#013 TZR250
神藤と会って以来、僕はTZRのことが気になって仕方がなかった。
彼が見かけたという僕のTZR。
それが本当に僕が乗ってたTZRなのかはわからない。寧ろ違う可能性の方が高いと思う。たぶん彼の見間違いなのだろう。だけど……
「――信号待ちしてたら、目の前を通過していったんですけど……あの辺に住んでるのかもしれないですね――」
神藤は別れ際にそう言った。
春日通りと不忍通りの交差点で、そのTZRは不忍通りを千石方面に向かって走っていったのだという――。
「おら! なに、ぼーっと突っ立ってんだよ!」
僕を現実に引き戻す声――。
職場の先輩、カキタとか言う男だった。
「これも運んどけよな」
カキタは尖った声でそう言うと、億劫そうな仕草で段ボールを僕に押しつけてきた。
横浜市内の運送会社でバイトをはじめて一週間が経っていた。
川崎市の西部と横浜市の北西部、そして町田市の一部をカバーするこの配送センターは、年末に近づき、一年で一番忙しい時期を迎えていたのだが……。
「……やっぱりな」
「あ……?」
カキタが振り返った。
「なんか言ったか」
「いえ――」
僕は小さく首を横に振った。
口に出すつもりはなかった言葉が自然にこぼれ出てしまった。
カキタから押しつけられた段ボール箱は二つ。
一つは王禅寺で、もう一つは仲町台。
この配送センターから見れば正反対の方向……特別離れているワケではないが、一応新人に対する嫌がらせのつもりらしい。
カキタと言う人間の底の浅さが知れるが、少なくともこのツマラナイ男がココでの僕の上司に当たる。
ココの職場は長く続かないかもしれない――。
僕にはそんな確信めいた予感があった。
***
午後九時。街道沿いのコンビニの駐車場に真っ青な86トレノが入ってきた。祐二だった。
仕事を終えた僕らはこの場所で待ち合わせをしていた。というよりは祐二に一方的に呼び出された。
「悪いな、お待たせ」
彼はいつものように柔和な笑顔でそう言った。
悪いと思ってるならもう少し早く来たらいいんじゃないか――、不意に頭に浮かんだ言葉はぐっと呑み込んだ。
「じゃ、早速行こうか」
「どこへ……?」
「取りあえず、おれの後についてきて」
祐二は僕の問いには答えず、クルマのドアを閉めた。
祐二の86トレノは街道を川崎方面に向かっていた。
足回りを固めたトレノのテールランプが、路面の凹凸を拾うたび上下に小刻みに揺れている。
やがて祐二の86がハザードを点滅させると路肩に寄って停まった。連れてこられたのは怪しげな電器屋だった。
「――なに、これ」
僕は積み上げられた無数の器械を顎で指した。
「なにって、無線だよ」
「それくらいは見ればわかる」
「おまえの車にも載せようと思ってさ」
祐二はそう言うと、いつになく真剣な表情で無線機を物色し始めた。
「お断りします……」
僕はため息を吐いた。
冗談じゃない、と思った。
走るのに不要という理由で、オーディオ類はおろかエアコンまで付いていないというのに……。
「何かと便利なんだぞ、コイツ。例えばな――」
祐二は何とか説得を試みようとしているのか、無線機装着のメリットを僕に向かってコンコンと語った。だけど毎回毎回そんな口車に乗るバカなどいるものか――。
「ほら、たまにいるだろ、峠攻めてん時にトロトロ走ってる一般車とか……あと対向車とか――」
「対向車……」
僕は思わず祐二の言葉を反芻した。同時に嫌な記憶が頭を擡げた。
「そう、対向車がきたときなんかに、前を走ってる奴が後続のクルマに知らせたりとかさ……ま、安全の為にも、さ」
祐二はそう言うと「これなんかいいじゃんよ」と、無邪気な笑みを浮かべた。
結局、僕は祐二に唆されるようにパーソナル無線を取り付けることにした。
安全というマージンを確保するために必要なアイテムなんだと自分に言いきかせて……。
「ん……どうした?」
いや――。
僕は祐二から目を逸らし、口元を抑えた。
普段の僕はアクセルペダルを強く踏み込みながら、このまま華々しく散れたらと思うことすらある。
その僕が「安全」という言葉に、こんなに簡単に釣られてしまうなんて。
つまり、僕の覚悟はその程度だったってことなのか……そう考えたら、呆れて笑いがこみ上げてきた。
電器屋を出た僕らは、そのまま横浜市内にある祐二の会社……まあ僕の元職場でもある自動車販売会社の営業所に向かっていた。
僕としてはあまり気が進まなかったのだが、「早く取り付けようぜ」と煽る祐二に押し切られるかたちで渋々彼の後についていった。やはり僕にとって祐二は「天敵」であるようだ。
店の入口は開いていた。
ショールームの照明はダウンライトに切り替わっていたが、事務所からは灯りが漏れている。
祐二に続いて営業所に乗り入れ、お客様駐車場にクルマを停めた。
「ちょっと待ってろ、すぐに開けるから」
祐二はそう言い残すと、事務所に走っていった。
まだ煌々と照明の灯る事務所内……おそらく営業の人たちは普通に仕事をしているのだろう。
やがて祐二が出てきた。右手には見慣れたキーホルダーの付いたカギを持っている。
工場横の通用口を開け、祐二が工場内に入ると、しばらくしてモーター音が響き、工場のシャッターが上がり始めた。
かつての僕の仕事場が姿を見せた。
辞めてから半年も経っていないから、特別な感慨みたいなものはなかった。
ただ、僕がいた頃と代わり映えのしない、油の匂いのするスペースがそこには広がっていた。
「一番に入れちゃえよ」
僕は祐二に言われるまま、AA63を一番左のラインに頭から突っ込んだ。
「じゃ、取付は……自分でできるよな?」
いつのまにか軍手を嵌めていた祐二が悪戯っぽく笑った。
「当然だろ」
僕は鼻で笑った。
「ま、わからねーときは気軽に聞いてくれ。現役メカニックが懇切丁寧に教えてやるからよ」
祐二はそう言うと、僕が文句を言う前に肩を竦めて背を向けた。
そして二つ隣のラインのリフトを上げた。
祐二に心配されるまでもなく、無線機はいたって簡単な配線だった。取付になんかまったく時間が掛からないほどに。
しかし……愛嬌のないデザインのそれを、車内のどの位置に収めたらいいのか僕は本気で迷っていた。
「助手席とコンソールの間に挟んでおけばいいじゃん」
見かねた祐二が投げやりに言ったが、仮置き的な感じが僕には受け容れられなかった。
「じゃ、ここはよ」
祐二が指したのは本来ならオーディオ類が収まる場所だった。
元々壊れたカセットデッキがあったスペースだが、いまはラジオだけを残して取り外してしまったために盲蓋で塞いである。
蓋さえハズしてしまえば、ソコに収めるのは簡単な話だったが……どうも僕は気が進まなかった。
「なによ。ココもダメなの?」
祐二はいつになく険しい目をした。
ダメというわけではなかったのだが……無線機本体が薄いスリムなタイプを選んでしまったから、中途半端な隙間ができて格好悪いような気がする。
もうちょっとオサマリの場所はないものか――。
「やっぱ、清和くんにイイ案を出してもらうしかねーかな……」
祐二は独り言のように呟いた。
松井清和……。
確かにあいつなら妙案を出してくれる可能性は高い。
あいつは電気系に関しては"ちょっと尋常じゃない知識"と"数え切れない抽斗"を持っている。しかし――
「やっぱ、ここでいいや……」
僕は諦めた。
あいつのチカラを借りることだけはどうにも気が進まなかった。
「あれ――。珍しい奴がいるなあ」
不意に後ろから声がした。
顔を上げた僕は、声の方に向かって軽く頭を下げた。
ソコにはかつての僕の上司が立っていた。
「元気にしてるのか?」
「ええ……まあ」
僕は小さく頷いた。
彼の名は内藤さん。
下の名前は……ゼンゼン思い出せない。
厳しいがモノわかりのいい上司で、ココにいたときには随分お世話になった。そして迷惑もたくさん掛けた――。
「お。誰かと思えば北条じゃん!」
内藤さんの後ろから姿を見せたのは一ノ瀬剛志だった。
「元気かよ、おい――」
一ノ瀬は満面の笑みで僕の方に近付いてきた。
僕は無表情で頭を軽く下げた。
正直言って僕はこの男が嫌いだった。僕が辞めた後に絵里に言い寄っていたというコトとは関係なく、僕はこの男を軽蔑していた。
「懐かしいよな、このクルマも。でもそろそろ代替だろ? なあ、次期社長さん」
なにが可笑しいのかわからないが、一ノ瀬は声を上げて笑った。
僕は彼から目を背けると、元の作業に戻った。
営業としても人間としても、この男は信用がならない奴だということを僕は感じ取っていた。そんな人間に構っていられるほど僕はヒマではなかった。
「じゃ、城戸。もう営業の方は上がるから戸締まりは頼むぞ?」
内藤さんは祐二にそう声をかけた。
そして僕に向かって「じゃ、また今度な」と右手を掲げて笑うと、一ノ瀬には「いつまでも邪魔してるんじゃない。行くぞ」とやや強い口調で言った。
「はい、すぐ行きますから!」
一ノ瀬は内藤さんにそう告げると、言葉とは裏腹に僕の方に近付いてきた。
僕は咄嗟に目を逸らし、作業を再開した。
「――なあ、北条……」
僕は顔を上げ、そして心の中で舌打ちをした。
一ノ瀬の顔は思ったよりも近い位置にあった。
彼はAA63のルーフに手を掛け、運転席を覗き込むようにしていた。
「……なんですか」
僕は配線に視線を戻し、何の感情も込めずに言った。
「なんですかって言われちゃうと困るんだが……おまえ、井村と結婚すんの?」
僕は横目で一ノ瀬を窺った。
彼が何を意図してそんなことを訊くのかわからなかった。
もっとも、大した意図なんてはじめからないのだろうけど――。
「ええ。まあ……」
嘘を吐いた。
僕は横目で祐二の方を窺ったが、彼は作業に没頭しているように見えた。
「ふ~ん。そうだったん――」
「おい! すぐって言ってなかったか、てめえ!」
突然、背後から聞こえてきた怒声――。
振り返ると内藤さんが鬼のような形相で立っていた。
内藤さんは気が短い。そして怒るととても怖い人でもあったのだ。
「……すいません。すぐ行きます」
一ノ瀬はまだなにか言いたそうな顔をしていたが、内藤さんをこれ以上怒らせるのはマズイと思ったようで、ふて腐れたような態度で僕の元を離れた。
僕は手元にあったウエスで、一ノ瀬が手を掛けていたルーフの辺りを丁寧に拭った。
そして、取りあえず無線機は収まった。
「おお、悪くねーじゃん」
祐二は運転席を覗き込んでそう言ったが、やっぱり気になる隙間……しかしソレを口にするのは止めておいた。
「ほらよ」
祐二はコーラを二本手にしていた。
僕は一本を受け取ると「サンキュー」と言ってからプルタブを開けた。
「やっぱ、この角度が一番だな……」
祐二は缶に口を付けたまま、呆けたような表情で呟いた。彼の眼には、たぶん青い86トレノしか映っていないのだろう。
僕らは工場の隅の長いすに腰を下ろし、まったりとした時間を貪っていた。
「さて……次回はどうすっかなあ」
アイツらはあそこは嫌だとか、カネが掛かるとか、うるせーコトばっか言いやがるからよ――。
祐二は腕を上に挙げ、大きくノビをした。
「次回、か……」
祐二の言葉を繰り返しながらも、まったく別のことを考えていた。
僕は神藤の言っていたTZRのことを思い出していた。そしてそのTZRを見てみたいと思った。
べつに見たからと言って、そしてそれが本当に僕が乗っていたTZRだったとしても、それによって何かがあるわけじゃない。
ただ、どうしても見てみたいと言う、幼稚で勝手な欲求が腹の底から湧き上がってきて――
「おい……なんか意見はねーのかよ、ドコさに行くべーとかよ」
祐二はいつになく疲れた表情で僕を睨んでいた。
僕は小さく息を吐いた。
「だったら首都高はどうよ?」
神藤が言ってた場所は護国寺辺りのはずだ。
「は? だっておまえ、首都高は嫌だって――」
「べつに嫌だとは言ってないだろ。……性に合わないとは言ったけど」
僕は無表情を装って嘯いた。
首都高に行けばTZRに遭えるのかもしれない――、僕の期待は静かに高まって来ていた。




