#021 Cheese cake
翌日、僕は吉見の元を訪れた。
小田急線の祖師谷大蔵と成城学園前の中間くらいの位置にある、世田谷通りにほど近い雑居ビル――。吉見栄介の事務所はそこの五階にあった。
昼休みに職場から電話して「午後七時に行く」と伝えてあったが、ビルのエントランスをくぐったのは約束の時間を一時間近く過ぎた頃……完全に遅刻だ。
「――そうかあ。聖志君ももうそんな年齢になったのかあ」
吉見は遅刻した僕を非難する様子もなく、そう言って右手に持った湯呑みを僕の目の前に置いた。
私も年を取ったわけだな――。
彼は僕の向かいに腰を下ろすと、目を細め、左手に持ったお茶を啜った。
僕はお茶を啜る吉見の顔を窺った。
しばらく会わないうちに随分老け込んだようにも見える。皺も増えたと言うより深くなったような……そういえば「今年還暦を迎えた」と誰かが言ってたような気がする。
しかし、時折見せる眼光の鋭さと黒々とした髪の毛はその年齢を感じさせない。昔、家に出入りしていた頃と同じだった。
彼と初めて会ったのは、僕がまだ中学生の頃だった。
当時は「吉見商事」という小さな看板を掲げた不動産屋の社長で、町田の外れでちまちまとした仕事をしていたはずだった。
家族はいなかった……と思う。バツ2だと本人が言ってた記憶がある。
どういう経緯で父と知り合ったのかまでは知らないが、いまでは「吉見商事」という看板はおろし、北条興産の役員として不動産部を総括しテナント管理、そしてレストラン事業の店舗展開の一翼を担っている。一般の顧客をほとんど相手にしていないから、こんな一見するとやばそうなビルの一室で商売がやっていけるのだろう。
「だいたいの話は社長から伺ってるんですけどね――」
吉見はそう言って席を立つと、デスクの上に乱雑に積み上げられた書類を漁りはじめた。
あった、これこれ――。
しばらくして嬉しそうな顔で独り言を呟くと、クリップで留められた紙をつまみ上げ、それを僕の目の前に置いた。紙は賃貸物件の"チラシ"だった。
「いま不景気ですからね、賃料が下がったモノも多いんですよ」
ドコの大家さんも困ってるみたいでね――。
おおよそ僕が興味を持つとは思えない話題ばかりを振ってくる吉見を無視し、僕は目の前のチラシを手に取り、そして眺めた。
「あ。一応、コレが一番のオススメかな――」
吉見は僕の視線を遮るように手を伸ばし、上から三枚目辺りにあったチラシを一番上に持ってきた。
「オートロックが付いてて、ペットもOKだし、勤め先にも近いし――」
ノリノリで説明してくれてるところ本当に悪いとは思ったが、彼のオススメポイントに僕はいっさいの魅力を感じなかった。オートロックはいらないし、ペットを買う予定もない。それに勤め先までの距離はまったく重要ではない……たぶんもうすぐ辞めるだろうし。
「なにしろ分譲マンションだから作りも良いし――」
「車庫は?」
そう言うと僕は湯呑みを手に取った。
お茶は濃い緑色をしていた。
僕はそれを口に含み、そっと舌の上で転がす……までもなく、どうやら粉末のお茶のようだった。考えてみれば吉見が抹茶を点てるわけがないし。
「え~と……確か――、月極駐車場なら近くにあった、かな……」
吉見は途端に歯切れが悪く応えた。
「じゃ……却下だね」
僕はそう言ってお茶を啜った。
駐車場が「近くにある」では話にならない。最低でも同じ敷地内で、できれば常に目の届くところにあるのが理想で……。
「例えば――、倉庫ってないんですか」
僕は身を乗り出した。
「え。倉庫……ですか?」
「ええ。ガレージを兼ねた部屋なんか理想ですね。例えば――」
僕はウチの近くにあるペンキ屋の名前を出した。
車庫をそのまま事務所にしてしまったような汚いペンキ屋……ソコなら吉見も見たことがあるはずだった。
しかし吉見は怪訝そうな顔をしていた。そして「あれは住居ではないですよ」と困惑したように言った。
「わかってますよ」
僕は頷いた。あれが住宅ではないということは、そんなふうにあらたまって言われなくてもフツウにわかる。でも、屋根があって壁があって扉と窓があればあとはどうでもいいような気がした。しかも車が入るのであれば言うことはない。
「でもなあ……」
吉見は歯切れが悪いままだった。
客である僕がいいと言ってるのに……おかしな人だ。
「社長に怒られちゃいますなあ……倉庫に住まわせたなんて――」
「平気ですよ」
僕は何気なしに言った。
実際のところ、父が僕の家探しに干渉してくることはないように思う。そもそもその為に手切れ金を受け取ったワケだし。
「とにかく。倉庫の線でお願いします」
お茶、ごちそうさまでした――。
僕は立ち上がると深く頭を下げた。そして困ったような笑顔を浮かべた吉見を残し、事務所を後にした。
コインパーキングのある裏通りから世田谷通りに出た僕は、農協の角の信号を左に入った。
東名高速道路の下をくぐり、川沿いの多摩提通りをゆっくりと走る。
窓を開け、右手の方を窺ってみる。世田谷区の運動場があるはずだったが、そこにはうっすらとした暗がりが広がっているだけで人の気配は感じられなかった。
やがて国道246号線をくぐると、二子玉川の駅前に出た。
信号は赤だった。
僕は右にウインカーを出し、青に変わるのを待ちながら、目の前を行き交う人たちを眺めていた。
高校生の頃、僕はよくこの場所に来ていた。正確に言うとこの近くのチーズケーキ屋に連れてこられていた、おそらく月に三、四回くらいは。
当時の僕はあまりチーズケーキは好きではなかったのだけど、結局それを言い出すこともできないまま……そんなことを考えてたら空腹であることに気付いた。
信号が変わった。
僕はスタートと同時にウインカーを左に出し直した。
つい数秒前までは家に帰るつもりでいたのだが、空腹を覚えた瞬間に気が変わった。
僕は行き先を変更して東京方面に向かった。
高島屋の前を駆け抜け、玉川通りを目指した。
***
家に着いたのは一〇時を大きく回った時刻だった。
玉川通りを下り、用賀を過ぎた辺りまでは「このまま大垂水へ」なんて考えていたのだが、多摩川を渡る頃にはなんだか億劫になり、このまま家に帰ることを選択した。
家の駐車場には母のルノーしかなかった。
僕はどこかほっとしていた。いま父と顔を合わせるのは面倒だったのだ。
今日、僕が吉見の元を訪れたことは当然父も知っているはずだった。さすがに今日話した内容まではまだ聞いていないとは思うが、一応僕の方から父に報告する必要はあると考えていた。
しかし今日はとにかく色んなことが億劫だった。こんな日に彼と向き合ったら、僕の不快指数はメーターを振り切るように、際限なく上がり続けてしまうのは明らかだった。
玄関で靴からスリッパに履き替え、いつもなら真っ直ぐ階段を上るところだったが、僕はリビングに顔を出した。
リビングには母がいた。彼女は吃驚したように立ち上がり「おかえりなさい」と消え入りそうな声で言った。
「ただいま――」
僕は怯える小動物を気遣うように、小さくそして穏やかな口調で言った。
彼女はいつも小さくなっていた。この家は彼女にとって居心地のいい空間ではないらしい。もっともそれは僕にとっても同じことだったが。
しかし僕が出ていけば、また少し状況が変わるのかもしれない……ま、是非そうであってほしいが。
「……なにを、探してるの?」
リビングを歩き回る僕に、彼女は恐る恐ると言った感じで尋ねてきた。
僕は彼女に目を向けることなく「広告を探している」と言った。不動産屋のチラシが入っていたのを最近見たような気がしたのだ。
「ちょっと待って……」
彼女は語尾を濁しながらリビングを出て行くと、しばらくして戻ってきた。その手には広告の束を握りしめて――。
「あ、すみません……」
僕は軽く頭を下げ、彼女から広告を受け取ろう……としたところで、左手にぶら下げていたビニール袋の存在に気付いた。
「あ。これ……あとで由佳里と食べてください」
僕は箱に入ったチーズケーキをビニール袋ごと彼女に差しだした。
彼女は受け取った袋を覗くと、驚いたように口を開け、そしてその顔にはみるみる笑みが広がっていった。
その懐かしい笑顔に思わず釣られそうになったが、ワザと顔を顰めてそれを堪えると、彼女と目を合わせることなくリビングを後にした。
自室にこもり、ベッドに腰を下ろし、さっき受け取った広告を広げてみる。
しかしそこには目当ての広告は入ってなかった。不動産屋のチラシは一枚も入っていない……。
僕はしばらく思案に耽っていたが、ポンと膝を叩いて立ち上がった。
ないとわかると気になって仕方がなかった。こうなったら住宅情報誌の類を買ってくるしかない――。
そう思ったときには部屋を飛び出していた。
階段を駆け下りると、母がリビングから顔を出した。
「ちょっとコンビニまで行ってきます」
僕は彼女が口を開く前に言った。「すぐに帰ってきますので……」
何かを言いかけた彼女を制し、僕はシューズの踵を踏んだまま玄関を飛び出した。駐車場に停まったAA63を横目に、僕は通りに続く路地を歩き出した。
コンビニはすぐ近くにあった。歩いても五分も掛からない。しかし、こうして歩いて行った記憶は中学の頃まで遡らないとないくらい……というより家に近すぎるそのコンビニは、利用すること自体がほとんどなかった。
――いらっしゃいませ。
感情のこもらない挨拶に迎えられ、足を踏み入れたコンビニ。
暗い外の道を歩いてきた僕は、店内の明るさに目を細めながら雑誌の陳列棚の前に立った。
目当ての雑誌を手に取りパラパラとページをめくる――。
しかしソコには倉庫なるモノの情報は一切掲載されていなかった。つまりコレを買って帰っても意味がない。
一瞬、他の店に行くことも考えたが、ここまで歩いてきたことを思い出して断念した。
諦めた僕は、たまに買ってる自動車関係の雑誌を手に取り、レジへと向かった。
「――になります」
僕は財布から千円札を一枚取り出し、レジの女の子に手渡した。
女の子は不自然なくらいに真っ茶色に髪を染めていた。店内の明るすぎる照明が余計にその不自然な茶色を際だたせているようだった。
「――円のお返し……あれ?」彼女は首を傾げた。
「北条くんだよね」
「……」
「あ・た・し・よ!」
そういって自分の顔を指さす彼女をじっと見つめた。
しかし、その顔が僕の記憶と重なる気配はまるでなかった。
「小学校の三、四年のとき同じクラスだったサトミ……なんだけど……憶えてないみたいね?」
サトミと名乗る彼女は喋りながらトーンダウンしていった。明らかに拗ねたような表情で……。
「あ、ああ――」
僕は何かを思いだしたかのように頷いた。
やはり彼女に見覚えはなかったが、曖昧に頷いたまま逃げるようにその場を後にした。
「あれ? 部屋にいたんじゃなかったの」
僕の部屋の前に立っていた由佳里は、帰宅した僕を見て不満そうな表情を浮かべた。「クルマだってあったし」彼女はそう言って口を尖らせた。
どうやら僕がコンビニに行ってる間に帰ってきて、何の用があるんだか、ずっと僕の部屋をノックしていた……ということのようだ。
「ん……ナニ買ってきたの?」
彼女はそう言って僕の手からコンビニの袋を取り上げたが、中身に興味がなかったようでナニも言わずに返してくれた。
「そんなことより――」
由佳里は僕に数学を教えてほしいと言った。得意だったでしょ、と。
彼女が言うには、塾で出された問題のなかにどうしても理解ができないモノがあるというのだが……現役の学生である彼女が理解できないモノを、いまの僕にわかるのかと言われるとちょっと首を傾げざるを得ないが――
「――どれよ、その問題って」
僕は呟いた。
「え……教えてくれるの?」
由佳里は目を丸くした。
「……教えてくれって言わなかったか」
僕は首を傾げた。
彼女の言葉をどう受け取ったらいいのかよくわからなかった。
「え。あ……ああ、ちょっと待って。ええ~とね……」
彼女は僕の気が変わらないウチに、とでも思っているのか慌てて問題集のページをめくった。
僕はそんな彼女に背を向け、部屋の番号錠をを解除し、ドアを開け放ったまま部屋に足を踏み入れた。
買ってきた雑誌を袋ごとベッドの上に放り投げ、鍵と財布をデスクの横の棚に置き、脱いだ上着はハンガーに掛けて……とココで僕は振り返った。
由佳里は部屋の入り口で立ち尽くしていた。問題集を小脇に抱えたまま、じっと僕の動きを見つめていた。
「なにしてんの」
僕はそう言ってデスクの椅子を指さした。
「え……入ってもいいの?」
由佳里は大げさに驚いている……僕は静かに頷いた。彼女はまた驚いた。
そのいちいち目障りなリアクションが気になったが、物珍しげに部屋を見回す無邪気な彼女を見ていたら、そんなことはどうでもいいことのように思えてきた。




