道中の枯れ結界
森の奥へと進むにつれ、空気がわずかに刺すように変わっていった。
冷たいのではない。むしろ、ぬるい。
湿り気も風もないのに――呼吸するたび、喉の奥がきしむような乾燥が張りつく。
「……この感じ、何かおかしい」
リュシエルが眉根を寄せ、風を感じ取るように目を閉じた。
その直後。
先頭を走っていた狩人の一人が、突然ひざをついた。
「おい、どうした!」
仲間のエルフが駆け寄るが――その足もすぐに止まる。
しゃがみ込んだ狩人の肌が、瞬く間に枯れ葉のように乾き、色を失っていく。
「……っ、毒か!?」
セリスが杖を構えかけたが、狩人の一人が鋭く制した。
「外の者は手を出すな!」
だが――。
リーナは何の躊躇もなく走り出ていた。
「誰が“外の者”よ」
腰の小瓶から透明な液体を取り出し、倒れたエルフの口元に数滴垂らす。
さらに、弓の弦を指で弾き――澄んだ音を鳴らした。
音色は微かに共鳴し、狩人の胸の上で淡い波紋のように広がっていく。
ガルドが目を細める。
「……あれは?」
「毒抜きの響術。森の狩人が使う応急の技よ」
リュシエルが小さく呟くと、セリスも頷いた。
「歌でも祈りでもない……狩りのための“風の音”」
やがて――倒れていた狩人の肌に、ゆっくりと色が戻る。
咳をひとつして、彼は目を開けた。
「おまえ……なぜ、その技を……」
「昔、森暮らしのじいさんに叩き込まれたのよ。『エルフの里で生きるつもりなら、森を殺す毒の匂いくらい見分けろ』ってね」
リーナは立ち上がり、弓を握り直す。
「見ての通り、私は“混じりもの”だけど――森の毒だけは、誰よりも知ってるわ」
沈黙。
狩人たちは互いに視線を交わし――やがて、一人が口を開く。
「……敵意は、ないと見ていいのだな」
ハルトが短く頷いた。
「最初からそのつもりだ」
リーナは鼻で笑い、前を向く。
「さ、急ぎましょう。あれはただの“瘴気”じゃない。もっと奥に、源があるはず」
狩人たちは数瞬黙ったあと、小さく息をついた。
「――案内を続ける。だが警戒は解かぬ。構わぬな?」
「望むところよ」
そう言ってリーナが歩き出す背中を、狩人たちはもう「混じりもの」とは呼ばなかった。
狩人が息を取り戻したことで、緊張はわずかに解けた――ように見えた。
だが、歩き出して数分も経たぬうちにそれは幻想だと知る。
森の奥は、静かすぎた。
鳥の声も、虫の羽音も、木の軋む音すらもない。
ただ、足元の枯葉が砕ける乾いた音だけが続いていた。
「……妙だな。森というのは、常に何かしらの“音”があるものじゃないのか」
ハルトの呟きに、先頭の狩人が短く頷く。
「あるはずだ。だが――ここ数年で急激に、森の声が途絶えた」
「黒羽のせい?」
リーナが問うと、狩人のひとりがわずかに眉を跳ねさせた。
「黒羽……その名を知っているのか」
「ええ。でも、犯人扱いするつもりはないわ。森を殺してる奴は一人じゃないはず」
淡々と返すと、狩人たちは再び黙り込む。
だがその空気は、先ほどとは違っていた。
完全な拒絶ではない。探っている――そんな沈黙。
やがて木々の間に、奇妙な影が見え始めた。
――太い枝を編んで作られた通路。
――木の幹に吊られた住居。
――枯葉色の膜が、村全体を覆うように漂っている。
「……あれが、フェリオーネの集落」
セリスが呟く声は、少しだけ息を呑んでいた。
村へ近づくと、すぐに別の狩人たちが集まってくる。
視線は鋭く、言葉はない。しかし――その中の誰もが、リーナを見る目だけは明確だった。
「……あいつ、やっぱり“混じりもの”か」
「王の血って言っても、森を選ばなかった娘だろう」
ハルトが一歩踏み出しかける――が、その肩に静かな手が置かれた。
さきほど倒れていた狩人だった。
「やめろ。少なくとも、こいつは命を救ってくれた」
エルフたちがざわめく。
「……おまえ、毒にやられてたのか?」
「見苦しいところを見せたな。でも、おかげで目が覚めた。血がどうだの偉いだの――森が死んでるのに、そんなことにかまけてる暇はない」
静かな言葉に、森の空気がわずかに揺れた。
リーナは何も言わず、その男と視線だけを交わす。
やがて狩人のリーダーが振り返り、蒼天の刃の一行へ短く告げる。
「このまま村へ通す。だが――歓迎ではない。覚悟しておけ」
リーナは小さく笑い、背筋を伸ばした。
「歓迎されに来たんじゃないもの。私はただ――この森が、もう一度“息をする音”を聞きたいだけ」
その言葉に応えるように、遠くの枝がわずかに揺れた。
それが木々の気まぐれか、誰かの返事か――この時はまだ、わからない。