを決めた急カーブが迫っていた。
おそらくさっきと同じように、天使はアウトから入ってアウトに逃げていくはず……。
予想通り、天使は右車線に動いた。
しかし僕は左車線に留まった。そしてケンメリの丸いブレーキランプが光った瞬間、アクセルを踏み込んだ。
咄嗟の判断だった。
コーナーの入口でインに突っ込み、天使の走路を抑えに掛かったのだが……。
――!!!
AA63は外へと大きく膨らんだ。
フルブレーキングとステアリングコントロールで立て直しを図ったが間に合わない――。
次の瞬間、強い衝撃が走り、車体を揺すぶった。右のフロントフェンダーが外壁に接触したらしい。
――ちっ……。
僕は舌打ちした。
闇雲に突っ込んだおかげで、コーナーの出口では完全にスピードが落ち切ってしまった。挙げ句の果てに側壁に接触してしまった。天使を抑えることに気を取られてペースを崩してしまった。
そんな僕をあざ嗤うように、天使は僕の内側を悠々とすり抜けていった。
「ククッ……」
熊沢が吹き出した。
「大丈夫か?」
僕は助手席を一瞥すると「走るぶんには」と愛想もなにもない、素っ気ない返事をした。
フェンダーの損傷具合は運転席からは確認できない。窓を開けてみたが、損傷部分がどこかに干渉しているような音もしない。つまり走ることにはまったく影響がないのだろう。
だけど僕には少しだけ引っ掛かるモノがあった。それはきっと――
「強引なだけの男は嫌われるぞ」
熊沢が笑いながら言った。
強引だったというのは自覚している。熊沢に言われるまでもなかった。
僕は何も答えず、アクセルを煽った。
再び加速して天使の背後に張り付く。彼女に隙ができるのを待った。そして、頭に浮かんだ微かな不安には気付かないふりをした。
竹橋を過ぎ、北の丸トンネルに入った。僕らのバトルも二周目に突入したことになる。
完全に後塵を拝している僕ではあったが、何とか捲かれることもなくココまで来ている。
ただ、神経を昂ぶらせた状態を続けているためか、思ったより自分が疲労していることに気付いた。
一方で天使の走りに変化の兆しは窺えなかった。
相変わらず無駄のない走りを見せている。
それでも疲労を感じていないはずがなかった。追われる立場だから尚更大きいはずだ。
ココからは消耗戦になる――。
僕にはそんな予感があった。きっとさっきのようなミスは命取りになる。
そしてココから霞ヶ関まで断続的に続くカーブ――。そこにチャンスがあるような気がした。そこまでに決着が付かなければ、僕に勝機はないような気がした。
「一般車が出始めたみたいだな。気を付けろよ」
熊沢の声に、僕は「はい」と囁くような声で応えた。
彼の言うとおり、さっきまでと比べて一般車の姿を見かけるようになっていた。
高速で走る僕らにとって、彼らの予測不能で不規則な動きは脅威でしかなかった。当然、彼らにしてみれば僕らの存在こそ脅威でしかないのだろうけど。
北の丸トンネルを抜けると、代官町から合流してきたセンチュリーが左車線をナナメに移動し、僕らのいる右車線に入ってきた。
天使は左に動くと、センチュリーをかわして右車線に戻った。僕も同じように左からセンチュリーを追い抜き、右車線に入った。
やはり一般車の数は増えているようだ。お互いさっきまでのような走りはできないかもしれない。
千鳥ヶ淵のカーブを抜け、千代田トンネルに入った。
この先、三宅坂ジャンクションの合流を過ぎれば、霞ヶ関のカーブが出てくる。左カーブが多い環状線内回りにおいて、唯一とも言えるまともな右カーブだ。
「左に寄ってた方がいいな」
新宿方面との分岐の手前で、熊沢が言った。
天使は右車線に留まったままだったが、熊沢の言葉に従い僕は左にウインカーを灯した。
やがて大きな左カーブが現れた。
僕は抑え気味の速度をキープしたまま、天使を斜め前に見ながらカーブに突入した。
「前に出ろ――」
「え?」
「勝負だ。前に入れるな」
熊沢は静かな声で言った。
僕はその声に反応してアクセルを踏み込んだ。
天使に並び掛けたままカーブの出口に差しかかったとき、新宿方面から来る合流車線にクルマがいるのが見えた。
二台のアルミバンだった。
その瞬間、天使のケンメリが加速した。
合流してきたアルミバンと左車線を行く僕の間をこじ開けるように、強引な車線変更で突破していく。そして――
「――!!」
続く霞ヶ関の右カーブで、ケンメリが大きく左に振れた。
「よっしゃ!!」
熊沢が叫んだ。
天使の駆るケンメリがアウトに大きく膨らんでいる。塞がれっぱなしだった僕の視界が突如として開けた。完璧だった彼女の走りに狂いが生じた瞬間だった。
「行っけええええ!!! …………え?」
熊沢の絶叫が絶句に変わる……僕の方を覗き込んでいるのがわかった。
僕はステアリングを握りしめたまま唇を噛んだ。
「なんだよ! どうしたんだよ、おい――」
天使を捉えるチャンスだった。
強引な加速で車体の挙動が安定しないままコーナーに突っ込んだケンメリ。
冷静だった彼女が初めて見せたミス。
そして僕にとって最大にして唯一と言えるチャンス……あとはアクセルを踏み込むだけだった。
しかし彼女に並び掛けたあの瞬間、アクセルを踏み込む僕の足が固まった。それ以上踏み込むことができなかった。
僕は唯一のチャンスをみすみす見逃してしまった。
土壇場で出た一瞬の迷い――。
車内には僕を非難する熊沢の声が虚しく響いている。
あざ笑うように遠ざかっていく天使の丸いテールは、やがて僕の視界から完全に消えてしまった。




