#020 手切金
水曜日の天使……か――。
僕はベッドに仰向けになると、腕で顔を覆うようにして、そのまま目を閉じた。
そして昨日の光景を思い起こそうとした。なるべく詳細に、記憶の隅まで掘り起こすように。
環状線の外回り、神田橋の手前で僕は天使を見つけた。
遙か前方の左車線を悠然と流すケンメリを、僕はその視界にはっきりと捉えていた。
僕はぐっとアクセルを踏み込んだ。
するすると加速したAA63は天使を射程に捉え、仕掛けるタイミングを後方から窺う……ココまではこの間の祐二と同じだった。
さらにアクセルを踏み込み、江戸橋JCTの右急カーブの入口で完全にテールを捉えた僕は、天使のインを狙いながらピタリと背後に張り付いた。
ここで天使は速度を上げた。だけどそれを予測していた僕は慌てることはなかった。
僕らは熾烈なテール・トゥー・ノーズを展開しながら、汐留まで続く緩やかな直線に入る――とココまではまったくの想定内の出来事だった。しかし――
右車線を走っていた天使が、突然左車線に動いた。
車線を跨ぐ橋桁の存在に気を取られ、僕の反応が一瞬遅れた。
僕は橋桁をかわして左にステアリングを切ったが、それを読んでいたかのように天使は右に動き、さらに加速した。
いったん離された車間……今度はなかなか詰まらなかった。そして……
それは一瞬の出来事だった。
僕らの走る右車線の前方に、まるで障害物のような速度の一般車がいるのが見えた。
天使は左車線に入った。後を追う僕も同じように左車線へと入る――
「危ない!」
助手席の熊沢が叫び、僕は反射的にブレーキに足を掛けた。
右車線のマーチに並びかけたとき、一般道から上がってきたセルシオが、僕らとの速度差をまったく考えずに本線へと合流してきた。
その刹那、目の前の丸いテールランプがAA63の鼻先に急接近し、僕の視界を真っ赤に染めた。
そしてフルブレーキングで暴れ出したAA63のテールを、僕はステアリングを握ったまま必死に押さえ込む――。
次の瞬間、視界を包んでいた赤い光がすぅっと消え去った。
天使はセルシオとマーチの間を縫うように右車線に滑り込んでいた。
そして再び左車線のセルシオの前に入ると、さらに速度を上げ、やがて僕の視界から完全に消えてなくなった。
僕は天使に振り切られた。
一瞬の隙を突かれ、完全に取り残されてしまったのだ。
――コン、コン。
ドアをノックする音……僕は目を開いた。
ベッドサイドの時計の針は九時ちょうどを示している。
「はい――」
僕はベッドから起きあがり、そっとドアを開けた。
ソコにいたのは母だった。
彼女は僕と目を合わせることなく、父が呼んでいるということだけを僕に告げると、一度もコチラを振り返ることなく階段を下りていった。
彼女の後ろ姿を見送ると、僕は小さくため息を吐いた。
父が呼んでいる――。
最近では滅多に無いことだった。父が僕を呼び出す理由に心当たりはないが、何かを褒めてくれるために呼んだわけではないのは間違いがない。
彼と話した後、必ず自分がイヤな思いをするのは経験上わかっている。しかし彼の呼び出しを拒めないというのも、この家に住む者の暗黙のルールだった。
重い足取りで階段を下りていくと、リビングから顔を出した母は二階をつんつんと指さした。
二階。つまり書斎にいると言うこと……僕が一階に下りた意味はまったくなかったというわけだ。
先に言えよな――。
気が利かない彼女に苛立ちを覚えたが、僕は小さく頷いただけで、ナニも言わずに階段を上り始めた。
父の書斎は二階の奥にあった。
真っ直ぐに書斎に向かった僕は、木製の扉の前に立ち、一度だけ大きく息を吐いた。木製の扉は、父が「知り合いの建具職人」に誂えてもらったという自慢の代物だった。
僕はドアの中央部を二回、拳で叩くと、中からの返事を待たずにドアノブに手を掛け、室内へと足を踏み入れた。
父は僕に背を向けていた。
とは言っても、背もたれの高いイスのお陰で頭のてっぺんしか見えない。父は窓に面したデスクに向かっていた。
僕は後ろ手に扉を閉め「呼ばれたみたいで――」と黒い皮製の背もたれに向かって呟いた。
「そこに座れ」
やや遅れて聞こえてきたのは"いっさいの飾り"を取っ払った必要最低限の台詞だった。
僕は、父に聞こえるくらいの大きなため息を吐くと、茶色い革張りのソファーに腰を下ろした。そしてあまり足を踏み入れることのないこの部屋を見渡した。
八畳よりも少し広い縦長の小部屋。
部屋に入ると、手前にはソファとガラステーブルがあり、その横には僕の目と同じくらいの高さのスタンドライトがある。
正面にはこの部屋唯一の窓があり、その腰高の窓に面して厚めの一枚板を使ったデスクが、その両側には天井まで届く本棚がそれぞれ造作されている。
本棚に収められているのは哲学と経済に関するものばかりで、コレと言って興味がそそられるものはない。そもそも彼とは趣味が合わないということだ。
僕は父に視線を戻した。しかし相変わらず彼はデスクに向かったままだった。
ナニをやってるのかは知らないが、僕が来たことで作業を切り上げることも、急いだ素振りを見せることもしなかった。よく言えばマイペース、悪く言えば自分勝手。そんな不遜な父に、いつだって僕ら家族は振り回されてきた。いまに始まったことではないから驚きはしないが……。
「仕事は順調なのか――?」
父はこちらを振り返ることなくそう言った。
「まあ……そうですね」
僕はどうにでも取れる言葉を返した。せめてもの抵抗のつもりで。
しかし、父からの返事はなかった。代わりにデュポンの艶のある開閉音が響き、程なく彼の頭上に紫煙が上がった。
僕はまたため息を吐いた。
父はいつでもそうだった。自分から質問をしておきながら、その応えに対してはほとんど関心を示さない。それが僕の気分を悪くさせる原因で――
「整備士になるんじゃなかったのか」
「は?」
「整備士になりたくて工業科に進んだんじゃなかったのか?」
父は続けざまに言った。しかし相変わらずコチラを振り返る様子はまったく窺えなかった。
「べつに……そう言うわけではなかったですよ」
僕は半分白けたような気持ちで言った。
それに対する父の応えは「ふ~ん」という相槌ともなんとも判断の付きにくいモノだった。
僕はじっと次の言葉を待ったが、父が口を開く様子はなかった。居心地の悪い沈黙が僕だけを包んでいるように思えて、僕は意味もなく指の骨をポキポキと鳴らしてみたりした。
モータースポーツに関係のある仕事に携わりたい――。
あの頃の僕は確かにそう言った。しかしそれはあくまで「ドライバーとして」という意味であり、はじめから裏方に回るつもりなどあるわけがなかった。
高校卒業後、自動車ディーラーに入って整備士になったのは、深い意味があったからではなく「自動車に関連する求人」がそれしかなかったから。つまり消極的な選択だった。
僕は再び父に視線を戻した。
彼は相変わらず僕に背を向けたままで、コチラを振り返る様子はない……さすがに呆れた気分になった。
「なにか用があって呼んだんじゃないんですか」
僕は努めて抑えた口調で言った。
すると父は、無言のままデスクの抽斗を開けて紙袋を取り出すと、僕に背を向けたまま肩越しにソレを差しだしてきた。
僕は横柄すぎるその態度に苛立ちながらも、立ち上がって父に歩み寄り、その紙袋を受け取った。
中を覗くと帯封の付いた紙幣の束があった。
「……なんですか、これ」
僕は不信感を隠さずに呟いた。
「それ持って出て行け」
「……は?」
「それを持ってこの家を出ろ。吉見には話してあるから、明日にでも連絡入れて探してもらえ」
吉見……父の会社の不動産部の人間だった。
つまりこのお金は手切れ金みたいなものか――。
「……わかりました」
僕は呟いた。
この状況にも特別な驚きはなかった。いつかこうなるような気がしていたし、そもそも僕がココに居続ける理由はそれほどなかったし。
僕ら親子……いや、この家にはよく言う"家族の絆"のようなものは存在していない。
母や由佳里とははじめから血が繋がっていないし、唯一の血縁者である父とは意思の疎通がまるでない。考えてみれば僕らはただの同居人も同じだったのだ。
「他に用件は?」
父の後ろ姿にそっと問いかけた。
しかし父からは何の反応も窺えず、ただ苦い笑みがこみ上げてくるだけだった。
部屋に戻ると、紙袋のモノをベッドの上にぶちまけた。
都市銀行の名前の入った帯封で束ねられた紙幣……つまり札束。それが五つ。
これが手切れ金として妥当な金額なのかは知る由もなかったが、いまの自分の生活を維持していくのには十分なようにも思える。そして何よりも「この家を出て行く」ということに微かな昂揚感があった。
僕は以前から漠然とした疑問を感じていた。父の庇護のもとに過ごすいまの暮らし、そして母と一緒にこの家にいることに対して。
そんな僕を取り巻く「全ての煩わしさ」からようやく解放されると考えただけで、肩に入っていたチカラがすぅっと抜けていくような、そんな気持ちになっていた。
ふと喉の渇きを覚え、一階へと下りた。
リビングを横切ったとき、母が何かを言いたそうに僕を見ていた。
僕は彼女に話しかける隙を与えず、真っ直ぐにキッチンに向かい、冷蔵庫から烏龍茶のペットボトルを取り出した。そしてそれを持ったまま足早にリビングを横切り、階段を駆け上った。背中に彼女の視線を感じていたが、彼女が口を開くことはなかった。
「あ――」
階段を昇りきる手前で由佳里と顔を合わせた。
「あ~また烏龍茶を独占して――」
彼女は僕が手にしたペットボトルを見て呆れたように呟いたが、この烏龍茶はもともと僕が買ってきたモノだし、彼女は烏龍茶を飲まないはずだからそんなことを言われる筋合いはまったくない。
僕は相手にせずに彼女の横を通り過ぎようとした……のだが、彼女はじっと僕の顔を不思議そうな目で見つめている。
「……なに?」
僕は不快感を隠さずに言った。
彼女は僕を見据えたまま首を傾げると「なんだか最近雰囲気が変わったね」と、成長期の子供にでも言うような台詞を吐いた。
僕は「そうか?」と素っ気なく呟くと、ペットボトルのフタを取って烏龍茶を喉に流し込んだ。
少なくとも何かが変わった自覚は僕自身にはないし、そもそも変わったことなんかなにもない。
「いまだってさ、ニヤケながら階段を上ってきたし……あ。へんなクスリとかやってないよね?」
由佳里はそう言いながら眉を顰めた。
そんなわけあるか――。
彼女から掛けられた容疑を、僕は独り言のような言葉で否定した。
とは言っても、僕の服用している睡眠導入剤が、彼女のいう「へんなクスリ」に該当する可能性がないとは言い切れなかったのだが。




