第2章 名前を呼ばれる側
最初に変わったのは、メールの文面だった。
件名に、自分の名前が入っている。
それだけで、心拍数が少し上がるのが分かった。
――追加の資料、助かりました。
――次回の打ち合わせで、少し時間を取れそうです。
たったそれだけの文章なのに、私は何度も読み返してしまった。
否定ではない。
切り捨てでもない。
少なくとも、前よりは前向きだ。
「……よし」
小さく息を吐いて、私は席を立った。
コピー機に向かう途中、通路で佐藤とすれ違う。
「なんかいいことあった?」
「え? いや、別に」
そう答えながら、顔が緩んでいるのが自分でも分かった。
隠すほどのことでもないのに、どこかで慎重になる。
評価されることに、慣れていない。
*
次の会議で、私の名前が呼ばれた。
「この部分、○○さんが修正してくれた案です」
一瞬、時間が止まったように感じた。
全員の視線が、こちらに向く。
私は背筋を伸ばし、軽く会釈をした。
心臓がうるさい。
「数字の裏付けが加わって、現実味が出ました」
「はい……ありがとうございます」
それだけだ。
褒め言葉としては、控えめにもほどがある。
それでも。
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
――見てもらえた。
――ちゃんと、評価された。
会議が終わったあと、佐藤が肩を軽く叩いてきた。
「やるじゃん」
「たまたまだよ」
「たまたまでも、名前出されるのはすごいって」
私は曖昧に笑った。
謙遜のつもりだったけれど、内心ではその言葉を反芻していた。
名前を呼ばれる。
成果として扱われる。
悪くない、と思ってしまった。
*
その日の帰り道、私はコンビニに寄って少し高いスイーツを買った。
理由は特にない。
ただ、そうしたくなった。
電車の窓に映る自分の顔は、どこか満足そうに見えた。
――頑張った。
――ちゃんと結果を出した。
そう言い聞かせながら、スマホを開く。
社内チャットに、新しいメッセージが届いていた。
「次の案件、手伝ってもらえる?」
送信者は、会議で遅れていると指摘されていた同僚の一人だった。
少し前なら、即座に「もちろん」と返していたと思う。
でも、そのときの私は一瞬だけ迷った。
自分のタスク。
締切。
優先順位。
頭の中で、自然と整理されていく。
――今は余裕がない。
――下手に引き受けて、遅れたら評価が下がる。
私は画面を見つめたまま、数秒考えた。
「ごめん、今ちょっと立て込んでて」
送信ボタンを押したあと、胸の奥が少しだけチクッとした。
でも、それはすぐに消えた。
仕方ない。
現実的な判断だ。
私は、冷たい人間にはなっていない。
ただ、ちゃんと優先順位を考えただけだ。
*
翌日、会議室であの人――課長が、いつも通り淡々と話していた。
数字。
進捗。
評価。
私はメモを取りながら、以前ほど強い嫌悪を感じていない自分に気づく。
言っていることは、変わらない。
それなのに。
――この人は、結果を出した人間にはちゃんと応える。
そんな考えが、頭の片隅に浮かんだ。
それは理解であり、同時に納得だった。
会議が終わり、席を立つとき、課長が私を呼び止めた。
「次の企画、期待しています」
短い一言。
それだけで、背中が少し軽くなる。
私は「はい」と答えた。
迷いはなかった。
理由ではなく、結果を出す。
そのやり方を、私はもう知っている。
そしてそれが、思っていたよりずっと――
楽だということも。
ありがとうございました。
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