#023 Cassini
その二日後、僕は樫井に呼び出されて川崎市内のファミレスに来ていた。
僕が着いたときには樫井はすでに到着していて、独りでリゾットをつついていた。
左手に嵌めた時計に目をやると、約束の時間まであと一〇分ほどある――。
「いっつも早いな、本当に」
僕は樫井の向かいに腰を下ろすと、褒めると言うより呆れた感じで呟いた。
樫井はリゾットを頬張ったまま小さく頷いた。彼はセカセカとリゾットをかっ込んでいる。
「いいよ。ゆっくり食いなよ」
思わず僕は微笑した。
そして通りかかった店員を呼び止めると、コーヒーを二つオーダーした。
店員が立ち去ると、僕は前傾姿勢の樫井に視線を落とした。
彼は小柄な男だった。背格好もそうだったが、全体的な彼を構成するパーツ自体が小さかった。そして童顔だった。
短く刈り込んだ髪の毛は、前髪付近は赤茶色に染まっているが、頭頂部に近付くにつれ黒くなっている。
両耳にピアスの痕を見つけた。彼がピアスをしているのは見たことがないから気付かなかったが、普段の彼はピアスをしているのかもしれない。
外見で判断するのもなんだが、いかにも適当そうな男に見える。しかしコイツは意外なくらいにきちっとした男みたいだった。特に時間に関しては。
――お待たせ致しました。
テーブルにコーヒーが運ばれてきた。
僕はカップをソーサーごと引き寄せ、ミルクをたっぷり注いだ。そしてゆっくりと口に近づけた。
「砂糖は?」
声に視線だけで反応すると、樫井が口元を拭っていた。
「なんか言った?」
僕はカップをソーサーに戻した。
「砂糖は入れないのか」
樫井はそう言いながらスティックシュガーの先端を指先で千切り、コーヒーに溶かし込んだ。
僕はその一連の所作を見届けてから「今日はな」と短く答えた。
それからしばらく、僕らは黙ったままコーヒーを味わっていた。とは言っても味わうほどの味ではなかったが。
樫井は途中で煙草をくわえた。銘柄はラッキーストライクだった。
しかしライターが見当たらなかったようだ。
しばらくポケットを探ったりしていたが、やがて諦めたようにくわえていた煙草をパッケージに戻し、未練がましい表情のままそれをテーブルに置いた。
僕もライターは持っていなかった。残念ながら彼のチカラになってあげることはできないようだ。
「ところで、その倉庫ってどこにあるんだ?」
僕は尋ねた。
樫井は僕の方に目を向け、ゆっくりと首を傾けると「海に近い方……だな」とはっきりしない返事をした。
海に近い方――。
僕は樫井の言葉を反芻した。漠然とし過ぎてイメージは湧かない。川崎辺りの工業団地みたいなところならいいが、逗子とか茅ヶ崎の方は勘弁だった。
そもそも本当は「海に近いところ」は希望から外れていたのだが。
「お、来たみたいだな――」
窓の外に目を向けていた樫井が呟いた。
彼の視線の先には青いトレノがあった。祐二が駐車スペースにバックでクルマを入れているところだった。
僕らは祐二の到着を確認すると、会計を済まして外に出た。
祐二は僕らが店を出てきたことになぜか不満そうな顔をしたが、樫井はそれに構わず歩み寄り「ライター貸して」とだけ呟くと、祐二からライターを受け取り、くわえた煙草の先に火を付けた。
ふぅ……。
樫井は目を閉じ、満足そうに煙を吐きだした。そして僕を振り返った。「じゃ、早速行くか――」
「おいおいちょっと待て……」
祐二が声を上げた。
「おれ、まだメシ食ってねえんだけど」
なるほど。不満の正体はそれか。
「あとにしろよ。遅刻する奴が悪い」
樫井はにべもなく言った。
祐二は下唇を突き出して不満を表明していたが、樫井はそれにまったく気付いていない様子だった。
ファミレスを出た僕らは、尻手黒川線を川崎方面に向かった。
AA63の助手席には樫井が座っていた。彼は走り始めてすぐに「一国(=国道一号線)に出たら、下り方面な」と僕に告げると、それっきり口を閉ざして窓の外を眺めていた。何を考えてるか読めない男だ
そしてさっきまで不満そうだった祐二だが、いまは大人しく僕の後ろを走っている。
ファミレスの駐車場で「腹が減った」と駄々っ子のように騒ぐ祐二に、僕は「せっかくだから食っていけばいいだろ」と言った。そして「倉庫へは樫井と二人で行くから」と。
べつに意地悪をいうつもりではないが、祐二が着いてくる必然性を感じなかったし、僕のために祐二が食いっぱぐれてしまうのは気の毒に思っていたし。
しかし祐二は着いてきた。メシを諦め、僕の家を見に行く方を選んで……変わった男だ。僕には理解できない。
やがて南武線の尻手駅を過ぎ、国道一号線にぶつかった。
僕は右折帯で停止し、ルームミラーを窺う……祐二と目があった。
背後にピタリと付けた彼は、僕の視線に気付いて戯けたような笑みを浮かべたが、僕はそれを鼻で笑い、目を逸らした。
信号が変わった。
僕はゆっくりとアクセルを開き、交差点に進入した。
「青木橋を左、な――」
樫井はボソッと呟いた。
了解――。
僕は小さく応えると、軽くアクセルを踏み込んだ。
青木橋の信号を左に曲がり、すぐに右にステアリングを切る。クランク状の交差点を抜けると、頭上には首都高速横羽線が延びていた。
僕はこの道を通った記憶があまりない。横羽線を走ることもあまりなかったが、その下の道を走ることはもっとなかった。
「桜木町のほうに行ってくれ」
樫井は言った。
横浜そごうを通り過ぎ、高島を左に曲がる。国道一号線から離れて桜木町方面へと向かう。東横線の高架下の壁を左手に、長い直線が続いている。
「ドコに向かってんのよ?」
僕は呟いた。
半分独り言のようなつもりで。
「ここからはそれほど遠くはねえんだけど……」
樫井はそう言うと「あそこって右折できたんだったかな……」とブツブツと独り言を言った。そして「取りあえず港の見える丘公園まで行ってくれる?」と自信がなさそうに呟いた。
桜木町の駅前を左に折れ、僕らには不釣り合いなオフィスビルの建ち並ぶ街並みを走り抜ける。やがて正面の信号が赤に変わり、首都高速の高架が見えてきた。
信号が変わると、直進して首都高の高架をくぐり、元町を掠めて谷戸坂を上りきる。左手には港の見える丘公園が現れた。
「じゃ、ここをまっすぐ――」
僕は樫井の指示通りにクルマを走らせた。
その後も分岐が現れるたびに樫井が「自信なさげ」に指さす方向に進んだ。やがて右側に病院のある細い坂を下りきると赤信号が見えた。どうやら広い道に出たらしい。
「ココを右、で次の信号も右」
樫井は言った。さっきよりも自信がありそうだった。
信号が青に変わって右に出る。次の信号も赤だった。
交差点の右折帯に停止したときになって、ようやくいま自分がいる場所が把握できた。
信号の角、そこには警察署がある。ここの景色には見覚えがあった。
『――聖志、今日は"D突"集合な?!』
よく一弥君は僕にそう言っていた。
クルマの免許を取ってすぐの頃、僕は一弥君に連れられてD突……本牧のD突堤に走りに来ていた。
真夜中の突堤で、ドリフトや八の字ターンを飽きもせずに繰り返していた。
あの頃よく見ていた一弥君の八の字ターンは、富井たちが十国パーキングでやってるものとは次元がまるで違うモノで、それこそ飽きることもなく明け方まで眺めていたものだった。
途中、何度か警察がやってきたこともある。
彼らは本気で掴まえようとは思ってなかったんじゃないかと思うくらいに、遠くからサイレンを鳴らしてやってきた。多分、ココの警察署の人たちだったんだと思うが――
「青だぞ――」
樫井の言葉に我に返った。
僕は前から来るクルマがないことを確認すると、横断歩道を一瞥してからアクセルを踏み込んだ。
「そこ。そのコンビニの先を左に入ってくれ」
言われたとおりに左にステアリングを切ると、すぐに細いT字路にぶつかった。
僕は樫井の指示に従い、右折してすぐを左折し、目の前に現れた坂道を上り始めた。
「え~と、確かこの辺なんだが……」
坂の頂上付近に来たところで樫井が呟いた。
フロントガラスに顔が着きそうになるくらいに身を乗り出した樫井は、キョロキョロと表札を覗き込んだりしている――
「あ! 止めて」
樫井が叫んだ。僕は道の真ん中にクルマを止めた。
「お~ココだ、間違いない」
樫井は僕の身体をかいくぐるようにして、運転席側の窓の先に視線を延ばした。
その視線を僕は追った。そこには車一台が通れる程度の路地が延びていた。
僕はその場に樫井を下ろすと、左側の民家の塀沿いにクルマを寄せて停めた。そのすぐ後ろには祐二のトレノが停まった。
ギヤを一速に入れ、サイドブレーキを強めに引いてクルマを降りる。
坂道から見下ろした先にはベイブリッジが見える……しかしそこにはそれほど魅力は感じなかった。
「ココがその倉庫だよ」
それは路地に入ってすぐにあった。
シャッターが下りた倉庫は、赤茶色の煉瓦調のサイディング貼りで……二階建てのようだ。
道路と建物の間には、車が二、三台は停められそうなコンクリート打ちのスペースがある。目の前の道は狭いが、コレだけのスペースがあれば車の出し入れには何の問題もなさそうだ。
「ほー。悪くねーじゃん」
祐二の言葉に、僕も頷いた。
「だろ?」
樫井は得意げに鼻の穴を膨らませた。
悪くない――。確かにそう思った。
周りを住宅に囲まれているというのはイメージと違っていたが、それ以外については僕が理想としていたものに近い。
仕事場からも実家からも遠いが、それはべつに構わない。寧ろフラッと入った近所のコンビニで、顔も忘れたような同級生と会う可能性が低いだけでもありがたいくらいだ。
「二階はどうなってんの?」
僕は二階を指さした。
樫井の話では、二階には二部屋あって、手前の部屋は下の倉庫と内階段で繋がっているそうだ。奥の部屋は独立していて、べつの人が借りているらしいのだが、どんな人なのかは樫井ももちろん知らなかった。
「じゃ、ココは奥の人も使うのか?」
僕は足元の駐車スペースを指さした。
「いや、確かここは倉庫とセットって言ってたと思うよ、確か……な」
樫井は「確か」を連発して逃げるように僕から離れた。つまり、かなり「不確か」だということらしい。
僕から離れた樫井は、ポケットから取りだしたカギでシャッターのロックを解除した。
ガラガラと音を立ててシャッターが開く……露わになった室内を見て、僕は目を疑った。
中には荷物が残っていた。
というより、完全にまだ誰かが「住んでいる」状態だった。
「おい……。まだ住んでるだろ、これ?」
僕は樫井を呼び止めた。
そんなことを気にせず室内に足を踏み入れていた彼は、僕を振り返り「でも今月いっぱいで退去るらしいぞ」と笑顔で言った。
いや……そういう問題じゃないだろ――。
僕は首を振った。
結局、僕は室内には入らず、外から覗くだけにしておいた。
倉庫内にはバイクが五台置いてあった。
バイクは新しいモデルから古いモデル、そしてメーカーもバラバラ。ただ、どれもナンバープレートは着いていて、手入れは行き届いているように見えた。
現居住者はバイク関係の仕事をしているのかもしれない。
とは言ってもレースの方ではなく、整備・販売の類だろうが――。
ん……?
ふと、一台のバイクが目に留まった。
スズキのRGだった。γが出る前の古いタイプだ。
紺色の車体はピカピカに磨き込まれていて、かなり大事に乗られているのだろうということは傍目にもわかった。
ほぼノーマル状態のそのバイク、特徴と言えばタンクに貼られたステッカーくらいのもんだが……。
そのステッカーのロゴに見覚えがあった。
間違いなく見たことがある。しかしそれを何処で見たのかはどうしても思い出すことができなかった。




