#016 都市伝説
「箱根にはよく行くのか?」
樫井は86トレノのボンネットを開いたまま言った。
ああ――。僕は小さく曖昧に頷くと「昔ほどではないけどな」と囁くように言った。
僕らは平塚市内にいた。
国道沿いの、ゲームセンターが併設されたボウリング場の駐車場に来ていた。
間もなく日付が変わる時間だったが、週末ということもあってか駐車場にはまだ何台かの車が停まっている。ちょっと僕とは友だちになれそうもない人たちばかりだったが。
定例の走行会の今日、ココを待ち合わせ場所に指定したのは湊だった。
彼の家はココからそれほど離れていないところにあるのだという……しかしまだ姿を見せていない。
そして前回の首都高から二週間が経っていた。
樫井が言っていた『クラウン』には正直言って興味がなかったが、TZRについては相変わらず気にはなっている。
神藤とはあれ以来顔を合わせていなかった。
彼がTZRと出会ったときのもう少し詳しい状況を聞いてみようかと、何度か大垂水に足を運んでみたのだが、未だに彼とは会えずじまいだった。
もともと会う機会はほとんど無かったから、当然といえば当然なのだが……。
そんなことより、あの首都高での走行会以来、僕にはもう一つ気になるコトが増えていた。
「なあ。このあいだ言ってた"天使"なんだけど――」
「は? テンシ……?」
樫井はエンジンルームから顔を上げ、僕の方を窺ってきた。
「――ああ、"エンゼルマーク"のことか」
樫井は僕の目を見たまま一瞬、首を傾げたが、すぐに興味を失ったようにエンジンルームに視線を戻した。
あの日、熊沢という男が言っていた天使……通称:エンゼルマーク――。
水曜日の環状線に現れるという神出鬼没のケンメリ・スカイラインGT-R。
車体の色が濃いシルバー系だと言うことと、リヤのガラスにペイントされた天使の絵だけが特徴と言えるもので、実際にはドコから首都高に乗って来て、ドコで首都高を下りていくのかは誰も知らないのだという。ドライバーはおそらく女だろうという話だったが、首都高に集まる連中との交流もまったくないらしく、樫井もその存在は知っているものの見たことは一度もないと言った。
「ま、わかってるのはL28改のエンジンにソレックス――」
「ちょっと待て」
僕は樫井の台詞を遮った。
「L28改にソレックスって……誰が見たんだよ?」
「いや、見た奴はいないけどよ……雰囲気だろ、こう言うのは」
樫井はそう嘯いた。
まるで僕の疑問が間抜けなものだと言わんばかりの目で。
「ま、どっちにしても口裂け女みたいなもんさ。都市伝説の類だと思うよ」
本当はそんなもの、ドコにも存在していないのさ――。
樫井は訳知り顔で言った。
都市伝説かどうかはともかく「おまえには掴まえられない」と言ったときの熊沢の表情――。
僕にはそれがどうにも気になっていた。
やがて祐二のトレノが姿を見せた。続いて富井が駐車場に入ってきた。
「あれ? なによ、おまえらしか来てないの?」
運転席から顔を出した祐二は不満げにそう言ったが、彼が到着したのも約束の時間を五分ほど過ぎていた。
ようやく今日の参加メンバーが揃ったのは、それから三十分ほど経過した頃だった。
「取りあえず、西湘(バイパス)から一国を抜けて箱根の旧道、で十国――。だいたいそんな感じだな」
箱根までのだいたいのルートを確認した僕らは、祐二を先頭に国道に滑り出した。
国道129号線の信号は、はかったように赤から青に変わっていく。国道一号線との交差点で停まるまで、ほぼノンストップで走り抜けた。
信号待ちの間、僕は運転席の窓を少しだけ下げてみた。同時に十一月の冱えた空気と低い排気音が車内に流れ込んでくる――。
僕は目を閉じ、心地の良い排気音に耳を傾けた。
やがて排気音が低音から高音に切り替わった。
目を開けると、祐二に続いて、湊、富井、樫井がテールを流しながら交差点を右折していった。
ミラーを確認すると、稲尾のMR-2が苛立たしげに僕の背後に張り付いていた。
僕はミラーに向かって軽く手を挙げると、アクセルを煽り、樫井のテールを追いかけた。
国道一号線を花水橋の手前で左折し、"二十円便所"の信号ではテールを流しながら右折し、そのまま西湘バイパスに乗った。
左手には真っ黒な海が広がっている……不意に波の音が聞きたくなって、僕はまた窓を下げた。
しかし聞こえてきたのは甲高い排気音だけで、車内に吹き込んできた微かな潮の香りでしか海を感じることはできなかった。
やがて「大磯西出口」の看板が見えてきた。
前の車両が次々とウインカーを灯して左車線に移っていく。有料区間になる手前でバイパスに別れを告げ、僕らは国道一号線で西を目指した。
今日の参加者は八人だった。
先頭を走る祐二に続いて湊、富井、樫井と色違いの86トレノが並び、僕の後ろには稲尾のMR-2がいて、その助手席には日野が乗っている。
そして最後尾を走っているのは松井清和……。
彼は懲りもせずに走行会に参加していた。自分が足手まといになっているという自覚がおそらく彼にはないのだろう。
二宮駅前を過ぎてしばらく進むと急な下り坂が現れた。
坂を下る僕の視界に、先頭を走る祐二のトレノが現れた。
彼の前には一台のクルマが走っているのが見えたが、僕の位置からは車種までは特定できなかった。そのクルマは飛ばしているという感じではないが、後続のクルマにストレスを与えるような遅いスピードでもなかった。
坂を下りきり、左手を併走する西湘バイパスを見ながら国府津の駅前を抜け、酒匂川に架かる橋を越えたところで前を走る樫井のスピードが上がった。
やがて山王の橋を過ぎると車線が増えた。加速しながら右側車線を進み、国際通りの入り口を過ぎたところで左車線に移る。
市民会館前の直角左コーナーをやや抑えめに走り抜けると、続いて出てきた右コーナーではけたたましいスキール音をたてながらテールを流し、一気に駆け抜けた。
西湘バイパスからの合流地点を過ぎたところで樫井がウインカーを灯した。
僕は前のクルマに続いてウインカーを左に出し、路肩に車を寄せて停止した。
「週末の割にゃあ少ねえな」
缶コーヒーを片手にした稲尾が国道一号線を一瞥して呟いた。
箱根新道の手前にあるこのコンビニは、三ヶ月くらい前に僕と祐二が偶然再会した場所だった。
あのときは面倒な奴に会ってしまったと顔を顰めたモノだったが、いまでは毎週のように顔を合わせている。だからといって、彼が苦手な存在だと言うことに大きな変わりはなかったのだが。
「七曲がりから芦ノ湖に抜けて……取りあえず十国の手前まで。ソコまでは北条がマエ走って」
祐二の言葉に従い、僕を先頭にした車列が再び走り出した。
箱根には何度も来ているが、僕は七曲がりのギャラリーコーナーがあまり好きではなかった。
だから一人で来るときには「三枚橋」を左折して「畑宿」方面へと抜けるルートを選択している。
七曲がりと違って人気もなく、寂しいところだったが、僕にはソッチの方が合ってるように思っていた。
そんなことを考えてるウチ「三枚橋」を通過し、湯本駅前に差しかかった。
駅前の路上には、RX-7とEP71スターレットが停まっていた。
商店街の路上にも、それらしいクルマが集結していた。
今日は週末――。
旧道の七曲がりにはたくさんのギャラリーが詰めかけているのだろう。
しかし週末ということは、警察が来るのも時間の問題……いずれにしてもココにはそれほど興味はないし、長居をするつもりはまったくなかった。
僕は温泉街の細道を加速しながら駆け上り、ギャラリーコーナーで"大垂水仕込み"の高速ドリフトを披露しながら、大平台のヘアピンまでを一気に走り抜けた。
宮ノ下を左折し、芦ノ湖へと向かった。
小涌園のコーナーを抜けた直線で、僕はまた窓を少し下ろした。
吹き込んできた山の空気は思った以上に冷たく、僕は慌てて窓を閉め切った。
芦ノ湖を過ぎ、箱根新道の出入り口を通過し、僕らは十国峠の入口に辿り着いた。
クルマを路肩に横付けにすると、助手席に放り投げてあった皮のコートを掴み、それを羽織りながらクルマを降りた。
「ハイハイ、じゃ全員集まって……」
祐二が両手で手招きをした。
そして出来上がった輪の中央で拳を振り上げると「はい、じゃ~んけ~ん――」と声を張り上げた。
「ちょっと待て」
僕は祐二の言葉を遮った。
「ジャンケン……て?」意味が判らない。
「はあ? 走る順番を決めるに決まってんじゃん」
祐二は、他に何があるんだと言わんばかりの表情だった。
そして一発勝負の"走行順決めジャンケン"が始まったのだが……。
「うげぇぇぇぇっ……マジすか……」
樫井が呻き声をあげた。
彼は腰に手を当て、露骨に嫌そうな顔をしてから天を仰いだ。
樫井に釣られるように僕も空を見上げてみた。
そこには満点の星空が広がっていた。
僕の活動時間は主に夜だったが、最近こんなに星を見たことはなかった。空を見上げることすらなかったかもしれない……。
しかし、この場でその感動を口にすることだけはどうにも躊躇われた。
//――はい。こちらペースカー。路面の状態は正常、天候は多分晴れ、風は多分ない、今のところ対向車もナシ……――//
樫井の投げやりな声が延々とスピーカーから漏れ出てきている。
先頭を走って、道路の状況や対向車の有無を後続に知らせる――、それが樫井に課せられた役目だった。
今日の彼は本気で峠を攻めることは許されない。ま、ジャンケンに負けたんだから仕方がないことだ。
樫井が出発してから一分ほどして、二番手の稲尾がスタートした。
稲尾のMR-2スーパーチャージャーは、テールを振りながら一個目のコーナーに消えていった。
続いて湊がスタートし、それに続いて僕も最初のコーナーに飛び込んでいった。
荒々しく走り出した稲尾とは対照的に、湊の走りは丁寧な印象を受けた。
スピードの面ではとても及ばないが、彼のライン取りは一弥君にそれに似ているような気がした。
僕は湊との距離を一定に保ちながら、ドコか懐かしい思いで彼の走りを眺めていた。
//――こちらペースカーなんですけどね……現着しましたけど誰もいませんね……まあみなさん、くれぐれも事故のないように走ってくださいね、ドゾ――//
樫井は完全に投げやりな様子だった。
誰よりも早く待ち合わせ場所に来ていた彼の「ハリキリよう」をずっと見ていた僕としては、多少の同情を感じずにはいられなかった。
やがて到着した十国パーキングには、樫井の言うとおり僕ら以外の姿はなかった。
パーキングのレストハウスの下にクルマを停めた僕は、階段に腰を下ろしてAA63を眺めていた。
このあいだ出会った熊沢は、AA63を「しばらく預けてみろ」と言っていた。話の前後から考えて、それは「エンジンに手を加える」ということなんだと僕は理解していた。
そして熊沢は、僕には「天使を掴まえることができない」と自信満々に言った。
あれは単に運転技術のことを言ってるのか、それともノーマルの4AGでは太刀打ちできないという意味なのか……僕には未だにその真意がわからずにいた。
「――気になってるんだろ」
声に顔を上げると、両手にコーラを持った祐二が僕を見下ろしていた。
「"天使"だよ」
はいよ――。
祐二は僕に向かってコーラを放り投げてきた。
「サンキュー……」
僕は缶をワンハンドキャッチするとプルタブを引き起こした。
同時に炭酸が溢れそうになり、慌てて缶に口を付けた。
「おまえには掴まえられない、なんて言われちゃあな」
ま、黙ってられないわな――。
祐二の問いに僕は何も応えなかったが、それでも祐二には伝わっていたようで、彼は意味ありげに微笑した。
僕らの視線の先では、富井と湊が"八の字ターン"を繰り返している。もっとも「八の字にはなっていない」というのがココからでも確認できるが。
ココで、いままでストレスを溜めていたハズの樫井が"八の字ターン"に参戦した。
彼はさすがにクルマの挙動を把握しているようで、なかなかサマになっているように見えた。
それに触発されたように稲尾のMR-2もアクセルを煽っている――。
「今週あたり、行ってみようか」
祐二は独り言のように呟いた。
その視線は富井たちの方に向けたままだった。
「……どこへ、だよ」
独り言のように僕も応えた。
すると祐二は口元に笑みを浮かべたまま、僕を横目で見て呟いた。
「首都高に決まってるだろ――。今度の水曜、天使って奴を拝みにいこうぜ」




