ありがとう
黒霧が天井まで立ち昇り、雷鳴のような轟きが大聖堂を揺らした。
リュナの両手から奔る闇は、刃の嵐となって四方へ弾ける。
白亜の柱が軋み、砕けた破片が床に雨のように降り注いだ。
「押し返せ!」
ハルトが長剣を掲げる。白光を帯びた刃が弧を描き、襲い来る黒刃を次々と弾き飛ばした。
ガルドは大剣を肩に担ぎ、獣のような咆哮とともに床を蹴る。鋼が雷鳴のように唸り、闇の奔流を切り裂いた。
リュシエルは風を操り、仲間を包む旋風を立てる。
その風がリーナの放つ矢を運び、矢は疾風のように闇の核へ突き刺さった。
しかしリュナは微動だにせず、黒い外套を翻した。
「その程度で……私の闇は揺らがない」
漆黒の瞳が一瞬、苦しげに揺れる。
セリスはその揺らぎを逃さず、胸に両手を重ねた。
「リュナ、あなたの心にまだ光が残っている――!」
次の瞬間、リュナの周囲で黒霧が渦を巻き、鋭い叫びが広間を貫いた。
闇と光が激しくぶつかり合い、眩い閃光が視界を覆う。
その光が収まった時、黒霧は嘘のように消えていた。
中央に佇むリュナの外套が静かに揺れる。
その瞳からは深い黒が薄れ、わずかな月色が滲みはじめていた。
「……セリス……私……」
掠れた声が、闇に沈んだ広間へと落ちる。
セリスは静かに歩み寄り、差し伸べた手をそっと握った。
「もう一人で苦しまなくていい。光は、まだあなたを拒んでいない」
リュナは震える手を重ね、微かに微笑んだ。
その瞬間――。
足元を這うように冷たい風が吹き抜けた。
広間の空気が一気に凍りつき、床石に白い霜が走る。
ステンドグラスが不気味な音を立て、氷の結晶がぱらぱらと降り始めた。
「……この冷気……!」
リュシエルが顔を上げ、蒼い瞳を見開く。
祭壇の奥――月光に照らされた大理石が鈍く輝き、瞬く間に厚い氷へと覆われていく。
やがて氷は隆起し、白い蔦のように柱を這い上がった。
その中心から、漆黒の外套を纏った高大な影がゆっくりと姿を現した。
長く垂れた外套が氷の霧を纏い、瞳は極光を閉じ込めたかのように淡く蒼く光る。
一歩進むたび、石床は凍てつき、亀裂が鋭い音を立てて広がった。
ガルドが低く唸る。
「……氷冥王……!」
名を告げるや否や、空気はさらに張り詰めた。
氷冥王は冷然と顔を上げ、淡い声を放つ。
「闇が解かれたとて、秩序は崩れぬ。終わりは、ここからだ」
リュナが振り返り、蒼ざめた顔で一歩下がる。
「やめて……私はもう……」
しかし氷冥王はその懇願を無視し、掌に蒼白の槍を形づくった。
月光を浴びて煌めく氷槍が、空気を裂きながら一閃する。
「――リュナ!」
セリスの叫びが凍てついた大広間に反響した。
氷槍がリュナの胸を貫いた。
白い息をひとつ吐き、リュナは静かに目を閉じる。
その唇がかすかに動く――「ありがとう」と、再び微笑みながら。
氷冥王はゆっくりと視線をハルトへと移した。
淡い蒼光を宿した瞳が、鋭い刃のように心を射抜く。
「……いずれ思い出すだろう、ハルト。
おまえが本当に何者で、何を背負って生まれたのかを――」
その言葉を残し、氷冥王は足元の氷とともに霧の中へ消え去った。
残されたのは、霜に覆われた祭壇と、セリスの震える声だけだった。
「……リュナ……!」
凍てついた空気が、大聖堂を沈黙の牢獄へと変えていく。
勝利の余韻を断ち切るように、夜空から吹き込む風が冷たく鳴った。
――闇の終焉の先に、新たな脅威が目を覚ましたことを、誰もが理解していた