第二幕ー⑥
「というわけで代打僕です。残念でした」
『一人で行けるもん』
「一度すっぽかしたんでしょ。ダメだよちゃんといかなきゃ」
不服そうだったが、僕が引かないことを理解するとのしのしと歩き出した。
かかりつけの病院は駅から川を下るように歩いて、15分ほどだろうか。この川沿いもほんの半月前までは、桜並木が見頃を迎え多くの人が遠方から足を伸ばしてきていたようだが、もうすっかり落ち着いて地域住民のよき散歩道となっている。
移動中の会話はほとんどない。彼女が声を出せたなら、くだらない話でもしながら、歩調がゆっくりになったりしながら、笑いながら歩いていけたんだろう。
原因とは向き合う必要がある。
今の雲雀の状態は正常とは言いがたく、病院にかかるほど深刻であり、心の病に他ならない。いくら普段の彼女が明るくとも、演技を通して発声することができても、問題から目を背けてはならない。
白い建物が僕たちを出迎える。
慣れた様子で受付し、ちょっとだけ待たされた後に、彼女は診察室に消えた。
一人待合室のベンチに取り残される。雑音がいやになってイヤホン装着し、思考を巡らす。
あの夜、彼女は言った。確かな原因が過去にあり、取り除くのも不可能だと。決定的瞬間があったのだろう。雲雀は自分の声にコンプレックスを抱えている。台詞での発声が可能なのも役に憑依することで、自分の声ではないと自分を騙しているに違いない。
雲雀は過去を悔いており、声を取り戻したいと願っている。同時に、諦めかけてもいるのは、やはり自己肯定感の低さからか。
瑠璃さんから聞いた昔話を元に、推測を重ねる。三人の関係性こそが鍵になる。……ああ、本当に自分のことが嫌いになりそうだ。
大切な人たちの墓を掘り返して、遺体から指輪を抜き取って、それを換金してしまうみたいに。当人たちからすれば触れられたくない過去を抉って、自分が望む未来に誘導しようと企んでいる、救いようのない自分。
僕がべたべたと汚れた手で触れるほど、彼らの輝かしい未来がくすんでいく。
関わるべきではない。べきではなかった。でももう遅かった、出会ってしまった。
取り戻そうとする彼女を、もがき続ける彼を、忘れることはできない。
思い至る。やはり瑠璃さんが突き放したときだろう。時期的にも一致する。どん底まで落ちた誠司先輩に、雲雀は寄り添うことができなかった。
痛い。脳と……胸のあたりが。考えるほど疼痛は増していく。自らの不在が、無力さが浮き彫りになるから、しんどい。
眉根を指で揉みながら最善を模索する。部外者で、ぽっと出で、狂言回しの僕にできること……。
いつからそこにいたのか。合図の一つもだせばいいのに。
「……お帰り」
『酷い顔してるよ』
「イケメンの代わりがこんなんですまないね」
彼女はむっとなって×棒を持ち出した。
『自虐 よくない』
お前に言われたくねえよ。
『普段はちゃんと無表情なのに』
『今はしんどそう』
手鏡をかざしてくる。目の下には隅、頬はこけて生気のない不機嫌面が映し出された。
おいおい、せっかくのお出かけなのにだっせえな。
「なんだこいつ。栄養足りてなさそう」
『これはニホンサイジョウのオス』
『放っておくと働き続ける習性があるため適度に休息をとらせるべき』
「ひば ひばば」
上記はニホンサイジョウのオス特有の鳴き声で、メスへアピールする際にオクターブが高くなります。
『ツムグ 疲れたのね?』
『お茶しよっか』
謎の生物の役を与えられた僕は、飼い主に付き従いカフェへ向かうことになった。
脚本会議で何度か使った、商店街の外れに佇む昔ながらの喫茶店。落ち着いていて、喧噪も遠く、コーヒーの味もいい。僕はこの店を気に入っていた。
入店時にぺこりと会釈をすると、初老のマスターは朗らかな笑みで出迎えてくれる。奥が空いてるとの合図。店内を眺めつつ席へ、常和の生徒はどうやらいない。
「僕はブレンド。彼女はダージリンをお願いします」
注文を済ませ、正面から雲雀を観察する。治療自体にそれほどの時間はかからなかった。医者は彼女にどんな言葉を授けたのだろう。特効薬とかあればいいのにな。
じぃーっと見ていたら目配せだけで『なに?』と問うてくる。
「進展はあったのかな~っと思って」
首を横に振る。
『いつもと一緒だよ』
『なにか変化は 心が大きく浮き沈みしていないか あとは 演劇のことかな』
『先生も困ってる 芝居中なら声は出るんだから』
「親しい人の前でだけ、とかの症例もあるって聞くけど」
『調べてくれたんだ?』
「そりゃあ……」
雲雀はやけに嬉しそうだった。そりゃあ気になるし調べるだろうよ、こっちは解決しようと躍起になってるんだから。
『うん 色んな症例があるって知ってる』
『でもやっぱり 聴覚ごと失っていたり 完全に喋れなくなってるわけじゃないから』
『理解も得づらいよ』
紅茶のポットが届き、中身をカップに注ぐ。赤茶けた水面をしばらく眺めていた。僕のコーヒーも届き、何も入れずに啜る。男はブラックでしょと中二のときにこじらせた自意識を未だに捨てられていない。
「まあ初見さんからは、キャラ作りかなって思われちゃうかもね」
『あなたがそうやって言うから 変な人扱いするから』
「ごめんごめん」
『おかげで 話しやすくなったけどさ 色んな人と』
以前と比べて、明らかにクラスメイトとの交流は増えている。周りが慣れてきたのもあるだろうけど。僕の功績とは言わないが、通訳として最低限の働きはできているようだ。
「僕も、演劇部に入ってから社交的になった気がするよ」
そもそも僕自身、他人と話し込む性格ではなかった。そんな時間があるなら一ページでも多く読み進めたかったし、妹さま、両親、帷ちゃんくらいだったな会話をするのは。やべえ全員身内じゃん。
『偶然だもんね あの日 屋上に来たの』
「出会うべくして出会ったのかもね、僕ら」
僕の固有スキル『ロマンチスト・エゴイスト』が発動した。何でもない日常を無理矢理運命に置き換えてしまう荒技だが、相手側からこちらへの好感度が一定以上得られていないと気色悪すぎて全てを喪う諸刃の剣だ。
『この出会いと導きに感謝だよ』
笑われたり否定されたりするどころかしみじみ噛みしめている様子なので、彼女も似たようなこと考えたりしてるのかも。
『あなたがいなかったら私は 今でも殻に閉じこもったままだったと思う』
「感謝なら声を取り戻したあとでたっぷり聞いてあげるよ」
軽い励ましのつもりだった。
雲雀は険しい表情で、もごもごと痰を飲み込むような仕草を見せる。唇の形を何度も変えながら、上半身全部を強張らせながら、僕を一点に見つめ、
「ごめ、むりしないでいいから」
「……っ、、っ」
しゃっくりに似た、音の伴わない息漏れを何度も繰り返す。
抱きしめたくなった。
やめてくれって気持ちと、がんばれって気持ちが同時にあった。
涙は見たくなかった。
ずっと笑っていてほしかった。
「雲雀、大丈夫だから。ほら、お茶飲んで」
『ごめんね うまくできなかった』
「リハビリならいくらでも付き合う。焦る必要はないよ」
『台詞ならパッて出てくるんだけどねえ』
『ありがとうも言えないんだ』
「だから、声を取り戻して、誠司先輩と付き合えたら聞くって言ってる」
決意を新たにする。絶対に雲雀をこのままにはしておけない。
物語をハッピーエンドで締めくくる。そのためならなんだってしてみせる。
『道のりは長い』
「言ってる場合かね。あと半年しかないのに」
『せーくん今日もピアノでしょ』
『私との用事より そっちなんだよ』
「先輩は、君のことを大切に思っている。それは間違いない」
じゃなきゃこんな話し相手くらいにしかならない付き添いなんて頼むものか。しかし雲雀はそれすらも信じられない。自分に価値をまったく見いだせないんだこの子は。
姉と比べられる場面では特に。
「結果を知るのが怖い気持ちはわかる。でも、それじゃあ原因を取り除くことなんてできないよ」
『まるで全部わかっちゃってるみたい』
「僕は脚本家だから。ストーリーを妄想するのが仕事なの」
推察したとおりなら、雲雀は自分の声で想いを伝え、はっきりと返事をもらうことでようやく前に進めるようになる。
「自分が代わりになる、って、どうしても言えなかったんじゃないかな」
時が止まったのかと思った。
アタリを引いてしまったのだと理解する。
僕が掘り起こそうとしているのは、もしかしたら彼女のトラウマそのもので。うかつに触れていいわけがない。
瑠璃さんと誠司先輩がどういう関係だったのかは聞いた。だがあくまであの人の視点で
あり、雲雀がどう感じたかは知らない。だから僕の妄想に他ならない。
カップに液体は残っていないのに、何度も口に運んでしまう。
ようやく次の言葉を綴った雲雀は、疲れ切っているように見えた。
『本当にわかっちゃうんだね』
「…………ずっと見てきたからさ」
『私はお姉ちゃんじゃない』
『だから心の穴を埋めることも 忘れさせてあげることも 身代わりになることも』
『どれもできなくて』
『私ってなんなんだろうって思えて』
『気づけば こんな有様でした』
そして彼女は、細々と、当時の気持ちを掘り起こしてみせる。
聞いているだけで、ぐさぐさとナイフで刺されるような痛みが襲う。
彼女自身が自分を認めること。もしくは、先輩が雲雀と向き合うことでしか雪解けはないのだ。
本音を言えば。
誰にも聞かせられないことを吐きだしていいなら。
僕こそが、彼女を救い出してあげたかった。
コンプレックスに塗れてて、自分なんかといつも卑下していて、だからこそ芝居を愛していて、声が素敵で、なんでもない仕草が愛らしい、今の彼女に恋をしたのだから。
このままの君でもいいのだと、肯定して、包み込んで、嫌な思い出から遠ざけて、幸せにしてあげられたら。
姉妹の間で揺れている優柔不断なやつなんかに、この子を渡したくない。
僕が、僕の方が、絶対この子を大事に――
なんて、相手の気持ちを無視した妄想は捨て置いて。
「だから、雲雀が心から伝えたい言葉を彼に渡すことで、解決するんだと思う」
僕がしたためたラブレターなんかじゃなく。
『励ましてもらってばっかり』
「仕事は最後までやりきらないとね」
『いつかちゃんと言うから』
『私の声で ありがとうって』
『ぜったい言うから』