炎翔
碧い炎と紅蓮の氷が交錯し、峡谷を覆う空気は息を吸うだけで肺が裂けるように張り詰めていた。
ガルドは汗と霜に濡れた大剣を握り直し、何度目か分からぬ衝撃を受け止める。
刃と刃がぶつかるたび、谷底に熱と冷気が渦巻き、岩壁に鋭い亀裂が走った。
「はあっ……!」
腕に重く響く衝撃。春の国で負った傷が再び疼き、握る手がわずかに震える。
その隙を狙うかのように、バルドスの大剣が弧を描いた。
碧い炎と紅蓮の氷が一体となった剛剣の一撃が、空気そのものを裂いて迫る。
ハルトが長剣を構えて援護に入ろうとするが、氷炎の余波だけで足を踏み出すことすら難しい。
リュシエルが張る風障壁は軋み、リーナの矢も熱気と冷気に揺らいで弾かれた。
「ガルド、無茶はしないで!」
セリスが星輪の杖を掲げ、仲間を守る光を必死に維持する。
ガルドは肩で息をしながら、かつての戦友の瞳をまっすぐ見据えた。
「……バルドス、なぜ氷冥王に――」
問いかけの声は、轟音と共にかき消された。
⸻
その時、峡谷の奥から澄んだ金属音が響き渡った。
黒羽たちも一瞬動きを止める。
風に混じり、凛とした声が届いた。
「ガルド!」
岩壁の影から、一人の男が現れる。
帝国王家の紋章を胸に刻む、剣聖アレウス。
彼が両腕で抱えていたのは、古き時代の鍛冶師が遺した宝具の大剣――炎翔。
白銀の刀身は淡い赤光を帯び、谷の冷気をものともせず微かに震えている。
「これを……お前に届けに来た。
帝国に伝わる古の大剣――炎翔。
ガルド、お前ならこの剣を目覚めさせられるはずだ」
アレウスはその大剣をガルドへ差し出した。
ガルドは一瞬だけ目を閉じ、深く息を吸う。
手に取った瞬間、刀身から心臓の鼓動に呼応するかのような熱が伝わった。
「……これが、帝国の――」
言葉を最後まで紡ぐより早く、炎翔が鮮烈な紅蓮を迸らせた。
紅蓮の炎はただの熱ではない。
太陽の精霊の祝福が脈打つ、清らかで力強い太陽の火。
その輝きは、谷を覆う氷と碧い炎を同時に押し返していく。
⸻
バルドスが目を細め、低く唸った。
「……太陽の剣か」
ガルドは炎翔を両手で構え、短く息を吐く。
傷の痛みは、もはや意識の彼方に消えていた。
「これで終わらせる――!」
紅蓮の炎が刃を包み、谷全体が一瞬昼のように明るくなる。
炎翔が振り抜かれた瞬間、太陽のごとき光が峡谷を奔った。
碧い炎と紅蓮の氷が、白く燃える紅蓮に呑み込まれていく。
バルドスの剛剣でさえ、紅蓮の太陽の力には抗えず、ついに砕け散った。
「ぐ……ああっ……!」
バルドスの体が大きくのけぞり、胸を深く切り裂かれた傷から鮮血が迸る。
凍てつく炎が霧散し、峡谷に静寂が戻った。
ガルドは炎翔を下ろし、震える息を吐いた。
バルドスは膝をつき、かすかにガルドを見上げる。
「……やはり……お前は……」
その言葉は最後まで届かぬまま、血に濡れた声が途切れた。
⸻
だが勝利の刹那、峡谷に低い地鳴りが走った。
白炎と氷炎の激突がもたらした衝撃が、岩盤に深い亀裂を刻んでいた。
「……崩れる!」
リュシエルが叫ぶ。
轟音とともに、峡谷の壁が大きく崩れ始める。
巨大な岩塊が雪崩れ落ち、白い粉塵が視界を覆った。
「バルドス!」
ガルドが手を伸ばす。
だが次の瞬間、崩れ落ちる岩塊がバルドスの姿を覆い隠した。
谷底から吹き上がる粉塵に、血の跡も、碧炎の残滓も見当たらない。
ハルトがガルドの肩に手を置き、低く声をかける。
「……間に合わない。下がろう」
粉塵がゆっくりと晴れていく。
そこにバルドスの姿は――もうなかった。
ガルドはしばし岩壁を見つめ、炎翔を強く握りしめる。
「……あいつは、まだ」
峡谷の奥から吹き上がる冷たい風が、戦いの余韻を運んだ。
瀕死の傷を負ったバルドスの行方を、誰も知る者はいなかった。