結界の奥
森を覆う瘴気は、結界の入口でさらに濃く渦を巻いていた。
木々は黒く枯れ、根は脈打つように地を盛り上げ、闇の門のように仲間たちを拒んでいる。
背後に残ったオルドを振り返ると、老人は木剣を肩に担ぎ、静かに彼らを見つめていた。
「ここから先は、おまえら自身の足で進め」
その声には、叱咤よりも深い信頼が宿っていた。
リーナは胸に抱いた双剣を握り締める。
組み合わせれば弓となるその武器は、まだ馴染みきらず重く感じられる。
だが、不思議とその重みが心を支えていた。
ガルドが大剣を背負い直し、低く息を吐く。
「……行こう。立ち止まってる暇はない」
セリスは杖を胸元に抱き、目を伏せて囁いた。
「《星輪の杖》が震えてる……この先に、必ず何かが待ってる」
リュシエルは短剣を腰に差し直し、仲間たちを順に見渡す。
「全員で越える。誰一人、ここに置いてはいかない」
ハルトは長剣を抜き放ち、真っ直ぐに結界の闇を見据えた。
「ヴェルネがいるなら……なおさらだ。ここで引くわけにはいかない」
リーナも頷き、仲間の背に続いた。
瘴気の渦が割れ、冷たい風が頬を打つ。
――彼らは踏み出した。
黒き結界の奥、ヴェルネの待つ深淵へ。
足を踏み入れた瞬間、森の空気は一変した。
外の瘴気よりさらに濃く、重く、息を吸うたび肺を内側から焼かれるようだ。木々は形を失い、歪んだ影の柱となって天を突いている。葉はすでに朽ち果て、枝には逆さに吊られたような黒い繭がいくつも垂れ下がっていた。
「……なに、これ……」
セリスが眉を寄せ、杖を強く握る。
繭の中からかすかに呻き声が響き、誰かの手のような影が薄膜を叩いた。
ハルトは歯を食いしばり、長剣を握り直す。
「人間か……いや、もう違う……」
リーナは思わず目を逸らしそうになったが、胸の双剣を強く抱いて耐えた。
この場所が「秋の国フェリオーネ」の成れの果てだと、言葉にせずとも理解できたからだ。
ガルドが大剣を抜き、唸るように言った。
「ここは……生き物の棲み処じゃねぇな。瘴気そのものの巣窟だ」
足音を立てれば、地面が軋んだ。
苔に見えたものは蠢く黒い脈管で、踏みしめるたびに液体が滲み出す。冷たく湿った感触が靴底を通じて伝わり、全員の背筋を凍らせた。
その時だった。
――囁き声が響いた。
遠いのか近いのかも分からない。
女の声が、風のように、あるいは血の流れる音のように漂う。
「……来たのね。……わざわざ死にに……」
リュシエルの目が鋭く細められた。
「……ヴェルネ」
声の出処は掴めない。だが確かに彼女の気配が結界全体を満たしていた。
その声に応じるかのように、繭のひとつが弾けた。
黒い液体を撒き散らしながら、そこから落ちてきたのは――かつて人であったもの。
手足は瘴気に爛れ、眼は虚ろに赤く染まっている。だがなおも呻き、四肢を地面に突き立てて這い寄ってきた。
「人を……魔に変えてるのか……!」
ハルトが吐き捨てるように言う。
オルドが言っていた言葉が脳裏に過ぎった。
瘴気は獣だけでなく、人も国も呑み込む――。
ヴェルネの笑い声が闇を這う。
「生かすも殺すも、ただ季節を葬るため……。抗う者は皆、秋の糧となるのよ」
その瞬間、結界全体が震えた。
黒い繭が次々と割れ、呻き声が重なり合う。
数十もの影が、赤黒い瞳を光らせながら仲間たちを取り囲んだ。
リーナは弓を手に取り、唇を噛む。
「……これが、あんたのやり方か」
セリスは杖を掲げ、震えを押し殺す。
「みんな……気を抜かないで! 一つでも見誤れば、私たちも同じになる!」
ハルトは長剣を前に構えた。
ガルドは大剣を肩に担ぎ、吼えるように息を吐く。
リュシエルの瞳は闇を射抜くように光を帯びていた。
――戦いは、すでに始まっていた。