第9章 迷わなくなった
その相談は、雑談みたいに始まった。
「ちょっといいですか」
声をかけてきたのは、後輩の田中だった。
手には資料が一枚だけ。
私は画面から目を離さず、
「どうした?」と答えた。
「この人なんですけど……」
名前を見て、すぐ分かった。
最近、ミスが続いている。
大きな問題ではない。
でも、細かい遅れが積み重なっている。
私は、資料に視線を落とす。
*
前なら、ここで考えていた。
本人の性格。
環境。
前任者との引き継ぎ。
少し様子を見るべきかどうか。
でも、今回は違った。
頭の中で、
進行表と数字だけが並ぶ。
「今、どこで詰まってる?」
「確認が遅くて……」
「誰の確認?」
「全体です」
それで十分だった。
*
「外そうか」
言葉は、自然に出た。
田中が、一瞬だけ目を瞬かせる。
「え、でも……」
「代わり、用意できる」
「はい……」
それ以上、説明は要らなかった。
私は、スケジュールを開き、
該当箇所をクリックする。
名前を消して、
別の名前を入れる。
たった、それだけ。
*
作業は、驚くほど滑らかに進んだ。
確認は一回。
修正も最小限。
誰も文句を言わない。
誰も不満そうな顔をしない。
私は、
「ああ、こういうことか」
と、妙に納得していた。
これは、感情の問題じゃない。
配置の問題だ。
*
昼休み、田中が言った。
「判断、早いですね」
「そう?」
自分では、意識していなかった。
「前は、もう少し悩んでた気がします」
「……結果が出てるから」
それだけ答えた。
田中は頷いた。
納得した顔だった。
*
午後、例の本人から、
短いメッセージが来た。
「ご迷惑をおかけしました」
「次は気をつけます」
私は、既読をつけただけで、
返信しなかった。
何か言うべき言葉が、
思い浮かばなかった。
謝罪は、もう終わっている。
判断も、もう終わっている。
*
定時前、課長に呼ばれた。
「対応、早かったね」
「はい」
「助かったよ」
それだけだった。
評価は簡単で、
理由も聞かれない。
私は、
「よかったです」
とだけ答えた。
*
帰り道、ふと思う。
今回は、
胸が痛まなかった。
迷いも、
後悔も、
確認のための自問もなかった。
正しいかどうかを、
考えなかった。
考える前に、
手が動いていた。
*
電車の窓に映る自分は、
前と変わらない顔をしている。
冷たいわけでも、
得意げでもない。
ただ、慣れている。
――これでいい。
そう言い切れない気持ちは、
確かに残っている。
でも、それを
判断に含める必要はない。
私は、そう理解してしまった。
*
家に着いて、
シャワーを浴びながら思う。
もし次も、同じ状況が来たら。
たぶん、
もっと早く決める。
もっと簡単に。
それを、
自分でも止められない気がした。
水音の中で、
その感覚だけが、
はっきりと残っていた。
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