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#002 Antihistamine


 由佳里を下ろした僕は、馬駈から芝溝街道へ入った。

 どこかに行こうというつもりはなかったが、町田街道の渋滞に嵌るのはごめんだったし、同じ道ばかりを通ることもあまりしたくなかった。

 取りあえず金井を抜けて鶴川駅を過ぎ、鶴川街道を南に向かった。

 駅の周辺は少し混雑していたが、神奈川県内に入るとまるでマジックのように前方にクルマはいなくなった。目の前には直線道路が延びている……僕はアクセルを踏み込み一気に加速した。

 やがて現れた病院の手前で減速し、駐車場待ちで立ち往生しているクルマをかわすと、再びアクセルを踏み込み、ステアリングを左に切った。昼間の緑山のコーナーが僕の迎えてくれていた。




 家に辿り着くと、駐車場には赤いルノーが停まっていた。僕が寄り道をしているあいだに母が帰ってきていたようだ。

 木製の重いドアを開けると、無駄に広い玄関ホールの奥に小柄な後ろ姿があるのが見えた。母の里穂だった。

「あ、お帰りなさい……」

 彼女は僕を振り返り、やや視線を落としたまま囁くようにそう言った。

「ただいま」

 口先だけの挨拶をした僕は、腰を屈めてシューズのヒモを弛めた。

「あの……お昼は?」

 顔を上げると、ソコには彼女の媚びた笑顔があった。

「いま用意するから一緒に――」

「そんなに気は遣わないでください」

 僕は彼女の言葉を制して無理矢理笑顔を作ると、スリッパを引っかけ階段を昇った。

 部屋に入ると鍵を閉めた。

 シャツのポケットからシガーケースを取り出し、固いフタを開け、中身を掌に出した。

 出てきた錠剤を二つ口に放り込むと、デスクの上のいつから置いてあったかわからない烏龍茶のペットボトルに口を付けた。

 腹の奥への流し込まれた錠剤の効果を量ることもなく、僕はベッドに仰向けに倒れ込んだ。


 眠れない――。

 そんなことに気付き始めたのはいつのことだったのか……市販の睡眠改善薬では限界があるのかもしれない。

 医者に診てもらうべきだというのはわかっている。

 だがそんなことをして周りの人間に余計な詮索をされるのはまっぴらだった。

 ただ、皮肉だと思っていた。

 眠りたくても眠れない奴もいれば、寝ていたくもないはずなのに眠りっぱなしの奴もいる。

 そして……起きているのに眠っているのとまったく変わらない生き方だって存在するってことを最近知った。


――コンコン。


 ドアをノックする音に僕はカラダを起こした。

「はい……」

「あの……ちょっといい……?」

 母の声だった。

 その怯えたような声色は、僕の昂ぶった神経を逆撫でした。

「なんですか」

 僕は強めの口調で言った。しかしドアの向こうからは何の反応もなかった。


 ちっ――。

 僕は舌打ちした。

 おそらく彼女は僕がドアを開けるまで、ただ大人しくドアの前で待っているつもりなんだろう……。

 僕は立ち上がった。

 鍵をハズしてドアを開けると、思ったとおり彼女はそこに立ちつくしていた。細い肩を更に窄めて――。


 母がこの部屋にはいるのはおそらく初めてだった。

 彼女は遠慮がちに部屋を見渡していた。

 僕はデスクのイスを曳いて彼女の方に向けると、自分はベッドの縁に腰を下ろした。

 しかし彼女はイスに座ることもなく、立ちつくしたままだった。

「具合でも悪いの……?」

 彼女は不安げな目で僕を見下ろしていた。

 その表情に偽りがないことは確認するまでもなくわかっているつもりだった。

「べつに悪くないですよ」

 僕は彼女から目を背けた。

 そのとき、デスクの上にシガーケースが出しっぱなしになってたコトに気付いた。

「でも、顔色がよくないもの」

 彼女はそう言って僕の額に手を伸ばしてきたが、僕はそれをかわし、やんわりと拒絶した。

 それは彼女にもショックだったようで、俯き黙り込んでしまった。

 気まずい沈黙が部屋を包み込んでいる――。

 やがて彼女はこれ以上ないほどの大きなため息を吐いた。

「まだ怒ってるの」

 彼女は微笑を浮かべていたが、僕に対して呆れているというように見て取れた。

「怒っていませんよ。本当に」

「だったらいつまで拗ねてるの」


 今度は僕がため息を吐いた。

 冗談じゃない。僕が拗ねる理由なんかどこにもない。

 あるとするなら彼女の無邪気さ、いや無神経さに悲しい気持ちになってることくらい……。

 彼女は僕にとって本当の母親ではなかった。

 一年ほど前に北条家にやってきたいわゆる後妻だった。

 そして僕にとっては三人目となる不自然に若すぎる母だった。


「キーケース、使ってないの?」

 彼女は寂しそうに呟いた。

 視線のさきにあるのは、ハダカのままに置かれたクルマのキーだった。

「走るには邪魔なんで」

 僕は言った。他意はなかった。

 しかし彼女はそうは捉えなかったようで、口を真っ直ぐに結び、首を二三度横に振った。


「ねえ、サトシ――」

「その呼び方、やめてもらえませんか」

 甘ったるい声が僕の神経を更に逆撫でした。

「私はただ仲良くしたいって――」

「喧嘩してるつもりはないです」

 彼女の言葉を遮った。

「だったらどうして無視するの?」

「無視なんかしてません」

「でも、私の方を見てくれないじゃない――」


 僕は口を噤み、小さく息を吐いた。

 この無意味な言葉のぶつけ合いがどこまでも続きそうな気がして苛立ちを覚えていた。

 しかし彼女の方も黙り込んでいた。

 ただ、まだ何かをいいたそうにデスクに置かれたクルマのキーを見つめていた。


 彼女にもらったキーケースは、一度も使う機会がないままクローゼットの奥で眠っていた。

 僕のクルマにルイヴィトンは不釣り合いだと思ったし、なによりイグニッションキーにぶら下げるには邪魔な大きさだった。

 街中をノロノロ走っているならいいのかもしれないが、コーナー毎にいちいち腿の辺りに触れると邪魔で仕方が――


 突然彼女がシガーケースに手を伸ばした。

 僕も気付いて手を伸ばしたが間に合わなかった。シガーケースは彼女の手の中にあった。

「……返してください」

「煙草、吸ってるの?」

 彼女は僕の言葉には何も応えず、シガーケースを自分の顔の前に翳した。その表情はさっきまでと比べると少し余裕があるようにも受け取れた。

「返してください――」

 もう一度、ひったくるように手を伸ばしたが、指先が触れただけで上手くキャッチできず、シガーケースは彼女の手から離れた。

 次の瞬間、床に落ちたシガーケースは、その中身をフローリングの床にぶちまけた。

 白い錠剤が僕らの足元に散らばった。

 彼女の表情が微かに強ばった。

「べつに……ただの寝不足の薬です」

 へんなものではないです――。

 彼女が口を開く前に僕は言った。つまらない誤解をされたくなかった。

 しかし彼女は僕の方を見ることなく錠剤をつまみあげようと――


―――!!


 不意に彼女の手首を掴んで引き寄せた。

 気が付くと僕は、彼女の細い手首を掴みベッドに押し倒していた。

 身体を密着させ、彼女から自由を奪った。同時に僕の中で暴力的な感情が頭を擡げはじめていた。

 僕は彼女を真上から見下ろした。

 柔らかな髪の毛、艶やかな唇、細い肩、そして体の線……僕の目が、彼女の見える部分すべてを蹂躙した。

 彼女は抵抗することも声を上げることもなく、ただ目を見開いていた。

 しかしそれは、これから始まるかもしれない「なにか」に期待しているというわけではなさそうだった。

 僕はため息を吐いた。

 そして彼女の手首を掴んでいた指先のチカラを弛めると彼女から離れた。

 彼女はやや遅れて体を起こすと、ベッドの縁に腰掛けたまま、哀れむような目で僕を見つめた。


「……すみませんでした」

 僕は努めて感情を抑えて言った。

 断続的に湧き上がる暴力的な感情を宥めるように呼吸を整えた。

「体調が悪いんだったら本当に病院に――」

「眠りが浅いだけですから」

「でも――」

 彼女は不安げな目を僕に向けていた。

 僕に対する彼女の心配が本物だというのはわかっていた。

 しかしその無神経さが、いまの僕の苦痛を増幅させているのも事実だった。

「本当に放っておいてください……」

 僕は絞り出すように言った。

「でも――」

里穂さん・・・・には関係ありませんから」

 僕は突き放すようにそう言った。

 彼女はまた黙り込んだ。

 しかし、彼女の目に浮かんだ色は絶望より寧ろ安堵だったように、僕の目には映っていた。 



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