第三幕ー③
通学路を変えた。ちょっと遠回りにはなるけれど、川沿いの気持ちいい道を行くことにした。
脚本に集中すると宣言した。部室には顔を出さず、一人での作業を選んだ。ちょうどテスト期間に入り都合がよかった。
毎日交わしていたやりとりが、途絶えた。あれほどこまめにレスしていたのに、何でもない雑談がトークルームを埋め尽くしていたのに。
彼女と疎遠になるということは、僕と世界との関わりが薄くなることなのだと実感した。気づけば一言も口にせず一日が終わっていたりする。集団生活をしているのに、存在の座標がズレているような錯覚。
そして一人の夜にディスプレイにのめり込むのだ。
現実が稀薄であるほど、創作は捗ってくれる。脳裡に映じた光景を文字に落とし込む。ひたすらにキーを手繰る。
物語の中で雲雀と先輩はますます絆を深めていく。花の咲き誇る世界を目指して、極限の状況まで追い込まれても二人は、命を絡ませ暖を取る。
二人で生きていく。歩いて行く。
目指すべき未来を眺めている。
腹の底から不快感が押し寄せてくる。下手に持ちこたえようとすると自室内で決壊しかねない。制御を諦め迅速にトイレまで移動し、便座を目にした瞬間に、堪えきれなくなった。
内蔵からシチューが逆流する。あーあ、折角作ったのに。父さん母さんごめんなさい。なるべく音をたてないように処理して、ふらふらしながらも自室に戻る。
もう何も残っちゃいない。吐き出す心配もない。
続けなきゃ。
口づけを。想いを結ぶ誓いを。雪が去り、風が吹き、春が巻き起こるような。
僕は書かなければならない。
しあわせにな
手紙をとどけなく
気づけば机に突っ伏していて、窓からは控えめな朝日が差し込んできていた。意識を手放せていたのはわずか一時間程度だろうか。
立ち上がると身体の節々が軋む。軽くストレッチをこなすと、隣の部屋から物音がする。テストが終わり、朝練がまた始まるのだろう。奏が身支度しているのだ。
どれ、熱心な妹さまに朝のコーヒーでも淹れてやろうかと先にリビングに降りて支度を整える。豆の香りは束の間の癒やしだ。早起きしてよかったと自分を慰める。
「…………っお、おはようございます」
妹さまは僕を認めるとぎょっと目を丸くする。驚くことないだろう、最近は母に任せていたけど、演劇部に入る前はよく朝食と弁当を用意していただろうに。
「今日から練習?」
コーヒーとパンとオムレツを並べてやると、奏はおずおずと食卓についた。かなり早く起きたのに先回りされていたから居心地が悪いのかも。
「うん。兄さんも……部活、行くんですか?」
「あーわかんない。もうちょっとで完成だから、家で書くかも」
帷ちゃんの口に戸は立てられない。僕が演劇部の脚本担当であることは瞬く間に奏にバレた。別に隠していたわけではないのだけれど、兄のブランドイメージが崩れるくらいならわざわざ言うべきではないからね。
たとえば雲雀が乙女心を全開にした台詞を口にしたとして、どれほど心を揺すぶられたとしても、それが兄由来の産物だと認識してしまった途端に気疎く思えてしまうだろう。
「なら、今日の夕飯作ろうか?」
「なんでよ。放課後も練習あるんでしょ」
「ある……でも、大変なんでしょ演劇って。よくわかんないけど」
「僕にとっては作業の山場ではある。けど四六時中書いてるわけじゃないから」
このペースなら六月半ばには目処が立ちそうだ。締め切りには充分間に合う。
「なら少しでも寝てていいって。その……心配になるから」
おやおや、どうしたことだあの奏ちゃんが僕を気遣うだなんて。今まで散々顎でこきつかってくれたのに。
「鏡、見てきたら? 酷いよ」
「兄上の面貌を愚弄する気か」
「兄さんは細身ですらっと系なんだから、やつれちゃったら骨しか残らない。栄養と睡眠が足りてない」
指摘してくれて助かった。部活の面々に同じ印象を与えることは不利益にしかならない。気合いを入れ直さないと。
「じゃあ、今日は妹さまの手料理をいただいちゃおうかなぁ」
「兄さんの好きな物作るよ、リクエストは?」
「ありがとう。なんでも嬉しいよ、最愛の妹が作ってくれる料理なら」
奏はそっぽを向いて、「きつい……」と呟いた。顔が赤くなっていたから照れていたのだと信じたい。身近な人の優しさは心に染みる、というお話でした。
「失礼します」
まったくくだらない時間だった。期待しているからとか本当はもっとできるとか、励ます素振りでその実、全国模試で転ばれたら困るって内心が透けている。夏に向けて照準を合わせていこうとかケアレスミスを減らそうとか、そんな話に終始興味を持てずに愛想笑いで聞き流していた。
背負える荷物には限りがあるのだ。捨てるなら、優先度の低い物からに決まっていた。
職員室を辞すると、なんと出待ちされていた。こちらが壁を作っているのをわかった上で、距離を詰めて来ようとするのはどういう心境なのだろうね。
「説教されちゃった」
『成績?』
「そう。フィルム撮影に夢中になりすぎたね」
言葉を綴るより早く、手首を掴まれるより前に、彼女の横をすり抜け教室へ向かう。雲雀は慌てて後ろに付き従うが、これでは会話は成り立たない。
まったく不便だね、声が出せないというのは。こちらが応じなければコミュニケーションにならない。
「心配かけたよねごめんね。でも成績なんて、その気になればどうにでもなるからさ」
彼女も僕の順位なんて気にしちゃいないだろうに。
「もう少しで仕上がるから、そしたら、ビシビシ稽古するからさ、覚悟しておいて。練習からハートを射止めるつもりでやるんだよ」
歩みは止めない。テンポは緩めない。
スタンスを崩すべからず。完成間近になって、いよいよ部室にも顔を出さなければならない。きちんと雲雀とは距離を置くことだ。
まさか先輩だけじゃなく、彼女の意識づけまで必要になるとは思わなかったけど。
「がんばってね、応援してるよ、陰ながら」
ぎこちなくなった僕との関係を憂えている暇などないはずだ、君には。
わざわざ脚を止めて、僕史上一番の優しさを込めた笑みを浮かべたのに、雲雀の表情は雲がかかったまま。
ああ、痛えな。自分が彼女にとって大きな存在になっているのがわかるから、痛いよ。
『紡くん』
「先輩、お疲れさまです」
どうやらニアミスしていたらしい。誠司先輩は職員室の反対側のドアから姿を現した。タイミングがいいのか悪いのか。
「……おっと、お疲れさま」
こちらに気がつくと人差し指でくるくる回していた鍵をパシッと手中に。
「部室の鍵ですか?」
「んや、資料室。そろそろ稽古始まるだろ、その前に、過去の文化祭の脚本読んでみよっかなって」
学生演劇では尺も人も満足に用意できないことも多い。なので完全オリジナル、とまではいかなくとも一部の展開を飛ばしたり話を畳むために途中で原作を改変したりと、部活でやるための努力をするんだそうな。そして文化祭で発表された劇の脚本はなるべく資料室に残してあるんだと。
「僕も負けてられないな。そうだ、雲雀も一緒に読んできたら? 勉強になるかもよ」
ゴール前に絶妙なクロスをあげたのに、FWは反応できていない。オフサイドを恐れずに突っ込むんだよ。
『でも』
『脚本』
「こっちは任せてくれていいから。カントクには僕から言っておくし。ちゃんと練習するんだよ」
背中を力強く押してやると、先輩と僕を交互に見比べている。パスの意図をしっかり感じ取ってくれよ。
「んじゃあ……雲雀もいくか? 練習になるかはわからんが」
散々迷ってから、こくりと頷く。あとは若い二人でごゆっくりってなもんだ。
「よし、行こうか。それと、紡、あの……さ、あんまり根詰めなくていいからな。こっちはまだ余裕あるからさ、ゆっくりでいいから」
「冬に咲く花は芯が強い。寒さを乗り越えた果実は甘みが強い。蜜は透きとおっていて光り輝いている。その美しさに想いを馳せながら、僕は今日も言葉を連ねるのです」
両手を腰の後ろで組みつつ、ふぉふぉふぉと笑いながら僕はその場から退散した。




