#001 冴えない日常
「いいか、聖志。よぉ~く見とけよ」
彼は空吹かしをしながら、そう言って親指を立てた。
目の前を一台のKP61スターレットが駆けていく。弾かれたように加速していったKPは、ブレーキランプを激しく灯し、右方向にテールを流した。
暗闇の中、KPのヘッドライトとテールが左右に激しく躍り続けている。
ロデオみたいだ――。僕は思った。
けたたましいスキール音をまき散らしながら、目の前のKPはただ不規則な動きを繰り返している。
埠頭に吹く油臭い風にまみれた灼けたゴムの匂い。怒り狂ったように暴れ回るテールランプ――。
僕は流れるテールに目を奪われていた。ただ立ち尽くしたまま、埠頭に吹く風に身を晒していた。
************
東名の横浜町田インターチェンジは、既に朝の混雑が始まっている。
遠征帰りの空はすっかり明るくなっていた。
さっきから生あくびが止まらない。
僕は運転席の窓をおろし、排ガスだらけの新鮮な空気を車内に取り込んだ。
それでも生あくびが止まるようすはなく、しかもそれが快眠への呼び水になってくれそうな予感はまるでない。慢性的な寝不足は今日も解消されそうにないみたいだ。
成瀬街道に入ると、自転車に乗った高校生たちの一団が目に入った。
僕はその集団に目を向けてみたが、ソコに目当ての顔は見つからなかった。
成瀬街道を左に入った。
住宅街の整然とした街並みを眺めながら路地を右に入り、三軒目の平屋の角を曲がるとやがて現れる周囲より明らかに大きな家……それが僕の家、北条家だった。
ん……誰もいないのか――。
いつもなら父のセルシオと母のルノーがあるのだが、今日に限っては二台ともそこにはなかった。
僕はいつものように四台収まる駐車場の右端にバックで寄せ、キーを抜いた。そしてグローブボックスを開け、古びたシガーケースを取り出すとシャツの胸ポケットに無造作に突っ込んだ。
ターボタイマーのお陰でやや遅れてエンジンが切れた頃、玄関ドアが開くのが視界に入った。
飛び出してきたのは五歳年下の妹だった。
「ごめん。乗っけてって!」
由佳里は僕に向かって手を合わせながら近付いてきた。
肩まで伸びた自慢の黒髪が少しはねている。彼女にしては珍しいことだった。
「寝坊しちゃった。チャリじゃ間に合わないの」
一方的にそう宣うと、彼女は僕の断りもなく助手席のドアを開けた。
「急いで! ホントに時間がないから」
わがままな妹は、寝不足の兄を労る気持ちは持ち合わせていないようだ。
僕は仕方なく、いま切ったばかりのエンジンに再び火を入れた。
彼女が通う高校までは、町田街道を通っていけばクルマで一〇分程度で辿り着く。
自転車ではキツイが、クルマだったら十分遅刻を避けるコトができる時間だ。
信号が変わり成瀬街道を右に出る。
ほんの五分位前に通ってきた道を逆に辿る。
そしてまた一〇分くらいあとにはまた同じ道を反対方向に辿ることになる。
非生産的な毎日――。
苦痛以外の何物でもないこの繰り返しは、僕にとって日常そのものだと言えた。
日常という存在は、僕の人生をこれ以上ないくらいに希薄していた。薄すぎるアメリカンコーヒーに水を注いだような……もはや味などしないし、コーヒーとは呼べない。
薄っぺらな人生――。
不意に頭に思い浮かんだフレーズが、いまの僕にはしっくり来る。
わかってはいるが逃れる術はない。
もっとも逃れるために何かをしているわけじゃない。
僕は時々思うことがある。
できることなら、いっそのこと人生そのものを終わらせ――
「毎晩、ドコに行ってるの?」
由佳里が呟いた。
頭に浮かんだおぞましい願望を彼女の舌っ足らずな声が掻き消した。
「パパが騒いでたわよ。"聖志はいったいナニがしたいんだ"って」
父の声色を真似たようだが全然似ていない。
だが、父がカリカリしていると言うことは容易に想像ができた。
「で……毎晩ドコへ?」
由佳里はシートに深く身を沈めたまま呟いた。
彼女の目の奥にあるのは、僕に対する心配などではなく、好奇心だけのようだった。
「朝練」
僕は生あくびをかみ殺し、短くそう言った。
「朝練て……夜中じゃん」
彼女は何かを言いたそうだったが、それ以上は言葉にはしなかった。
高ヶ坂のあたりに来たところでクルマの流れが止まった。
僕は頭の中でルートを検索し、路地を右に入った。
町田の駅前を避け、鶴川街道のさきから町田街道に出るルートを選択した。
住宅街の細い坂道を駆け上がり、最短と思われるルートを走り抜けた。
「運転だけは上手いよね」
由佳里は呆れたような口調で僕を褒めたが、それには何も答えず、暴走と安全の隙間を縫うように細い路地を走り抜けた。
僕は誰かを隣に乗せるのは好きではなかった。
過去に助手席に乗った人たちは、大抵「危険すぎる」と僕の運転を非難した。
しかし安全のマージンについては十分確保しているつもりだし、闇雲にアクセルペダルを踏み込んでいるわけではない。
少なくとも一人で走っているときと比べたら、アクビが止まらないほど安全な運転を心懸けているつもりだった。
由佳里は僕の運転を非難することはなかった。怖がる素振りすらなかった。
僕の腕を信頼してくれてるのか、鈍いのかはわからない。ただ、僕の助手席に大人しく座っていてくれる人間を、僕は彼女以外にはあと一人しか知らない。
「ねえ。ひと言、いい?」
その声に僕は一瞬助手席を窺った。
「このクルマ、エアコンって着いてないわけ?」
「ないね」
エアコンなんて走るのに必要がないからはじめから着けていない。窓を開けてさえいれば、それなりの清涼感は得られるものだし。
しかし由佳里はあからさまにため息を吐いた。
「よく絵里さんはナニも言わないね」
彼女は首を傾げた。
「ホント、あんないい人いないから絶対大事にしなきゃ――」
「もう別れた」
「え……?」
由佳里の声が裏返った。
「ええ~どうして?!」
「さあね」
僕はまるで興味がないというふうに、口先だけで呟いた。
絵里と別れたのは今年最初の真夏日を記録した日だったから、クルマにエアコンが付いていないのも理由の一つだったのかもしれない。
だけど絵里と別れる前と後とで、僕の生活が大きく変わったと言うことはなかった。
僕らは約一年半付き合ってたはずだが、元々それほど頻繁に会っていたわけではない。とくに最近の半年では片手でお釣りが来るくらい。まあ潮時だったということなのかもしれないが、はっきりとした理由はいまだにわからない。
彼女は同性異性問わずで人気のある人だったから、新しい相手を見つけたってことなのかもしれない。
だが、それは僕にとってはどうでもいいことだった。
はっきりしているのは僕と彼女は終わってしまったと言うこと。他人同士だった二人が、また他人に戻った……ただそれだけのことだった。
「でも……考えてみれば、絵里さんみたいな人が付き合ってくれてたのって奇跡に近いんだよね」
自分に言いきかせるように呟いた由佳里の言葉は、遠回しに僕を非難しているようでもあった。
絵里は二度ほど家に来たことがあった。
二度とも由佳里と顔を合わせ、妹は兄の彼女にすっかり懐いていた。まるで本当の姉妹なんじゃないかと錯覚するほどに――。
「あ。ここで止めて」
由佳里が声を上げた。
僕はスピードを落とし、クルマを路肩に寄せた。
歩道には由佳里と同じ制服がぞろぞろと歩いていた。
「こんなクルマで正門に乗り付けられても迷惑だから――」
まるで独り言のような彼女の台詞に、僕はどう応えていいのかわからず窓の外を仰いだ。
街道沿いのガソリンスタンドを過ぎたこの場所から、彼女の通う高校までは二〇〇メートルくらい。正門の前には、今日も門番のような教師たちが立っているのだろうか。
「じゃ。帰りも願いね」
由佳里はそう言うと、学校近くの公園を待ち合わせ場所に指定して制服の群れの中に紛れていった。