#026 酔客
朝の国道16号線は混み合っていた。
コンビニの駐車場から眺めた国道は、特に東名のインターに向かう八王子方面が混んでいる。
僕は運転席に身を沈め、買ってきたばかりのコーヒーのパックにストローを挿し、左手の時計に目をやった。
新居からの初出勤ということもあって早めに家を出た僕だったが、余裕があったはずの時間も間もなく底をつきそうだった。
僕は右手にコーヒーのパックを持ったまま、クラッチを切り、ギヤを一速に入れた。そしてゆっくりとアクセルを開けて歩道を跨ぐと、ソレに気付いたトラックが隙間をあけてくれた。僕は軽く手を掲げて渋滞の国道へと滑り込んだ。
これから毎日こんな感じなんだろうか……。
絵に描いたような渋滞に嵌りながら、ため息を吐いた。
勤め先までの距離についてはあまり重要視していなかったが、これから毎朝コレだと思うと少し気が重い。ただでさえ楽しい職場とは言い難かったし。
そしてさっきからアクビが止まらない。
それが祐二たちのせいだというのは疑いようがない。
奴らはさっきまでウチにいた。というより、僕が叩き起こさなかったらまだ寝ていた奴もいたはず……奴らも今日は仕事のハズなのだが。
それはともかく、一人暮らしという響きに淡い幻想を抱いていた僕。しかし僕の新生活は、思い描いていたものとはかけ離れたカタチでスタートしていた。
昨夜、祐未さんを見送った僕が部屋に戻ると、奴らの視線が僕を通り越して「誰もいない僕の背後」を漂っていることに気付いた。
「あれ……? さっきのヒトは?」
祐二が呟いた。同時に奴らの視線が僕の口元に集中した。
「帰った」
僕は彼らと目を合わさずに呟いた。
「え~、なんでよ~」
口の周りを油でギトギトにした稲尾が不満そうに言った。僕としては、祐未さんが帰ってしまった理由の七割くらいは「おまえにあるはずだ!」と言ってやりたい気持ちだった。
「もしかして……俺らって邪魔だった?」
樫井は僕の機嫌を取るように笑みを浮かべ、周りの奴らを見渡した。
僕は何も答えなかったが、それは言うまでもないことだった。祐未さんが帰ってしまった理由が「彼らに気を遣ってのこと」だというのは疑いようがない。
だけどもちろん彼らが悪いということではない。僕も彼らの「騒々しさ」をどこか楽しんでいるところもあった。少なくとも彼女が来るまで、僕は僕なりに「仲間と過ごす時間」というものを満喫していたし――。
部屋の空気が少しだけ重くなったような気がした。
誰もが口を閉ざしたまま、曖昧な笑みを浮かべている。何とも言えない気まずさを、ココにいる全員が共有しているようだった。
不意に樫井が立ち上がった。
「富井、鍵貸して――」彼は右手を富井の方に伸ばした。
富井は言われるままにポケットから取りだした鍵を樫井に渡し、ソレを受け取った樫井は無言で玄関から出ていった。
そして程なく樫井が戻ってきた。大きな鍋を二つと、ビニール袋をぶらさげて――。
「……なに?」
僕は鍋を指さし、敢えて訊いた。
「なにって……〆のラーメンに決まってるだろ?」
樫井は真顔でそう言った。まるで聞いた僕の方が間抜けだというような態度で。
僕は呆れて声も出なかった。
いまの話の流れで「〆のラーメン」ってあり得ない。しかし――
「あ~、旨めえ。やっぱ、〆はラーメンに限るよな」
樫井の言葉に、渋々ながら僕は頷いた。
彼が作ったラーメンは美味かった。最近食べたもののなかで三本の指に入るくらいに。
あっさりした味だったが、焼き肉の後だからちょうどいい。
そして何より手際がよかった。
二つのコンロにかけた鍋で、八人分のラーメンを絶妙の硬さにゆであげた。
「雀荘の前職がラーメン屋なんだっけ?」
「いや、まえのまえだ。三ヶ月で辞めちまったけどな」
祐二の問いにそう答えた樫井は、前々職のラーメン屋の親父の横暴振りについて熱く語った。
「――ま、それはどうでもいいんだけどよ……さっきの女は誰なん?」
稲尾が呟いた。「さっきの人」が祐未さんを指しているのは間違いなかったが、僕は首を傾げてラーメンを啜った。コイツに紹介するのは何となくもったいないような気がした。
「そういや、おれも会ったことねーよな?」
祐二はそう言って首を捻った。
彼は僕の交友関係を全て把握してるつもりでいるんだろう、きっと。
「マジでどういう関係? 怒らないから言ってみな?」
祐二は続けてそう言ったが、彼女と僕の関係がどうであろうと僕が怒られる理由なんてドコにもないし、答える必要があるとも思えない。
しかし稲尾が蒸し返した祐未さんの話題で、他の奴らも興味津々といった感じの目を僕に向けている。何も答えないわけにはいかないみたいだ。
「知り合い……かな」
適当に言葉を濁すと「なんだよ、その中途半端な答えは!」という非難の声が飛んできた。
僕は彼らの視線を逃れて部屋の隅に目をやった。
そこには空になったビールの缶が山積みになっていた。
誰がいつの間にあんなに飲んだんだ……?
僕は不思議に思った。そしてこの中で飲んでいない奴は僕以外にいるのかという疑問もあった。
だがそれに関しては、触れることには抵抗があった。
「なあ、カラオケとかないの?」
赤い顔をした富井が呟いた。
僕は小さく息を吐いた。酔っぱらいたちの突飛な言動に辟易していた。
「あるわけないだろ」
僕は言った。
どう考えてもココにそんなモノがあるはずがない。そんなこと考えなくたってわかるはず――
「なんだ、ねえの? 北条のアレ、聴きたかったのに~」
なんて歌だっけ、あれ――。
口を挟んできたのは祐二だった。
しかし僕はあからさまに聞こえないふりをした。
「――オレも聴きてえ~」
日野が突然口を開いた。
「……」
おまえは今まで寝てたはずだろ……?
僕はため息を吐いた。まったく、これだから酔っぱらいは――。
「なんだよぉ。井村さんには聴かせてオレラには聴かせらんねえっての?」
富井だった。
酔いが回った彼の視線が鬱陶しいくらいに僕に絡んでくる……というか、なぜそこで絵里の名前が……?
僕は祐二を振り返った。
しかし彼はわざとらしく目を逸らした。
なるほど――。
僕はため息を吐いた。お喋りな祐二を通してみんなに筒抜け、ということか……。
***
『ねえ、アレ歌ってよ――』
あの日、微酔いの彼女はご機嫌でそう言った。
普段は話しかけてこないはずの絵里が僕を名指しでリクエストしてきたのは、当時の会社の飲み会の席上での事だった。
「ねえ。あれ、なんていう曲だっけ? ねえ――」
馴れ馴れしくそう呼びかける彼女に、僕はそっと背を向けた。
僕には人前で歌を披露する趣味なんてなかったが、彼女に付き合って何度かカラオケに言ったことがあった。唆されて何曲か歌わされたりもした……忘れたい思い出の一つだ。
「北条が歌うのは聴いたことがないな……上手いのか?」
そう言ったのは内藤さんだった。
「以外と上手いんですよ、ね?」
彼女は遠目の位置から僕に向かって言ったが、僕は聞こえないふりをして完全無視を決め込んだ。
「ねえ! なんで無視するの?」
彼女はグラスを片手に僕の方に近付いてきた。わざわざ離れたところに座っていたと言うのに……。
隣に腰を下ろした彼女は、僕の方を向いてにっこりと笑った。
無視を決め込むつもりの僕だったが、邪気のないその笑顔に負けて彼女に目を向けた。
「……なんですか、イムラさん」
僕は言った。ほんの少しの抵抗を添えて。
しかし彼女は動じる様子もなかった。
「ねえ、歌って?」
甘えた声で言った。少し頬を紅く染めて……このときになってはじめて、彼女が酔っているということに気付いた。
「……歌いませんよ。僕は」
僕は顔を背けると、少し冷たい声で言った。
ヘンに隙を見せて、彼女と無意味な押し問答を展開したくなかった。しかし……。
「え~、歌ってよ~」
彼女は不満そうに口を尖らせた。
冷たくあしらったつもりの僕の言葉も、酔っている絵里にはまったく効果がなかった。
執拗に絡んでくる絵里と、それをあしらう僕。そんな僕らのやりとりが、この場の視線を集めていることに途中で気付いた。
僕には酔った彼女の言動を制御することができなかった。
そして……僕は徹底して無視することにした。我ながら不自然だとは思ったが、他には思いつかなかった。
当時、僕らが付き合っていることは会社の人たちには内緒だった。
だけどそれは僕が押しつけたルールではなく、お互いの共通の意識の元に成り立った約束だった。
しかし、僕と絵里が交わしたそんな約束も、酒の魔力の前にはあまりに無力だった。酒は彼女のような聡明な人間でさえ狂わせるということをこの日僕は学んだ。
以来、僕はアルコール類をいっさい口にしていない。もう酒は飲まないと心に決めた。
とは言っても、もともと飲む習慣はなかったから大した決意ではなかったのだが。
***
その日の帰り道、対向車に照らされたフロントガラスが妙にぎらついていることに気付いた。
考えるまでもなく、昨日の焼き肉の脂が飛んだのだろう。
浜松町の交差点を突っ切り、藤棚の商店街を抜け、御所山から野毛方面に向かう。
路上に停まった車を避けながら緩い坂を上って下り、日ノ出町から伊勢佐木町を走り抜け、麦田町の交差点に出た。
信号待ちの間に、僕はふと「まだ二階の人に挨拶していない」ということを思い出した。
もっともどんな人が住んでいるのかすら、僕はまだ知らない。昨日の日中に挨拶に行ったが留守で、その後も人の出入りはなかったように思う。
たぶん僕らが焼き肉を食べながら騒いでる頃に帰宅して、そのまま騒々しさの中で床に就いて……。
そんな想像をしながら、僕は小さく息を吐いた。
おそらく引越初日から嫌な思いをさせてしまったのだろう。きっと"新しい隣人"に対する第一印象は最悪と言っていいくらいに。
今日はナニが何でも挨拶に行かないとな――。
そんな独り言を口にしたとき、爆音と共に目の前の通りを何台かの単車が走り抜けていった。みんな揃いの紅い上着を羽織って……。
あ――。
紅い色が目の前を通り過ぎた瞬間、僕の頭の中にある光景が過ぎった。
樫井に連れられて初めて現在の家を見に行った日、ガレージに停まってた紺色のRG250E。
そのタンクに貼られたステッカーに見覚えがあったのだが、あのときはどうしても思い出すことができなかった。しかし……いまは完全に思い出した。やっぱり僕はあのロゴを見たことがあったのだ。
僕は大垂水に出没するVFRの男を思い出した。以前ファミレスで会った彼の中性的な横顔を思い浮かべた。
そしてRGに貼られたステッカーのロゴ……。
あの日神藤泰昭が着ていたスイングトップに描かれたモノと同じに違いなかった。




