素人ですが、すみません :約3000文字
「あのー」
「はい?」
「素人ですが、すみません。道をおたずねしたいんですが……」
ある日の昼下がり。昼休みのピークが過ぎ、人波がやや引いた通りを歩いていたところ、背後から遠慮がちに声をかけられ、おれは足を止めて振り返った。
そこに立っていたのは、くたびれた上着を着たごく普通の中年男。肩はわずかに沈み、背中は丸まり気味。うっすらと青みがかった口元を軽く歪め、申し訳なさそうに小さく会釈してきた。
おれはポケットからスマートフォンを取り出し、地図アプリを開いて現在地を確認すると、男の言った目的地を検索した。
「――で、二つ目の角を右に行って、少し歩くと左手に見えるはずです。看板が大きいので、すぐわかると思います」
「ありがとうございます。いやあ、わかりやすい」
「ははは、そうですかね」
道順を説明している間、男は何度も深く頷き、「ほお」や「わあ」などといちいち感嘆の声を漏らした。
「もしかして……プロの方ですか?」
男は体をさらに縮め、囁くように言った。
「いやあ、別にそういうわけでも」
「ガイドさんだったり……?」
「いやあ、ある意味そう言えなくもないかもしれませんが……ははは。まあ、普通の一般人ですよ」
一瞬、胸を張りかけた自分に気づき、おれは内心で慌てて言葉を濁した。
「そうですか。いやあ、素人ながら感心しました。では、失礼します」
男はぺこぺこと何度も頭を下げ、軽い足取りで去っていった。
おれは小さく息を吐き、再び歩き出した。少し歩き、目についたラーメン屋の暖簾をくぐった。適当な飯屋を探していたのだ。
「いらっしゃいませー。食券をお買いになったあと、お好きな席へどうぞー」
カウンターの奥から張りのある声が飛んできた。おれは軽く会釈し、券売機で食券を買うと、空いているカウンター席に腰を下ろした。
ちょうどそのとき、二つ離れた席の客が立ち上がった。
「ごちそうさまでしたー。素人ですが、すみません。おいしかったです!」
「あーりがとうございます!」
店員の声はさらに一段張り上がった。腹の底から声が出ている。実に気持ちがいい。さすがはプロだな、とおれは感心しながら、食券をカウンターの上に置いた。
あるとき、とある人気お笑い芸人が言い放った『素人が無駄に偉そうに発言するな』という一言が、なぜか見事なまでに国民の心に刺さった。
それ以来、何かを口にする前には「素人ですが、すみません」と前置きするのが公然のマナーとして定着した。
考えてみれば、我々素人はお笑い芸人様をはじめ、ラーメンや漫画、映画、スポーツといったあらゆる分野に対して、あまりにも気軽に、そして偉そうに批評しすぎていたのかもしれない。その事実を鮮やかに突きつけられ、人々は自分たちの愚かさに気づくと同時に羞恥を覚えたのだろう。
SNSでも同様に、芸能人やアスリートでもない一般人が何かを発信する際には、「素人ですが、すみません。今から映画を観てきますね」といった前置きが欠かせない。正直煩わしいが、これを付けなければ「プロの方なんですか? 全然そうは思えませんけど」「素人がでしゃばるな」「素人さん?」などと容赦ない突っ込みが飛んでくる。
それに、発信する側もあらかじめへりくだっておくほうがどこか安心するようだ。先に自分の立場を低くしておけば、攻撃される心配はなく、されても致命傷にはならない。そんな空気がいつの間にか当たり前になっていた。
一方で、その職業のプロ同士の会話にはこうした前置きは必要ない。だからこそ、彼らのやり取りはいつも堂々としていて無駄がない。多くの人間はそこに一種の憧れを抱いているようだ。
おっ、きたきた……ん?
「はい、おまちどーさまでーす」
湯気の立つ丼が目の前に置かれた。スープの表面で油がきらりと光り、細麺が静かに沈んでいる。立ち上る香りが鼻腔をくすぐり、自然と唾がわいた。実にうまそうだが……。
「あの、素人ですがすみません……」
おれは従業員にできるだけ控えめな声で呼びかけた。
「はい? なんです?」
「このラーメン、頼んだトッピングと違うみたいなんですが……」
おれは丼を小さく指さした。追加したはずの煮卵は見当たらず、代わりに頼んでいないコーンが麺の上を陣取っていた。
「え、ほんとに? おたく、素人さんでしょ?」
「え、ええ、そうですが……。でも、これは明らかに違うと言いますか……」
店員は丼を覗き込みもせず、おれの顔を見つめたまま片眉をわずかに上げた。
「あ、そう。作り直す?」
「あー……はい。お願いします」
「なに? どっち? 声が小さくて聞こえないんだよなあ!」
「え、いや、聞こえてましたよね? 最初に注文したときと同じくらいの声量だったと思うんですけど……」
「そう。返金か作り直し。どっち?」
「あー、じゃあ、作り直しでお願いします……」
「はあ、返金ね」
「えっ、じゃあ、はい……」
「いや、もう手をつけたでしょ。返金しないよ。訴えたいなら勝手にすれば?」
「一切箸はつけてないですけど……。いや、大丈夫です。すみません……」
「なに? 文句ある? じゃあ自分でやってみたらあ!?」
「いえいえ、そんな、とんでもないです……素人なもんで……」
「はいよ。はあ、次から対応しないから」
吐き捨てるように言い、店員は下がっていった。作業に戻ってからも、何度か苛立たしげに首を小さく振った。舌打ちも聞こえた気がした。
本当は作り直してほしかったが仕方ない。素人は騒がず、大人しくしているものだ。余計なことを言えば、余計な面倒を呼び込むだけだ。
おれは込み上げてくる何かを喉の奥で押し殺し、箸を取り、黙って麺をすすった。コーンの甘さがやけに舌に残った。
◇ ◇ ◇
「おい、金を出せ」
夜――。繁華街の喧騒から外れた路地を歩いていると、背後から低い声が飛び、男が前に躍り出てきた。
街灯の白い光を受けて、男の手に握られたものが鋭く光った――ナイフだ。
おれは素早く周囲に視線を走らせた。人影はない。窓を開け、誰かが煙草を吸っているなんてこともない。防犯カメラもこのあたりにはなかったはずだ。
「あの、素人ですがすみません。何をされてる方なんですか?」
おれは男に訊ねた。
「いいから金出せ……」
低く、焦燥の滲んだ声が返ってきた。
「強盗のプロの方なんですか?」
「いいから財布出せよ!」
「ナイフで人を刺した経験は?」
「はあ?」
「ないんですか?」
「どうでもいいだろ」
「素人さんなんですね?」
「だったらなんだよ。いいからさっさと出せよ」
男は苛立ったように顔を歪め、ナイフをひらひらと振った。
あれは緊張の表れだ。余裕ぶって心を落ち着かせようとしている。だが、それにしても――握りが甘い。甘すぎる。
「おい、聞いて――」
次の瞬間、おれは一歩踏み込んだ。間合いを一気に詰め、男の手首へ最短距離で手刀を振り下ろした。
鈍い音が鳴った。骨を砕いた確かな手応えが手のひらに伝わると同時に、男の握りは弾けるように崩れ、反射的に開かれた指の間からナイフが宙へ跳ね上がった。
おれはその軌道を読み、落ちてくるナイフを掴み取ると、呻き声を上げようと蠕動する男の喉へ一閃を走らせた。
狙い通り、刃は肉を裂き、声帯を正確に断ち切った。
男は音にならない息だけを漏らした。叫びになり損ねた、間抜けな風だ。
すとんと膝が折れる。すかさずこちらも腰を落とし、脇腹、そして喉を刺す。
男はそのまま崩れ落ちるように倒れた。血が気管へと流れ込み、ぐごぐ、と排水口のような濁った音を立てる。流れ出た血が、男の周りにゆっくりと広がっていく。びくびくと体が小さく跳ね、空気を求めて無駄に口を開閉させている。まるで陸に上げられた魚だ。
やがて、その動きも止まった。
おれはナイフを男の体の上に放り投げ、踵を返し、足早にその場を離れた。
まったく……おれのような稼業の者はどこへ行っても素人扱いだ。
むろん、そのほうが都合はいい。警戒されず、目立たず、仕事がしやすい。余計な注目を集めないというのは、それだけで大きな利点だ。
だが、たまにはプロとして胸を張りたくなるときもある。
もっとも、おれが仕事をするとき、相手はたいてい、そのことに気づく暇もなく死ぬのだがな。




