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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

黒木が休んだ日

作者: 川浪 オクタ

 親が姉の話をしたのは、正月明けの実家だった。

 テレビはつけっぱなしで、湯気の立つ味噌汁の匂いだけが、なぜか強く鼻に残った。


「……ほんと、早く見つかって助かったんだよ」


 母が、箸を置きもせずに言った。

 言葉だけがテーブルの上に転がって、俺の方へ来る。


「助かったって、何が」


「撤去費用とか……ほら、いろいろ。大家さんにも迷惑かけたし」


 撤去費用。

 俺はそれが何の撤去なのか、すぐには結びつかなかった。姉が亡くなったのは俺が高校生の頃で、親からは「自分で命を絶った」としか聞かされていない。

 当時、俺は学校と部活と受験で、家の中の空気の変化を感じる余裕もなかった。感じたとしても、見ないふりをしたと思う。


「……姉ちゃん、何で」


「もういいだろう」


 父が短く切った。母は目をそらした。

 それで話は終わるはずだったのに、母が、ほっとしたみたいに息を吐いて続けた。


「最近ね、ニュースで見たの。あの子の……相手。逮捕されたって」


 相手。

 母は言い直さない。俺の中で、姉の過去に今まで存在しなかった輪郭が勝手に立ち上がる。


「彼氏?」


「……そう。お金のこととか、暴力とか、いろいろあったみたい。私たちも知らなかった。友達にも言ってなかったらしいの」


 母の声が小さくなる。言いながら、誰かに謝っているみたいだった。

 俺は怒りたかった。相手が別件で逮捕されたという「分かりやすい悪」を、今すぐ殴りに行けるなら、そうしたかった。

 でも、怒りより先に来たのは、空洞だった。


 姉は、助けを求めなかった。

 いや、求められなかった。

 俺はそう言い切ることもできなくて、代わりに、何か別の言葉を探し始めた。


 その夜、布団に入ってからスマホを握り直した。

 撤去費用。事故物件。特殊清掃。

 検索窓に、知らない言葉を打ち込む手だけが動く。動画も見た。コメント欄も読んだ。

 画面の中で語られる現実は、情報としては確かに存在するのに、俺の現実とは接続しない。

 頭の中で「そういうことか」と理解したフリをしても、腹の底は何も納得しない。


 画面を閉じたとき、俺は思った。

 姉は、あの相手に何かを残したかったのだろうか。

 存在を、消さないために。

 そう考えると少しだけ整理がつく気がして、同時に、そんな整理の仕方をする自分が嫌になった。


 次の日、駅へ向かう道でふと、姉が制服を着て家を出る背中を思い出した。

 あの背中は、別に不幸そうでもなかった。

 むしろ、いつも通りだった。

 人は、いつも通りに見えるのだ。たぶん俺も。


 ⸻


 俺が入社したのは、不動産管理会社だ。

 理由は説明できるようで説明できなかった。明確な目的があったわけでもない。

 ただ、興味があった。

 俺の人生の中でずっと宙に浮いたままの疑問が、どこかでこの会社とつながっている気がした。


 面接で「志望動機は」と聞かれて、俺は無難に言った。

「安定している業界だと思いますし、資格も取っていきたいです」

 口から出た言葉は本心の一部で、残りの大部分は喉の奥に引っかかったままだった。


 採用された。

 社長は俺の名前を覚えない。覚えなくていい。

 俺は一般社員として配属され、家賃の入金確認だの、入居者からの問い合わせだの、契約更新の書類だの、淡々とやった。

 仕事は仕事で、俺の生活は回った。

 問いだけが、どこにも行かずに残った。


 黒木と仲良くなったのは、席が近くて、年齢も同じだったからだ。

 黒木は声が大きいタイプじゃない。仕事は丁寧で、雑談は少なくて、でも必要なときに必要なことを言う。

 昼休み、コンビニで買ったお弁当を食いながら、黒木はよくくだらない話をした。

「休日って何してんの」

「寝てる」

「それ休日じゃなくて睡眠だろ」

 そんな程度の会話。

 それが、俺にはありがたかった。何かを掘り返さなくていい関係。


 ある金曜日、黒木が欠勤した。

「体調不良」とだけ、上司が言った。

 火曜日になっても出社しなかった。

 電話しても出ない。メッセージも既読にならない。


 水曜。

 上司が俺を呼んだ。


「黒木と連絡がつかない。親御さんにも連絡したけど、遠方で今日中は無理らしい。会社の管理物件に住んでるから、管理会社の担当も同行するけど……一緒に行ってくれないか」


「……俺が、ですか」


「お前、黒木と一番話すだろ」


 一番、話す。

 その言葉が妙に重かった。

 俺は断れなかった。断る理由がなかった。

 それに、嫌な予感がしていた。予感というより、嫌な計算だった。

 土日祝日を挟んでいる。連絡がない。欠勤が続く。

 そういうとき、最悪の可能性は現実に近い。


 管理会社の担当は、淡々としていた。

 同行する四人——俺、上司、管理会社の担当、鍵の手配役——は、同じエレベーターに乗って、無言で階を上がった。

 廊下の空気が、妙に冷たい気がした。夏でもないのに。


 部屋の前に立ったとき、上司が一度深呼吸した。

 管理会社の担当が、鍵を回す動きを途中で止め、俺たちを見た。

「まず中を確認して、状況を判断します」


 それから先のことは、俺の記憶の中で輪郭が曖昧だ。

 音と匂いと、空気の重さだけが残っている。

 誰かが目をそらした。上司が口元を押さえた。

 俺は、思ったより大丈夫だった。

 大丈夫というより、身体が勝手に「やるべきこと」を選んでいた。


 管理会社の担当が家族と警察に連絡を取る間、俺と上司は職場へ電話した。

「黒木の件で……」

 言葉が機械的に口から出る。

 上司は途中で声が震えて、通話を切った。顔色が悪い。汗がにじんでいる。


「すみません……ちょっと……」


 上司が壁にもたれた。

 俺は、そこで初めて少し冷静になった。

 うろたえる人を見ると、俺は自分を「動ける側」に置いてしまう癖がある。

 嫌な癖だ。でも今は助かった。


「水、買ってきましょうか」


「……いや、いい。……お前、すまないな」


 すまない。

 その言葉は俺に向けられているはずなのに、黒木に向けられている気がした。


 廊下の向こうから足音がして、俺は顔を上げた。

 スーツ姿の男が二人、角を曲がってくる。見覚えのある顔だった。

 親会社の社長だった。業界では有名な若手経営者で、雑誌でもよく見る顔だ。

 たまたま近くのオフィスで会議があり、状況を聞いてこちらに寄ったらしい。同行の男が事情を短く説明した。


 社長は頷くだけで、慌てる様子も、焦る様子もなかった。

 部屋の前まで来ると、社長は立ち止まり、ドアの前で静かに手を合わせた。

 中には入らない。覗きもしない。

 ただ、そこで一呼吸置く。


「……中には入りません」


 社長は、誰に言うでもなく言った。

 声は低く、整っていた。


「ここから先は、ご家族が知るべきことですから」


 上司が何か言いかけて、言葉を飲み込んだ。

 管理会社の担当が一瞬だけ目を伏せた。

 俺は、その場面を見て、背中の奥が冷えるのを感じた。


 社長は、悲しんでいないように見えた。

 でも、軽んじてもいなかった。

 祈りとも作法ともつかない、距離の取り方。

「人が亡くなる」という出来事を、感情にも制度にも回収しないまま、そこに置く態度。


 俺は、姉のことを思い出した。

「早く見つかって助かった」

 あの言葉が、こんなふうに現実の中で立ち上がるとは思わなかった。


 社長は手を下ろし、同行の男に小さく指示を出した。

 あとは淡々と、連絡、手配、確認。

 社長はそれ以上語らない。

 俺に目を向けることもない。興味がないのだ。

 それが、妙に救いでもあった。社長の思想の中心に俺は入らない。入る必要もない。


 ⸻


 会社に戻ると、上司はすぐに会議室へ消えた。

 顔色はまだ悪い。誰かが付き添っていった。

 フロアはいつも通りで、電話は鳴り続け、プリンターは紙を吐き、誰かが「すみません、これ急ぎで」と言っている。


 何も変わっていない。

 それが一番きつい。

 世界は黒木の不在を受け止める余裕もなく、ただ次のタスクへ流れていく。


 俺は自席に座り、黒木の机を見た。

 付箋が何枚か貼ってある。ペンが置いてある。

 そこに黒木がいないことだけが、異物として目に刺さった。


 引き継ぎのことを考えた。

 俺の分で進める業務もある。

 黒木の担当は上司が考えるだろう。

 残業もあるかもしれない。

 そういう現実が、すぐに頭を占領する。


 泣きたい気持ちは、確かにある。

 でも泣けない。

 泣くための時間がない、という感覚がある。

 感情がないのではなく、感情に行く通路が混んでいる。

 何かが詰まって、動けない。


 思考がストップしているのに、周りだけが早送りで進んでいく。

 見えている世界だけが、妙にスローモーションだった。

 現実にあったことが、映画みたいに思えてくる。

 画面越しの出来事のように、距離がある。


 俺はこんなにも薄情だったか。

 黒木を、あのままにしてよかったのか。

 俺は黒木と友達だったよな。


 答えは出ない。

 出してはいけない気もする。


 それでも、手は動く。

 電話を取って、謝って、確認して、入力する。

 仕事は仕事だったらしい。

 体が勝手に動いてくれた。


 夕方、コピー機の前で誰かが小声で言った。

「黒木さん、真面目だったのにね」

 別の誰かが言った。

「最近、元気そうに見えたのに」

 言葉はどれも正しくて、どれも届かない。


 帰り道、駅のホームで風が吹いた。

 人の流れに押されながら、俺は思った。


 俺は社長みたいにはならない。

「選択」を全部に当てはめて、自己責任だと切り分けて、そこで終わらせることはできない。

 俺は、救えると思ってしまう。

 社長から見れば、変な正義感だろう。

 救えないことの方が多い。

 それでも、救おうとする側に立つことは、俺の中ではやめられない。


 会社を辞めない理由も、たぶんそれだ。

 この会社にいれば、俺は「見る側」にいられる。

 見て、手を伸ばす側に、まだ留まれる。

 それが正しいかどうかは分からない。

 でも、俺の人生の中で、姉の空白を埋めるのは、たぶんその姿勢しかない。


 翌朝も、同じ時間に目が覚めた。

 同じ電車に乗って、同じビルに入って、同じフロアで席に座る。

 黒木の机は片づけられ、空白だけが残った。


 電話が鳴る。

 俺は受話器を取る。


「はい、お電話ありがとうございます」


 声はいつも通りだった。

 いつも通りにすることでしか、立てない日がある。

 俺はそれでも、立っていた。

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