#017 首都高NAVIGATOR.1
ベッドサイドの時計の針は、十時を少し回ったあたりを指していた。
僕はデスクの上に置いてあった読みかけの雑誌を手に取ると、ベッドに倒れるようにして横たわった。
仰向けになって、雑誌をぺらぺらとめくる――。
しかし、広告ばかりの雑誌はどの記事を見ても既視感のある内容で、いったいドコまで読んだのかまったく見当がつかなかった。僕は雑誌を閉じると、大きく息を吐いた。
「なんかムカつくな……」
僕は、いま思ったことを言葉にしてみた。
苛立っている原因はわかり切っている。敢えて口にするまでもないほどに――。
ふと、壁に目が留まった。
画鋲で留められた一枚の写真……それは昔、一弥くんの職場で撮ったものだった。
完成した直後のAA63と僕と一弥くん、そして手伝ってくれた工場の人たちが写っている……。
僕は反動をつけてベッドから起きあがった。
クローゼットを開き、右側のいちばん上の段を覗き込む。そこには埃の被った紙袋が二つ置いてあった。
僕は手前側の紙袋を掴むと、左手で口元を抑えながらソレを引っ張り出した。
紙袋を開けると、中には二冊のアルバムが入っていた。
そのウチの一つを取り出すと、ベッドに腰掛け、そっとページをめくった。
一ページ目――。
そこにいたのは高校生の頃の僕だった。
買ったばかりのTZR250と僕が一緒に収まった写真だった。
あの頃の僕にとって、このYSPカラーのTZRは自慢の一つだった。
暇さえあれば走りに出掛け、峠を攻め、そのうちそれなりに名を知られる存在になった。
ページをめくる毎に出てくる懐かしい顔……。
アルバムの中の僕は笑っていた。
自分でも意外に思うほどに笑顔が多かった。それは、いまの僕とはまるで別人に思えるほどで……。
気を取り直し、次のページをめくった。しかしそこには写真がなかった。
ただ乱暴に何かを剥がした痕だけが残っている――。
僕は大きくため息を吐き、アルバムを閉じた。
確かに腹の底からバカ笑いをすることはなくなった。
だからといってべつに今の自分が特別不幸だとは思わない。だけど「じゃあ幸せなのか」と聞かれれば、それは間違いなく「NO」だった。
そしてその理由の一つに僕は心当たりがあった。
コンコン――。
僕は顔を上げた。
ドアを叩く音……このノックは由佳里のモノではない。おそらく母か――。
「はい」
僕は平坦な声で言った。
「あの……」
やはり母だった。
「キドさんという方がいらっしゃってるけど……」
相変わらず消え入りそうな声……。
「いま、下りていきます」
ドアに向かってそう告げた僕は、アルバムを紙袋に収め、クローゼットの奥へと押し込んだ。
そしてシガーケースを胸のポケットにしまうと、財布と家のカギとデニム地のジャケットを掴み、部屋のドアを開けた。
階段を駆け下りると、そこには母と由佳里が立っていた。
僕は敢えて言葉を発することもなく、シューズクロークの棚に手を伸ばした。
「あれがキドユウジ?」
由佳里が外を指さした。
玄関脇の小窓からは、駐車場の前で落ち着かない態度で立ちつくす祐二の姿が見えていた。
「ああ――」
僕は気のない返事をした。
「ふ~ん。普通の人ね……」
由佳里は独り言のようにボソッと呟いた。
僕はソレには気付かぬふりで、シューズの踵を踏んだまま玄関を飛び出した。
「よ――」
祐二は僕の姿をみとめると、いつものように屈託のない笑みを浮かべた。
ツナギの袖を腰で結ぶという垢抜けない着こなしもいつもの通りだ。
「悪いな……わざわざ」
僕はやけに広々としている駐車場を横目に、祐二に向かって軽く手刀を切った。
「ま、いいってことよ」
取りあえず乗れよ――。
祐二の言葉に小さく頷き、僕は86トレノのドアハンドルに手を掛けた。
***
「北条んちってデカイよな」
家を出て、一番はじめの交差点で止まったとき、祐二はシミジミといった感じで呟いた。
まあな――。
僕は愛想のない返事をした。
初めてウチに来た人間は、だいたい同じ感想を口にする。
それについていちいちコメントをするのは面倒だった。
「あ。ココは真っ直ぐ」
ソッチの方が近い――。
僕が呟くと、祐二は右に出していたウインカーを引っ込めた。
僕らは町田街道を横浜方面に向かっていた。
国道246号線に出て、そのまま都内へ。国道から少し入った、三軒茶屋の近くにあるファミレスで樫井たちと待ち合わせをしていた。
「そういえば、さっき清和くんから電話があったわ」
ステアリングを握った祐二は、前を見たまま口元を弛めてそう言った。
僕はなにも応えなかった。いま何かを口にしてしまえば、もう歯止めが利かなくなってしまうような気がしていた。
「ま……あいつも反省してるみたい――」
「当たり前だろ!」
僕は思わず声を荒げ、そして小さく舌打ちした。
今日の走行会に松井の姿はなかった。
奴はココまで皆勤賞だったが、今日の参加は見合わせた……ということらしい。ま、当然だったが。
もし、今日もノコノコと顔を出すようなことがあれば、僕はきっと彼に殴りかかって――
「そういや、北条んちの母ちゃんって凄え若いのな?!」
突然、祐二が驚いたように声を上げた。
僕はそんな彼を横目で見た。
しかし前を見据えたままの彼の表情からは他意は窺えなかった。
「ま……本当の母親じゃないから」
なんの感情も込めずに呟いた。
「なるほど……」
祐二は大きく二度頷いた。
「若くて美しい義理の母ってわけか……」
なんかそそるよな――。
僕は無言のまま、イヤらしい笑みを浮かべた祐二の脇腹に強く拳を当てた。
夜の国道は渋滞箇所もなく、都県境をつなぐ橋を渡ったのは予定よりも早い時間だった。
「ちょっと早く着いちまうかもな」
祐二はそういいながらスピードを落とした。
目の前の信号が黄色から赤に変わるところだった。
環状八号線と交わる瀬田の交差点――。
そこには警察官が立っていた。彼らの視線は、信号待ちをしている僕らの方に真っ直ぐに向けられているように見えた。
祐二のトレノは、その目の醒めるような真っ青なカラーリングのお陰で目立つクルマではあったが、中身に関しては意外とマイルドなチューニングに留めてあった。だから心配があるとすれば若干車高が低いと言うことと、マフラーの音くらいのものだが――。
やがて正面の信号が赤から青に変わった。
祐二は警察官の視線を気にしてか、ゆっくりとクルマを発進させた。
そんな僕らを、警察官の怪訝そうな視線が追いかけてきたが、声を掛けられることも止められることもなく、無事やり過ごすことができた。
瀬田を過ぎると、タクシーとの熾烈な車線争いを展開しながら国道246号線・玉川通りを走り抜ける。
上馬の信号を過ぎたところで、僕は前の方を指さし「この先を右」と言った。
「なによ……この辺の地理に詳しいのか?」
祐二は不思議そうに言った。
「詳しいって程じゃないが……普通にはわかる」
高校時代のバイト先がこの近くにあった。
だからこの辺りまではバイクに乗ってよく来ていた……ただそれだけのコトだった。
昭和女子大が見えてきたところで、僕は信号を指さし「あれを右」と呟いた。
程なくして待ち合わせ場所に到着した。予定していた時間より少しだけ早い時刻だった。
「いやあ~、このあいだは災難だったな」
樫井は満面の笑みを浮かべていた。
早めに到着した僕らだったが、樫井と伊藤は既に店内でコーヒーを飲んでいた。
前回の箱根のときにも思ったが、樫井という男はそのずぼらそうな外見とは裏腹に、約束事にはキッチリしている男なんだろう。
「それにしてもさ、あんなに"なにもない"ところで事故る奴がいるとは思わなんだよ」
「え。北条くん、事故ったの?」
樫井の言葉に伊藤が反応した。
僕は曖昧に首を捻った。
箱根に参加していなかった伊藤が「事情」を知らないのは当然だったが……僕にとっては説明するのも億劫な出来事だった。
***
つい三日前の定例走行会。
箱根を走った帰り道、国道一号線の信号待ちで、僕は後ろから強い衝撃を受けた。
慌ててミラーを覗き込むと、そこには僕以上に慌てふためく松井の姿が……。僕は一瞬にしてナニが起こったのかを悟った。
路肩に寄せてクルマを降りると、AA63のバンパーは無惨にも落ちかけ、後ろから押されたトランクは浮き、リヤフェンダーは若干外に膨らんでいた。
ほとんど止まりそうな速度だったとは言え、3Lのクラウンの圧力は1.6LのAA63のボディには酷なモノだったようだ。
そしてAA63はその日のウチに修理工場に入庫した。
深夜だったということもあり、松井の実家……パインモータースというふざけた名前の工場に運び込んだ。
「僕が責任持って元の状態に戻すから――」
松井は顔面蒼白の状態で言った。
当然だろ、と思ったが、僕は拳を握りその言葉をぐっと呑み込んだ。
但し……板金の仕上がりが悪かったときには、僕は本当に暴れ出してしまうのだろう――。
***
「じゃ、おれと伊藤は谷町から外回りで行くから。おまえらは内回りね」
樫井がテーブルに広げた地図を指さし言った。
地図は首都高速都心環状線の路線図だった。
「取りあえず、おれが出発して一〇分くらいしたら伊藤も出発してくれ。連んで走ってても意味ねーしよ。祐二らは反対回りだから適当に出発してくれ。で、見つけたらお互いに無線で知らせるっつうことで――」
樫井はそう言って、軽く握った拳を口元に当てた。
神出鬼没の首都高の天使――。
そいつがドコから現れるのか誰も知らない。だから僕らは分散して走ることにした。その方が少なくともヒトカタマリで走っているより出会える確率が上がるのだろうし。
「……とは言っても、エンゼルマークに遭うことは絶対ねえと思うけどな」
樫井は醒めた目で言った。
しかしいまはそれに反論する気はなかった。寧ろ僕としては「そう言いながらもこの場にいる」彼の付き合いの良さに感謝したいくらいだった。
日付が変わった頃、樫井は一足先にファミレスを出て行った。
残った僕ら三人は、それぞれにコーヒーカップを弄んだりしながら時間が経つのを待っていた。
不意に祐二が席を立った。
彼の後ろ姿を目で追いながら、僕はそのまま店内を見渡した。
深夜の店内は明らかに空いていた。駐車場の混み具合とはバランスがとれないように思えるくらいに。
普段、平日のこの時間にどのくらいの集客ができているのかは知らないが、ホールにいるスタッフの人数から考えても、おそらく「今日は特別に空いている」ということなんだろう。
以前……というか高校生の頃に僕がバイトしていた飲食店は、ココからそれほど離れていないところにあった。
当時はなにしろ毎日が忙しかった記憶しかないが、あの店もいまではこんな風に空いてる日があるんだろうか……ちょっと僕には想像できなかったが。
「お待たせ。そろそろ一〇分経ったろ――」
便所から戻ってきた祐二が呟いた。
時計を見ると、樫井が出発してから既に一五分ほどが経っていた。




