#025 引越
鍵屋の徹二さんが来たのは、僕が少し遅い昼飯を食べているときだった。
小汚い軽の1BOXで乗り付けてきた彼は、半開きにしていたシャッターをくぐって室内を覗くなり「思ったより片付いてるな」と感心したように呟いた。
しかし片づけたという意識は僕にはない。実際、持ってきた段ボール箱は、ココに運び込んだ状態のまま倉庫の隅に積み上げたままだったし。
だから片づいているというより「何もない」といった方が正しいのだろう。詰めれば縦に二台くらい入るガレージは、あまりに広く閑散としていた。
「烏龍茶でいいでしょ」
僕は流しの横の箱から、冷えてない缶の烏龍茶を取り出し、徹二さんに向かって放り投げた。
彼は「ビールの方が……」などと呟いていたが、仕方がないと言った表情でプルタブに指をかけた。
徹二さん……本名は田中徹二と言った。
一弥君の高校時代の友人で、僕にとっても高校二年までは先輩だった人なのだが、まったく先輩らしくない人だった。
細身で浅黒く焼けた肌は見た目にも若く、あごひげを落として制服を着せたら高校生に見えなくもないかもしれない。
昔から手先が器用な人で、細かい作業を得意としていた。だから今の仕事は彼にとっては天職だと言えるのだろう。
しかし商売にはまったく向いていない人だった。
その軽すぎる性格が災いして、安請け合いをしては損ばかりしている。
一本気で義理堅い人だったから、僕から見れば信用のおける人物には違いなかったのだが、その一方で彼の周囲はいつでも金銭と女がらみのトラブルを孕んでいる、ということを僕は知っていた。
「さてと――」
不意に徹二さんが立ち上がった。
「とっとと終わらせちまうかな」
そう言って飲み終えたウーロン茶のスチール缶を握りつぶした……。
すっかり忘れていたが、この人は腕力も相当なものだった。
***
僕は倉庫のシャッターを開け放したまま、折りたたみのイスに腰掛け目を閉じていた。
引っ越しは恙なく終了していた。
とはいっても段ボール箱五つのうち、今日開けたのは三つだけ。あとの二つは夏服と雑誌の類……ま、箱を開けるのは早くても二ヶ月くらいあとになりそうだ。
そして徹二さんはもう帰ってしまっていた。
シャッターと玄関の二カ所の工事を瞬殺で処理すると「次の仕事があるから、またな」と爽やかな笑顔を残して行ってしまった。意外と繁盛しているのかもしれない。
陽は落ちかけていた。
夕暮れの静けさの中で、僕は「一人」を満喫していた。
慢性的な睡眠不足に悩まされている僕だったが、このままこうしていれば自然に眠りが訪れるんじゃないだろうかと錯覚するくらいの心地よさだ。
実家にいたこれまでも一人でいることが多かった僕だが、これからは正真正銘、完全に独りきりの生活が始まる。
今の僕の心中には、新しい生活に臨む高揚感より「誰にも、何も干渉されない」という安堵感の方が強くあって――
「オッス! 黄昏ボーイ!!」
僕のリラックスタイムに土足で入り込んできた聞き覚えのある声――。僕は心の中で舌打ちした。
「誰が黄昏ボーイだ」
僕はそう言って声の主を睨んだ。
そこに立っていたのは祐二だった。彼は僕の態度などまったく意に介さず、当たり前のように僕の横を通り過ぎガレージを覗き込んだ。
「おお、思ったよりキレイじゃん」
あ、これ引越祝いな――。
そういって僕に紙袋を差しだしてきた。
中には新品のブレーキクリーナーが五本、入っていた。
引越祝いにブレーキクリーナーを持ってくる奴ってあまり聞いたことがない。だけどくだらないオキモノの類をもらうよりはよっぽどいいような気もする。
「ま、座れば」
僕は立ち上がり、折りたたみのイスをもう一つ出した。そして流しの横の箱から烏龍茶を取り出し、祐二に向かって放り投げた。
祐二はそれを両手で受け止めると、相変わらず室内に視線を這わせながらイスに腰を下ろした。
僕はため息を吐いた。
晴れの一人暮らしのスタート、最初に来た客が祐二だなんて――。
僕は目を閉じ、小さく首を振った。
その瞬間、小さな疑問が頭を過ぎった。
彼はさっき、歩いてココにやってきた。
もちろん「通り」に停めて、そこから歩いてきた可能性がないわけではないが……それらしき爆音も聞こえなかった。僕は耳の良さには自信があるのだが――。
「ココまでは……歩き?」
僕は祐二を窺った。
「まさか」
祐二は笑った。
「富井んちのハイエースで来たんだ」
「ハイエース……? なんで?」
つうか、富井はどこに行ったんだよ。
「なんでって、バラバラで集まったら停めるところに困るだろ」
「集まるぅ?! 誰がよ?!」
「誰がって、おまえよ――」
祐二は鼻で笑った。
そこにハイエースが入ってきた。
運転席の男は間違いなく酒癖の悪い大男だった。助手席にいるのは稲尾で、その背後にも無数の顔が見え隠れしている……考えられない。まさに悪夢だった。
「おお~。ココが北条君の新しい家ですか~」
運転席から下りてきた富井は、両手を腰に当て、仁王立ちしたまま「僕の家」を見上げた。
そして続々とハイエースから降りてきた見覚えのある面々……コイツらはいったい何しにやってきたのか。
「遅かったな」
「ああ、ちょっと迷ってさ。結局"マイカル"に行ってきたよ」
祐二と富井はそんな言葉を交わしながら、ハイエースのハッチを開けた。
すると続々と降りてきた他の奴らも、ぞろぞろとハイエースの後部に回った。
「湊ぉ! これ、ソッチに運んで」
「祐二ぃ。コレはドコに置く?」
「おい、なんでエバラじゃねえんだよ!」
「違うよ! それはそっち! いや、違うって!」
「肉、足りねえだろ。あとビールも」
「痛っ! てめえはさっきから足踏みやがってよ」
「つくねは? おい、つくねはよ――」
「……」
何なの、コイツら。
勝手にヒトんちに入り込んで――。
僕は彼らを冷ややかな目で見ていた。だけど誰一人としてそれに気付く様子がなかった。
さっきまでの心地のよい時間……いまでは遠い昔のことだったように思えた。
「それにしても、よくこんな家あったよな――」
稲尾が部屋を見渡して言った。奴はさっきから肉しか食ってない。
「二階ってどうなってんの?」
箸を持った手で天井を指さした。
彼は僕のプライベートゾーンに興味を持ったようだ。
内階段を上がった先、二階部分には六畳間が二つあった。
一つはダイニングキッチンで、もう一つはおそらく寝室になるのだろうとは思うが、まだ何も決まっていない。
この建物は一階のガレージだけを見ると、この建物全部を僕が借りているように見えなくもない。
しかし実際には、二階は二軒に別れている。
一階部分の形状から考えて、二階の奥にある隣室は、おそらく六畳間と水回りくらいしかないワンルームなのだろう。どんな人が住んでるのか、まだ会ったことはなかったが。
「おれもココに住もうかな」
「お~、いいね、それ」
祐二の言葉に湊が同意した。
まったくコイツらは勝手なことばかり言いやがって――。
僕はそっとため息を吐いた。
「冗談だよ! 冗談――」
僕の顔色を読んだように祐二は笑った。
だけど僕は、ココが本当にコイツらのたまり場になってしまうような気がして少しだけブルーになっていた。
「でも……マジでいいよ、ココ――」
稲尾がまた、真顔で呟いた。
「そりゃそうだろ」
便所から帰ってきた樫井が胸を反らせて言った。
「なんつったっておれが紹介したんだからよ」
樫井は立ったまま得意げに箸をつまみ上げた。そして「あれ?」と呟きながら二つの鉄板をキョロキョロと見渡した。
「おい――。おれの"つくね"はよ?」
樫井は鉄板を凝視したまま静かに呟いた。
僕は首を傾げた。少なくとも僕は食べていない。
他の奴らも首を傾げていたが、富井だけがやや挙動が不審だった。
樫井もそれを見逃さなかったようで、険しい視線を富井に向けたが……
しかし樫井はふっと表情を弛めた。
そして小さく息を吐き静かに腰を下ろすと、「ま、いいや」と穏やかな表情で呟いた。どうやら彼は僕が思っていたより大人だったみたいだ。
「まだあっただろ? どんどん焼いちまおうぜ」
樫井は笑顔で言った。
「ねえよ」
「は?」
「もう食っちまったべよ」
ほら――。
湊はカラッポになったトレイを掲げた。
「――ふ、ふざけんなよ!!」
樫井がキレた。
大人だったハズの樫井さんが完全に切れた……。
その声に過敏に反応したのは富井だった。
彼は鉄板の上に几帳面に広げていた肉を放棄し、怯えた目で後退りした。
「てめえ。なんでヒトのつくねにまで手ぇ出すんだよぉ――」
「樫井君、マジでごめん」
「まあ、落ち着けって……」
「だっておれは十本パックにしようって言ったのに、六本でいいでしょって言ったのは富井だろ?」
くだらない……。
僕は烏龍茶に手を伸ばし、熱くなっている樫井たちを眺めていた。
樫井は完全にヒートアップし、富井は防戦一方だった。そして彼らの間に祐二と湊が割って入っているが、ソレが余計に樫井を熱くしているようにも見える。
その騒ぎに乗じて稲尾は、富井が鉄板に残していった「まだレアすぎる肉」に箸を伸ばし、躊躇せずに口に運んだ。
しかし……すぐに出した。さすがにまだ焼きが甘かったようだ。
そして口から出したソレをそっと鉄板に戻す――
「おい待て」
伊藤が冷たい目で言った。「それは禁じ手だろ?」
稲尾は惚けたように後ろを振り返ったが……。ココでも騒動が勃発してしまった。
伊藤は潔癖な男だった。
さっき烏龍茶の缶を渡したときも、いつまでも口を付ける部分をティッシュで拭っていた。
一方、稲尾はナニも気にしない男だった。
さっきから見てると、鉄板からOBしたタマネギやピーマンを普通に箸でつまみ上げては普通に食っている……もはや人種が違うのだろう。
ん……?
僕はココで一人足りないことに気付いた。確かハイエースに乗ってたのは……
「あ……!」
そう思ったときには僕は立ち上がっていた。
鉄板を飛び越え、靴を脱いで階段を駆け上った。そして……予想通り、ソコに要救助者を発見した。
「おまえナニやってんだよ」
勘弁してくれよ――。
僕は日野の後ろ姿に向かって言った。しかも土足じゃねえかよ……。
しかし日野は無応答だった。
彼はダイニングキッチンの入り口で俯せになって倒れていた。たぶん酔っぱらって眠ってしまっただけなのだろうが……。
僕は恐る恐る、彼の周りを確認した。どうやら粗相は犯していないようで胸をなで下ろした。
さて……と。
まずはコイツをどうやって下に降ろすか、だったが――
「北条く~ん」
僕を呼ぶ声がした。
たぶん湊の声……僕は階段下を覗いた。
「なによ……」
「お客さんだよ」
やっぱり湊だった。
「……誰だよ、客って」
僕はそう訊いたが、彼はニヤけた顔で僕を見上げているだけで……その表情に僕は少しイラっとした。
仕方なく日野を転がしたまま、腑に落ちない気持ちで階段を駆け下りた。
だいたい客が来るわけなんかなかった。
「どうせ新聞屋の勧誘――」
一階は静かになっていた。さっきまでの騒ぎはすっかり収まっていて、奴らの視線は入り口付近に集中していた。
階段を下りきった僕は、半開きになったシャッターの隙間から外に顔を覗かせた。
「あ……」
そこには祐未さんが立っていた。
慌てて外に飛び出すと、シャッターを完全に下ろし、鬱陶しい視線をシャットアウトした。
僕は感激していた。祐未さんが来てくれたことに素直に感激していた。
しかも引っ越したその日に来てくれたことに――。
「ちょっと迷っちゃった」
彼女はそう言って肩をすくめた。
「だったら連絡をもらえれば迎えにいったのに」
そう言ってから、いまの僕には連絡手段がナニもないことに気付いた。
「聖志が書いてくれた地図のせいよ。これじゃ全然わかんなかったわ」
彼女は不満そうに言うと、手にしていた紙をヒラヒラとさせた。それは僕が病院で描いた地図だった。
「だいたいドコにベイブリッジがあるのよ」
彼女は地図を指で叩くと、辺りを見渡した。
「ドコって……」
僕は彼女の手を引き、通りに出た。
「ほら、あそこに」
坂を見下ろす方向を指さし、得意げに言った。
確かにベイブリッジは見えていた。昼間よりもはっきりと……。
しかし祐未さんは呆れたようにため息を吐いた。
「あのね……。ココから見えるからってあれが目印になるわけないでしょ? じゃあなに? 私の実家から富士山が見えるけど、富士山が私の家までの目印になるの?」
宇宙飛行士に家を教えるワケじゃないのよ――。
祐未さんは僕の描いた地図にさんざんなダメだしをした。
確かに言われてみれば、ベイブリッジとその他の目印の距離感がおかしい。
これじゃ最寄りの山手駅よりもベイブリッジの方が近くに見えるし、方角的にもバランスが悪い。だいたい、この通りだって本当なら――
「――じゃ、また出直してくるわ」
彼女はそう言って手のひらを翻した。
「え……?」
僕は地図から顔を上げた。
「帰っちゃうんですか?」
「うん」
彼女は当然というふうに頷いた。
「じゃ、じゃあ送っていきます。せめて家まで――」
「せめて家まで、ってなんなのよ」彼女は笑った。
「じゃ、駅まで――」
僕は食い下がったが、彼女は「友だちが待ってるでしょ」と窘めるように言った。そして「ちょっと安心した」と微笑んだ。だけどその言葉の意味は僕にはわからなかった。
「今度またゆっくりくるわね」
じゃ――。
祐未さんはそういって手を振ると坂道を下りていった。
僕は遠くなっていく彼女の背中をじっと見守っていた。
途中で一度だけ振り返った彼女に「追い払われるように」手を振られたが、それでも僕は彼女を見送ることを止めなかった。
僕は祐二たちの間の悪さを心の中で呪いながら、小さくなっていく彼女の後ろ姿を見送った。




