白花を越えて
春の国での戦いを終え、リュシエルは母との記憶が残る白花の草原を訪れました。
その想いを胸に刻んだ一行が、次に向かう先は東――ルクシード聖国。
大霊灯の光が、彼らの旅立ちを静かに見守ります。
白花の草原を後にしたハルトとリュシエルは、丘を下りながら王都への道をたどっていた。
午後の光は柔らかく、遠くに霞む城壁が淡い陽炎の中に揺れている。
リュシエルは胸元の短剣にそっと触れた。
母の形見――女神の光を宿す刃。
陽を受けた銀の輝きが、風に運ばれるようにわずかに揺らめく。
「……ありがとう、ハルト」
彼女の声は風に溶けるほど静かだった。
「母を失った夜のこと、ずっと胸の奥で凍ったままだった。
けれど……あの草原で、少しだけ前に進めた気がするの」
ハルトはうなずいた。
白花の草原で見たあの瞳の強さ――それは悲しみではなく、光を選ぶ決意だった。
そのとき、丘の向こうから一陣の風が吹き抜けた。
リュシエルの髪が舞い、短剣がふいに淡い光を帯びる。
「……?」
光の中に、ひとりの女性の影が立っていた。
白い衣をまとい、穏やかな微笑を浮かべるその姿――
それは確かに、リュシエルの母だった。
「お母……さん……?」
リュシエルが手を伸ばす。
だが指先が触れるより早く、幻は風に溶けて消えた。
残されたのは、花びらのように舞い散る光の粒。
ハルトの視界にも、同時に異なる幻が映る。
――黒羽の紋章。
炎と氷の中で倒れ伏す仲間たち。
そして、その中央に立つ“誰か”の背中。
青い炎に包まれた影が、ゆっくりとこちらへ振り返る。
「――っ!」
視界が弾け、光が途切れる。
次の瞬間、ハルトは自分の呼吸の荒さに気づいた。
冷たい汗が首筋を伝い落ちる。
「どうしたの?」
リュシエルの声が現実へと引き戻す。
「……いや。ほんの一瞬、何かを見た気がした。黒羽の……影を。」
彼の言葉に、リュシエルは短剣を握りしめた。
再び沈黙の風が二人の間を通り抜けていく。
丘を下りきると、先に見覚えのある商人が馬車を止めていた。
「そろそろ帰る頃だと思ってね。帰りも乗っていくといい」
男の言葉に礼を述べ、二人は荷台に乗り込んだ。
車輪が小さくきしむ音を立てながら、王都へと向かう。
――
夕暮れ。王都の門をくぐると、街は茜色の灯に包まれていた。
露店の呼び声が響き、遠くで鐘が時を告げる。
ギルドの医務室では、ガルドが窓辺に腰を下ろし、沈む陽を見つめていた。
その傍らでリーナが薬湯を運び、静かな空気が流れている。
「帰ったか」
ガルドが短く言った。
「白花の草原は、どうだった。」
リュシエルは小さく微笑む。
「行ってよかった。あの場所で、母の想いと向き合えた気がする。」
ガルドは深く頷き、視線を窓の外へ向けた。
夕空を渡る白い鳥の群れが、城壁の向こうへ消えていく。
そのとき、街の中心にそびえる大霊灯が淡く光を放った。
まるで、夜明け前の星のように。
ハルトはその光を見上げ、胸の奥で小さく息をついた。
――これが、旅の第二章の始まり。
ルクシード聖国。
女神の光が揺らぎ、闇が忍び寄る地。
そして、ハルトの失われた記憶が再び呼び覚まされる場所。
彼は知らぬままに、その運命の扉へと足を踏み入れようとしていた。
リュシエルの過去編がここで一区切りとなりました。
母の形見である短剣を胸に、彼女は次の試練へと歩みを進めます。
物語は次章・光の国編へ。