峡谷を越えて
雪原の先に、岩壁が切り立つ峡谷が口を開けていた。
濃い霧がゆらめき、谷底からは溶岩が遠く赤く瞬くのが見える。
ここから先はソルディア領――紅蓮の峡谷都市イグナリアへ続く唯一の道だ。
ハルトたちは岩肌に沿った細い山道を進んでいた。
足元の雪はやがて消え、冷たい風に混じって、かすかな熱が感じられる。
冬の大陸では珍しい、ぬるい空気だった。
「温度が上がってきたわね……」
リュシエルが低く呟き、風を探るように目を細める。
「ソルディアの熱気が、もうここまで届いているのかも」
ガルドが肩に担いだ大剣を持ち直した。
「この先は険しい道だ。足元を確かめろよ」
リーナは弓を背に、険しい岩肌を見上げる。
「……風の音が変だわ。何かが潜んでいる」
セリスが星輪の杖を胸に抱き、眉を寄せた。
「黒羽が仕掛けを……?」
⸻
谷の中程まで来た時だった。
霧の奥から、微かな金属音が響いた。
次の瞬間、頭上の岩壁がきしみ、鋭い閃光が落ちる。
矢――いや、細く磨かれた鋼の杭が、音もなく飛来した。
「伏せろ!」
ハルトが長剣を振るい、飛び来る杭を弾いた。
金属同士が火花を散らし、鋭い音が峡谷に反響する。
ガルドも即座に大剣を構え、迫る影へ踏み込む。
霧の向こうから姿を現したのは、黒い外套に身を包んだ三つの影だった。
黒羽――氷冥王の配下。
「やはり来たか……」
ハルトが低く呟き、長剣を構え直した。
⸻
三人の黒羽は言葉を発さぬまま、同時に刃を抜いた。
ひとりは双剣を操り、霧を切るように疾走する。
もうひとりは細身の槍を回し、音もなく間合いを詰める。
最後のひとりは背後に残り、指先から淡い氷の刃を生み出した。
リーナが即座に矢を放つ。
風を裂く一矢が双剣の男を狙うが、黒羽は刃で矢を弾き、霧に紛れて消えた。
リュシエルが両腕を広げ、風の障壁を展開する。
槍が障壁に当たり、火花を散らした。
だが氷の刃が上空から降り注ぎ、障壁を削るように砕けていく。
「しつこい……!」
ガルドが大剣を振り抜き、双剣の影をまとめて弾き飛ばした。
石床が鈍く響き、霧が一気に吹き飛ぶ。
⸻
セリスは杖を掲げ、静かに詠唱を紡いだ。
「――《星環閃》!」
杖先の輪が淡く輝き、幾重もの光輪が峡谷を駆け抜ける。
その光が氷の刃を飲み込み、残像を残して霧を裂いた。
光に照らされ、三人の黒羽の動きが一瞬鈍る。
ハルトがその隙を逃さず、長剣を振るった。
白銀の弧が槍を弾き、黒羽のひとりが呻き声とともに岩壁へ吹き飛ぶ。
残る二人は互いに合図を交わし、霧に紛れて後退した。
鋭い風が吹き抜けたかと思うと、黒い羽根だけを残し、その姿は消えた。
⸻
しばし、峡谷には風の唸りだけが残った。
リーナが肩で息をつきながら矢を収める。
「……見事に逃げられたわね」
ガルドは大剣を背に収め、低く唸る。
「動きに迷いがない。明らかに鍛えられた刺客だ」
セリスは杖を抱き、静かに視線を落とした。
「黒羽……ソルディアに何を仕掛けるつもりなの」
リュシエルが風を鎮め、険しい声を落とす。
「この先の道も安全とは限らない。帝都まで気を抜けないわ」
ハルトは長剣を握り直し、仲間を見渡した。
「ここからが本当の試練だ。……ソルディアで黒羽を追い詰める」
⸻
谷を抜けた先、遠くに赤黒い山脈が影を落としている。
大地の奥で鳴る低い地鳴りが、彼らの胸に静かに響いた。
氷冥王の影を追う旅は、いよいよソルディア帝国――炎と溶岩の地へと差しかかろうとしていた。