第1章 正しい人
あの人は、いつも正しい。
少なくとも、間違ったことは言わない。
会議室の長机の向こう側で、彼は資料をめくりながら淡々と話していた。声は低く、感情の起伏はない。誰かを怒鳴ることも、侮辱することもない。ただ事実と数字を並べて、結論を出す。
「今月の進捗を見てください。遅れているのは三人。そのうち二人は、先月も同じ理由で遅延しています」
プロジェクターに映された表に、名前が並ぶ。
私はその中に、自分の名前がないことを確認してから、ようやく息を吐いた。
「理由はそれぞれあるでしょう。ただ、仕事は理由ではなく結果で評価されます」
その言い方が、私は嫌いだった。
――理由はあるでしょう。
――ただし、考慮はしません。
そう言っているのと同じだ。
彼は私たちを見ない。正確には、個人を見ない。見るのは数字と期限と成果だけだ。その姿勢を、合理的だと評価する人もいる。実際、彼の部署は結果を出している。
でも私は、ああいう人間にはなりたくなかった。
会議が終わると、名前を挙げられた三人のうちの一人が、静かに席を立った。反論もしなければ、言い訳もしない。ただ、少しだけ肩を落としているのが分かった。
私は目を逸らした。
――あの人は冷たい。
――人の事情を考えない。
心の中で、何度もそう繰り返す。
それで自分を守っているつもりだった。
*
昼休み、同僚の佐藤がコンビニの袋を机に置きながら言った。
「課長、また数字の話だけだったな」
「……うん」
「正論なんだけどさ。正しすぎるんだよな」
私は小さく頷いた。
誰かが同じことを言ってくれると、少し安心する。
「人にはさ、それぞれ限界ってあるじゃん」
「あるね」
「それを無視して『できないのは努力不足』って切るの、どうなんだろうな」
私は「そうだよね」と答えながら、スマホを開いた。
通知はない。
昨日提出した企画書の返事も、まだ来ていなかった。
胸の奥が、わずかにざわつく。
もし、あの人がこの企画を見たら。
評価するとしたら、何と言うだろう。
――面白いが、数字が弱い。
――現実的ではない。
頭の中で、彼の声が再生される。
それを想像しただけで、気分が沈んだ。
私は、ああいう見方が嫌いだ。
人の価値を、成果だけで決めるやり方が。
なのに。
企画書をもう一度読み返しながら、私は無意識にチェックを入れていく。
実現性。
費用対効果。
スケジュール。
どれも、自分が否定してきたはずの基準だった。
*
午後、メールが届いた。
――企画、確認しました。
――現時点では採用は難しいです。
理由は三行で書かれていた。
簡潔で、反論の余地がない。
私は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
悔しい、というより先に浮かんだのは、納得だった。
「……まあ、そうだよね」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
自分で自分を説得するように。
数字が足りない。
裏付けが弱い。
結果が見えない。
どれも正しい。
だから、何も言えない。
ふと、会議室で名前を呼ばれた同僚の姿が頭に浮かぶ。
彼も、きっと同じ気持ちだったのだろうか。
私は椅子に深く腰掛け、天井を見上げた。
――正しい人は、間違えない。
――でも、正しいだけで、人を切る。
そう思いながら、私はキーボードに手を伸ばす。
修正案を作らなければならない。
次は、通るように。
理由ではなく、結果を出すために。
そのときの私は、まだ気づいていなかった。
自分がどこに立って、何を基準に動き始めているのかを。
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