瘴気の魔獣
森を覆う空気は重かった。
木々の間を漂う黒い靄は、ただの霧ではない。鼻をつくような鉄錆の匂いが混じり、肌を刺すように冷たい。
仲間たちは互いに顔を見合わせ、無言で頷き合った。
「訓練はここまでだ」
オルドが低く告げる。
「今からは生きるか死ぬかの場だ。……怯んだ奴から死ぬぞ」
その言葉と同時に、茂みの奥から地響きが迫る。
現れたのは狼に似た獣だった。だが体は常の倍近く、毛並みは瘴気に焼かれたように黒ずみ、眼は血のように赤く濁っている。
口から吐き出す息までもが黒い靄となって揺らめいた。
「っ……大きい……」
リーナが思わず息を呑み、弓を構える。
オルドは笑いもせずに言い放った。
「――これを越えられなきゃ、この先はねぇ!」
咆哮。
獣は一直線に飛びかかり、地面を抉る。
矢が放たれた。リーナの一撃が正確に獣の目を狙う。
だが瘴気の膜に弾かれ、矢は軌道を逸れた。
「効かない……!?」
獣は勢いを殺さず、ガルドの正面に迫る。
大剣が振り抜かれ、獣の顎を叩きつけた。
衝撃で大地が震え、巨体がわずかによろめく。だが次の瞬間、傷口から黒い瘴気が溢れ、塞がっていく。
「回復するのか……!」
ガルドの額に汗が滲む。
その横からハルトが走り込み、長剣で獣の脚を狙った。
鋭い斬撃が血を散らす。しかし巨体は止まらず、爪がハルトに振り下ろされる。
「危ない!」
リュシエルが短剣で割って入り、刃を閃かせる。
爪を受け流しながら獣の目元を切り裂き、黒い血が飛んだ。
それでも獣は止まらない。
咆哮と共に瘴気を吐き散らし、仲間たちの動きを鈍らせる。
膝が重く、腕が痺れる。
誰もが動きを止めかけた、その時――。
「立って! まだ倒れてないでしょ!」
セリスの声が響いた。
震える喉から絞り出す詠唱が、仲間たちの体を突き動かす。
重かった足に再び力が戻り、視界が澄んでいく。
「……助かった」
ハルトが短く息を吐き、再び長剣を構えた。
リーナが矢を連射し、獣の動きを牽制する。
その隙にガルドが大剣で正面から突っ込み、巨体を押し止める。
「うおおおっ!」
土煙を上げながら、大剣と獣の力が拮抗する。
「今だ、ハルト!」
ガルドの叫びに応え、ハルトが横から斬り込む。
脚を切り裂き、巨体がぐらつく。
リュシエルは一瞬の隙を突き、瘴気の渦が渦巻く胸元へ短剣を突き込んだ。
黒い靄が弾け、獣が絶叫する。
最後の一矢をリーナが放つ。矢は獣の眼を正確に射抜き、赤黒い光が砕け散った。
咆哮。
獣は全身を震わせ、やがて瘴気を噴き上げながら地に崩れ落ちた。
森に静寂が戻る。
全員が荒い息をつき、互いを見渡す。
誰も無事ではなかった。服は裂け、血も滲んでいる。
それでも――誰も倒れてはいない。
オルドは黙って彼らを見つめていたが、やがて低く笑った。
「……悪くねぇ。ようやく“隊”の形を見せたな」
だがすぐに声を荒げる。
「忘れるな! これはただの始まりにすぎねぇ! 瘴気は獣だけじゃねぇ、人も国も呑み込む! おまえらの剣と声が試されるのは、これからだ!」
誰も反論はしなかった。
ただ、互いの存在を確かめるように視線を交わす。
全員が同じことを思っていた。
――ここからが本当の戦いだ。