第三幕ー⑤
「なあ、知ってるか? ずっと南の方にはさ、雪の降らない春の国があるんだよ。沢山の花が咲いていたり、一年中蒸し暑かったり、渇いた砂の大地があったり、全く違う世界があるんだ」
ミハイルはそれがどれだけ素晴らしいことかを必死に伝えようとするが、イレーナはきょとんとして響いていないようだ。
「行ってみたいと思わないか?」
「うーん……わたしは、この村が好きだから。たしかに人は減っていくけど」
ミハイル理解ができない。こんな危険だらけの村で、適応できない動物はすぐに雪に埋もれて死んでいくような場所に、彼女は何を見いだしているのか。
「空気が澄んでいるし、余計なものがないし、自然は厳しいけど、わたしたちを許容してくれている」
深呼吸すれば肺が凍る、と言われる中でイレーナは空気が美味いと言う。
「でも、ここに生まれなければ、寒さにおびえなくてよかったんだ。好きなときに外に出て遊んでいい。水も好きなだけ飲んで良い。街には食い切れないほどの食料があるんだと」
「あなたがいるから」
雲雀の笑顔が、胸の深奥を穿つ。
万感を湛えた穏やかな笑み。心底彼を信頼しきっていて、どれほど過酷な環境であっても、そばにいられればそれでいいと言うのだ。
「だからわたしは、この場所でいい。どこにも行かなくても、いいの」
ああ、これほどの熱を真正面から受け止めたなら、きっと寒さも感じないだろうに。
「…………」
「誠司先輩、次」
「……っえあ、ごめん。んんっ。じゃあ、俺が行きたいって言ったら、君はどうするんだ」
飛ばしたか、と思ったがそうじゃない。長い硬直に耐えかねカントクが声をかけるとすぐに台詞が出てくる。これが稽古中でよかった。
一本の道があり、結末は決まっており、着実に近づいているのだ。
「ミーくんが行ってみたいなら、ついて行くよ」
そこで一区切り、空気が弛緩する。一年達は興奮した様子でひそひそ話し合っている。カントクもどこか満足げである。それくらいさっきの表情はやばかった。
ちくしょう、劇の外側から見ていただけなのに、こんなにも痛む。
『どうだった?』
本人も手応えを得たのだろう。親に褒めて貰うのを待つ子供のように、僕の方へやってくる。
「……えーっとね」
なんでこっち来んのかねえ。そのまま先輩とイチャついていればよかろうに。
『声のトーンこれでいい?』
『厚着してるもんね 身振りは少ない方がいいか』
『遊園地とかにあるよね 寒さを体験できる施設 今度一緒にいこうよ』
「雲雀」
浮かれるならば目的を果たしてからだ、何故それがわからない。先輩との時間を増やせよ。親しげに振る舞うなよ。約束しただろ、どうして守れないんだ。
その笑顔を、僕に向けるな。
「……まだ全体の半分程度だ。いつもの君なら、もっと役にのめり込んでるはずだろ。集中してよね」
隣のカントクが何事かと僕を見る。構わず続けた。
「いいかい、イレーナは君自身に寄せて書いている。だからって役作りをおろそかにしないでくれよ。寒さという絶望を乗り越えた上での明るさが彼女の肝なんだ。その懐の深みを今の君からは感じない」
顔を上げると、今にも泣き出してしまいそうな女の子がそこにいる。
突き放すことで上手くいくなら、僕はそうする他ない。過程でどれだけ彼女を苦しめることになろうとも、結末まで導く。
「……やる気あんの?」
びくりと肩を震わせ、二歩、たじろいだ。ようやく距離ができる。
「おーおー今回はこだわりが強いな。雲雀、まだ甘いってよ」
「な、紡のイメージに沿えるようにがんばろう。まだ時間はたっぷりあるから」
誠司先輩が彼女の肩を抱き、そっと廊下へ逃がした。
部員全員の視線が僕に集まる。それはおおよそ否定的な色をしている。演技もできないくせにうるせえよな、僕もそう思う。
「ねえ、言い方きつくないかな? 雲雀ちゃん、良い演技してたでしょ?」
「珍しくイライラしてんね。無表情どしたん」
「ねー」
「……さっきのすごいよかったのに」
ひそひそ。ひそひそ。誰にも嫌われず無色透明で生きてきたはずなのに、これほどの総スカンをくらうとは。こういう学生時代のディスコミュニケーションが尾を引いて就職先で人間関係に挫折し恋愛に臆病になって無職童貞が生まれるんだろうな。
「あーこいつな、脚本終わって疲れてんだろうよ。思い入れもあるだろうし、あんま言ってやんなよ」
脱稿から二週間は経つのに、普通なら疲れてるはずないだろうに。カントクが取りなすと一旦非難の声は止む。
「けどお前も、言い方気をつけろよ」
っせーな。お前の方がよっぽどキレ散らかしてるだろうがよ。
気分が悪くなる一方なので部室からのエスケープを図る。悪口大会ならどうぞごゆっくり。
「飲みもん買ってくらあ」
やりすぎたかな? いや、これで雲雀に伝わったのだと信じたい。今頃先輩が彼女を慰めているはずだし、結果オーライだろ。
さて、できればずっと残しておきたかったけど、そうもいかないようだ。
お守りみたいにずっとポケットの中に入れていた。元気をもらえるから、彼女がくれた物だから、特別だから。
残り二つとなった飴ちゃんの片方を口に放り込む。
甘みと酸味が心地よい。舐めている間だけは、自分を許してやろうと思う。
その夜のこと。何かしらのアクションはあるかなと身構えていたから、突如スマホが着信を知らせたときも大して驚きはしなかった。
「お疲れ様です」
「ああ、夜分遅くにすまないな」
構わない。どうせ今日もろくに眠れやしない。
「何か急用でも?」
「いや、そういうわけじゃないけどな」
切り出し方を迷っているのだろうか、どうでもいい雑談をいくつか振ってくる。わざわざこんな時間にかけてきてそれも不自然だろう。僕らの間に共通項は多くない、仕方なしに水を向けてやる。
「そうだ、あのあと雲雀どうでした? 途中で終わっちゃったから気になって」
電話越しだが相手が息を呑むのがわかった。
「随分厳しい指導だったな。やっぱり最近、様子が変だぞ君は」
心配されているのか、彼女を追い詰めたことが不満なのか、あるいはどちらもか。
「変ですか? 僕もそれなりに勉強してきたから、演出で言いたいことも増えてきたんですよ」
「だとしても、言葉くらい選んだ方がいいぞ。雲雀が一番張り切ってるんだから、やる気ないなんてこと絶対ないから」
「そうでしょうか? 僕には脚本の読み込みが甘いように見えてしまうんですけどね」
すべての筋道は、彼女と先輩が結ばれるラストシーンに帰結する。そのためには、僕と過ごす時間をすべて先輩に向けていなければならない。だから脚本を読めてないと言っている。
「なんだよ、あんなにずっと仲良さそうにやってたじゃないか。なあ、喧嘩でもしたのかい?」
「喧嘩も仲違いもしてませんよ。ただ、良い演劇にするために必要だったから伝えただけです」
「それならいいけど、あいつさ、泣いてたよ。理由は教えてくれなかったけど、声も出さずにさ」
ため息が漏れそうになるのをぐっと堪えた。悪し様に振る舞いすぎても勘繰らせるだけだろう。ただ、本当に脇が甘いというか……。
僕に冷たくされたからって、泣くなよ。馬鹿だな。
「言い過ぎちゃったのかもなあ。先輩、フォローしてくれてありがとうございました」
素直に謝罪すると、相手の毒気も抜けたのか少しだけ間があって。
「いや、君も脚本書いて、相当のこだわりがあるはずだからどんどん言って欲しい。でも、いきなり突き放したりするんじゃなくて、もっと段階踏んで指導してもらえないかな?」
そしてこの人は、底抜けに優しい人だ。部員全員が今日のことで僕に反感を抱いただろうに、きちんとこちらのことも慮ってくれる。
こういうところが人を惹きつけるんだろう。入部当初からそうだった、人と上手く交われない僕を快く受け容れてくれた人。
「わかりました。今後は気をつけます」
その誠実さに、つけ込んだ。雲雀を放っておかせないように。結果、僕が遠ざけたことで彼と彼女の距離は近づくのだから、成功と言っていだろう。
ああ、さもしい策略を巡らす自分がきらいだ。
「紡もさ、最近疲れてそうだし。ちゃんと寝られてるか? 少し前からずっとだろ、休みたいときは遠慮しなくて良いからな」
優しい人だから。
素敵な男性だから。
それを思い知らされるほどに、
「お気遣い痛み入ります。舞台が跳ねるまではがんばりたいです」
主役になれない自分が惨めになるんだよ。




