第8章 何も起きなかった
翌週も、仕事は普通に始まった。
朝のミーティングは時間通りに終わり、
進捗も予定通りだった。
誰も遅れない。
誰も詰まらない。
誰も、困らない。
それが、少しだけ意外だった。
*
彼がいなくなった席には、すぐ別の人が座った。
臨時ではなく、正式な補充だ。
引き継ぎは簡潔で、説明も最小限。
質問は要点を突いていて、返事も早い。
私は、無意識に時計を見る癖がなくなっていることに気づいた。
――順調だ。
それ以上でも、それ以下でもない。
*
会議で、課長が言った。
「今回の体制、悪くないですね」
それだけだった。
評価としては、控えめだ。
でも、その一言で十分だった。
私は軽く頷き、メモを取る。
胸の奥に、波は立たない。
褒められた実感も、
達成感も、
ほとんどなかった。
ただ、問題がないという事実だけが残る。
*
昼休み、佐藤と並んで弁当を食べた。
「最近、静かだな」
「そう?」
自分では、よく分からなかった。
「前はさ、色々気にしてたじゃん」
「……そうだったっけ」
佐藤は何か言いかけて、やめた。
代わりに、箸を進める。
それ以上、話題は続かなかった。
*
午後も、何事もなく過ぎていく。
修正は最小限。
確認は一回で終わる。
私は、淡々とタスクを処理していた。
効率がいい。
無駄がない。
以前なら、
「この人、大丈夫かな」
「フォローしたほうがいいかな」
と考えていた時間が、すっかり消えている。
代わりに増えたのは、
“自分の仕事”だけだ。
*
夕方、ふと、進行表を眺めていて思った。
もし、彼が残っていたら。
その仮定は、すぐに打ち消される。
考える意味がない。
もう、いない。
結果は出ている。
問題も起きていない。
それが、答えだ。
*
帰り道、電車の窓に映る自分の顔を見た。
疲れているわけでもない。
満足しているわけでもない。
ただ、落ち着いている。
――これが、正しい状態なんだろうか。
そんな疑問が、一瞬だけ浮かんで、消えた。
正しいかどうかは、
結果が決める。
そう教えられてきたし、
そうやって、自分も判断してきた。
*
家に帰り、パソコンを開く。
未読のメールはない。
緊急の連絡もない。
私は、何も起きなかった一日を振り返る。
誰も怒らなかった。
誰も泣かなかった。
誰も、助けを求めなかった。
完璧だ。
それなのに。
なぜか、
胸の奥に、小さな空洞がある。
理由は分からない。
名前もつけられない。
私は、気にしないことにした。
気にしても、何も変わらない。
*
布団に入って、目を閉じる。
思い浮かぶのは、
何も言わずに去った背中でも、
未完成の資料でもない。
ただ、
「問題が起きなかった」という事実だけだ。
それが、
こんなにも静かで、
こんなにも確かなのが、
少しだけ――怖かった。
でも、その怖さも、
きっと、そのうち慣れる。
私は、そう思いながら、
何事もなかった一日を終えた。
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