#024 報告
結局、僕はその倉庫を借りることにした。
大家の「プライバシーに関する考え方」には同意できそうもなかったが、いままで見てきた物件の中で唯一、自分の生活する姿が想像できるものだった。おそらく条件的には「ほとんど選択肢がない」ということもわかりかけてきた頃だったし。
倉庫を管理しているのは山下町にある不動産屋だった。
中華街に近いビルの一角にあるその会社は、看板にある「Realestate」の文字を見逃してたら「何屋」だかわからないような事務所だった。
担当だという若い男から受け取った名刺を見て、初めて彼らが日本人ではないと言うことを知った。
そして契約してカギを受け取る段になっても、大家とは顔を合わせることはなかった。
どんな人なのか会っておきたいという気持ちがあったのだが、担当の彼は柔らかい笑みを浮かべると「オーナーさんは高齢なので、すべて私が任されている」と流暢な日本語で答えた。
僕は契約書に視線を落とした。
貸主の欄には、東京の住所と「崔」さんという日本人っぽくない名前があった。
横浜で契約を終えた僕は、その足で一弥君の病院を訪れた。
一弥君のお見舞い、そして独り暮らしを始めることを祐未さんに報告するために――。
「へえ~、家出るんだ」
祐未さんはお茶を煎れる手を休め、驚いたような、感心したような表情で振り返った。
「でも……その方がいいと思うわ」
きっと聖志のためにも――。
彼女は言った。
僕は黙って頷いた。彼女の言葉の裏にあるものに気付いてはいたが、敢えてそれには触れないようにした。
祐未さんは僕が抱える複雑な悩みを知っていた。もっとも彼女の知る「それ」が僕の悩みの全てではなかったのだけど――。
「ねえ。開けちゃっていい?」
声に顔を上げると、祐未さんが上目遣いに僕を見ていた。
その手には僕が馬車道の洋菓子屋で買ってきた焼き菓子の箱があった。
「もちろん、いいですよ――」
彼女は僕が言い終えたときには既に包装紙の切れ目に指をかけていた。
僕は不意に口元が弛むのがわかった。
普段はヘンに年上ぶっている祐未さんだったが、時折見せる幼い仕草が僕は好きだった。だからこうして彼女が喜びそうなものを探してきては、一弥君のお見舞いにかこつけてココに通っている……もちろん一弥君には絶対に内緒だったが。
「これ、美味しい――」
彼女はそう言ってキレイな歯形がついたマドレーヌを僕の方に向けた。
「聖志は本当によく知ってるわよね、美味しいものとかお店とか。やっぱり――」
彼女はそう言いかけたところで「あ……」という顔をして口ごもった。
きっと僕の表情は変わらなかったと思うが、それでも彼女は慌てて次の話題を探し始めているようだった。
「――好きなんですよ」
僕は微笑んだ。
「美味しいものを探すのが好きなんです。たぶん……父に似たんでしょうね、きっと」
だからといって「レストランを出そう」とは思いませんけど――。
僕は一番他人に言われたくない台詞を自ら口にした。さほど気にしていないといった素振りで。
しかし彼女は何も言わなかった。
僕の言葉に何の反応も示さず、立ち上がり、窓を薄く開けた。
同時に吹き込んできたのは、ガラス越しに見る穏やかな春の陽気とは裏腹なひんやりと冷たい風だった。
それは僕の火照った心を急速に冷ましていくかのようだった。
「お――」
窓際に立っていた祐未さんが下を覗き込んだ。
「聖志のクルマ見っけ!」
彼女は髪を掻き上げると僕を振り返った。
「……よく見付けましたね」
僕は言った。少し上擦った声で。
「簡単よ。だってあんな古いクルマ、他にないもの」
彼女は悪戯っぽく微笑んだ。
その表情とフレーズに、僕は微かな懐かしさを覚えた。
僕がAA63を買った頃、彼女は「一弥君のKP」と「僕のAA63」を眺めては「ポンコツ」呼ばわりしていた。
確かにその当時から既に「古さを否めない」クルマではあったが「良いクルマと新しいクルマはイコールではない」と僕は思っていたし、なによりこのクルマを僕は気に入っていた。だからそのたびに僕と一弥君はムキになって反論した。もっとも祐未さんはそんな僕らの言葉に耳を貸さなかったが。
「……確かに古いですけど、程度は悪くないですよ」
愛情がこもってますから――。
僕は言った。敢えてあの当時とまったく同じフレーズを返した。
「しかも今度の家は完全なガレージですし――」
「ガレージ?」
彼女は「ガレージ」にという言葉に食いついてきた。
僕は今度借りる「ガレージ付の家」について身振りを交えて説明した。しかし彼女にはあまりよくは伝わらなかったようで、頻りに首を傾げられた挙げ句、最後には「もういいわ」と話を遮られた。
「ま、そのうち招待してもらおうかな」
その方が早いわ、きっと――。
祐未さんは笑った。
***
次の週末、僕は定例の走行会を初めて休み、自室にこもって荷造りをしていた。
荷造りとは言っても大した荷物はなかった。
引越業者に頼むまでもなく、誰かに手伝ってもらう必要もない。
職場からくすねてきたダンボール箱が五つ。それがこの家で育った僕の二十三年間の全てだった。
翌朝、いつもより少しだけ早く起床した。
とはいっても、ただ横になっていただけで、相変わらず眠りが訪れる様子はなかったのだが。
普段の日曜日なら明け方に帰宅して、いまごろは効かない薬を飲んで、いつ来るとも知れない睡魔の訪れを待っている頃だった。
緊張と昂奮で冴えきった頭をクールダウンしながら――。
「あ……」
リビングに顔を出した僕を見て、母は驚いたというより絶句した。
壁の時計は八時を指していた。普段なら昼過ぎまでは顔を見せない僕が「こんな時間」に現れたことで驚いているんだろうが……相変わらず感心しないリアクションをするヒトだ。
「あ……いま、朝食の――」
「いえ、コーヒーだけ……お願いします」
慌ててキッチンに向かう彼女の背中にそう告げると、僕はソファに腰を下ろし、左手で取り上げた新聞を広げた。
特に興味を惹く記事はなかった。
新宿で発砲事件があったとか、九州で白骨化した死体が見つかったなんて記事があったが、いまでは他人が不慮の事態で死ぬなんて珍しい事じゃない。近しい人間が巻き込まれたならともかく、アカの他人の身に降りかかったそんな不幸なんて、僕にとっては「アフリカで見ず知らずの人がクシャミをした」こととそれほど変わらない。つまりどうでもいいことだった。
「……出掛けるの?」
母が呟いた。
「はい?」
僕は新聞ごしに彼女を窺った。
彼女は僕の目の前にコーヒーのカップを置くと、向かいのソファに腰を下ろした。
「どこかに出掛けるの?」
もう一度彼女は言った。
僕は広げていた新聞を閉じると、カップを手に取った。
「……なんでですか?」
言ってからコーヒーに口を付けた。
すると彼女は「随分、早起きだから」となんの感情も窺えない顔で言った。
惚けてるのか……?
僕は一瞬思った。しかし彼女の表情を見る限りそうではないようだ。
たぶん彼女は父から何も聞かされていないのだろう。
もちろん僕も話してない。
話す機会もなければ、その必要性も感じなかったから。
だから彼女は知らないのだろう。今日、僕がこの家を出て行くということを――。
「ええ。出掛けますよ」
僕は小さく笑った。もう帰って来ないから安心してください――、そう言おうかと思ったがそれは大人げないので止めておいた。
コーヒーを飲み終え、カップをキッチンに下げ、いったん自室に戻る。
部屋を出る前に開け放しておいた窓を閉め、室内を見渡した。
ダンボール箱は昨夜のうちにクルマに積み込んでいた。しかし、もともとあまりモノを置かない主義だったので、荷物を運び出したあとでも代わり映えのしない景色だ。
僕はデスクの抽斗を一段ずつ開けて忘れ物がないかを確認すると、昨夜書いた母と由佳里宛の手紙をバッグから取りだした。
さすがに完全に黙ったまま、誰にも事情を知らせないままいなくなるのは拙い気がしていた。
事情を知ってる父はあまり家には帰ってこない人だから、先走った由佳里あたりが警察に捜索願を出さないとも限らない。だがそれはみっともないし、とても困る。
僕は手紙をデスクの上に並べて置くと、イスに引っかけてあったジャケットを掴み、ドアを開け放したまま部屋を出た。
由佳里の部屋のドアは固く閉ざしたままだった。おそらくまだ寝ているのだろう。
でも僕にとっては好都合だった。勘のいい彼女は、この時間に出掛ける僕に対して疑念を抱くハズだ……何の根拠もなかったとしても。
僕は足音を立てないように階段を駆け下りた。
そしてそっとリビングに顔を出す――。
母はぽつんとソファに腰掛けていた。
その横顔はどこか愁いを帯びているようで……考えてみれば当然だった。
この家の中で、彼女は間違いなく孤独だった。
いまの生活が彼女が夢見ていた「幸せな家庭」とはまるで違うということはあらためて聞くまでもなかった。
この家に来たことが、彼女にとっては不幸の始まりだったのだろう。
なんだか……らしくないですよ、そんなシケた顔――。
駆け寄って笑い飛ばそうかと思った。
だけど思っただけで、踏み出そうとした僕の足は固まったまま動かなかった。
初めてあった頃の彼女はもっと明るい人だった。勝ち気で活発な人だった。そして……
僕はそっと後退りした。
彼女に気付かれないよう、静かにシューズを履き、音を立てずに玄関ドアを開けた。
最後くらいは「いってきます」と言ってから出ていこうと思っていたが、ちょっと難しそうだった。いまの彼女と真っ正面から顔を合わせる自信が僕にはなかったのだ。
僕はそっと玄関をくぐった。
結局誰にも挨拶することなく、長年住み慣れた実家を離れた。




