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白花の草原

はじめまして、作者のハチコウです。

この物語は、記憶を失った少年ハルトが、四季と光が奪われた世界で

女神の加護により春の陽が息づく白花の草原から歩み始める異世界冒険ファンタジーです。

気軽に読んでいただけたら嬉しいです。

風が吹いた。

どこまでも白い花が、春の雪のように揺れる。


目を開いた瞬間、俺は見知らぬ大地に立っていた。


頬を撫でる風は冷たい。だが、不思議とやさしい。

胸の奥が小さく震え、思考に薄い靄がかかっていることに気づく。


――名前以外の、自分に関する記憶がない。


どこから来たのか。

何をしていたのか。

家族や過去、そして自分がどんな人間だったのか――

思い出せるものはひとつもない。


ただ、一つだけ。


『……ハルト』


遠くで風に溶けるように、母の声のような響きが届いた。

優しく包み込むその響きだけが、胸の奥にあたたかく残っている。


――それが、俺に残された唯一の手がかりだった。


白い花弁が風に舞う。

その中から、ひとりの銀紫髪の少女が姿を現した。


淡く光を受けて揺れる髪は、夜明け前の空を想わせる紫。

透き通る蒼の瞳には、春の空が映っていた。


「……あなた、誰?」


少女は警戒を隠さず、短剣を構える。

刃先が光を弾き、花弁がきらりと輝いた。


「お、落ち着いてくれ!」


俺は両手を上げ、必死に言葉を探した。


「俺は……その……」


言いかけて、言葉が途切れる。

ハルトという名前以外、自分を語る何ひとつも浮かばない。


「……自分のことが、わからないんだ。何も覚えていない。気づいたらここに立っていて。」


声はかすれ、花のざわめきに溶けていった。


少女はしばらく黙ったまま、俺を見つめた。

風が二人の間を通り抜け、白い花弁がふわりと舞う。


やがて短剣を下ろし、小さく息を吐いた。


「あなた、記憶がないの?」


「ハルト……頭の中で誰が俺をそう呼んでいたんだ。きっとそれが俺の名前だと思う。それしか覚えていないんだ。」


過去も、自分がどんな人間だったかもわからない。

ただ、この蒼い瞳に映る光景が――これから俺を導くものだと、不思議とそう感じた。


少女は短剣を収め、白花の海の向こう、淡く霞む地平を見つめる。


「この世界は、長い冬に覆われている。

外の大地は灰色の薄明に沈み、太陽を知らぬ空がただ淡く世界を包んでいる。

けれどここだけは、女神ルミナの加護によって春の陽が息づいているの。」


俺は白く霞む遠い地平に目を向け、ふと彼女の装いに疑問を覚えた。

夕暮れの風は冷たいのに、少女は薄手の旅装束のまま平然としている。


「……そんな軽装で寒くないのか?」


少女は柔らかく首を振る。


「女神の加護があるから、寒さにはあまり影響されないの。

だからこのくらいの装いで十分なのよ。」


「名前を覚えていることには、きっと意味がある。

女神があなたを導いてくれるはず。」


少女はふと俺の身なりに目を向け、首をかしげた。


「……あなた、荷物は?」


思わず自分の体を見回し、苦笑がこぼれる。


「何も……ないみたいだ。財布も、食料も、何かを入れる袋さえ。」


少女は驚いたように眉を上げ、俺の腰回りをさっと見やった。


「……アイテムボックスの刻印もないのね。」


「アイテムボックス……?」


「普通は誰もが生まれつき、女神から授かる小さな異空間を持っているの。

荷物をそこにしまえば重さも感じずに旅ができる。

それが……あなたにはないなんて。」


「そんな便利なものが……」


「ええ。旅人にとっては命綱のようなものよ。」


少女は小さく息を吐き、しばし考え込んだ。


「――仕方ないわ。

記憶をなくして行くあてもないでしょうし。

近くの村まで案内してあげる。

まずはそこで一息ついて、街へ行く手立てを整えるといいわ。

街に行けば、あなたの記憶の手掛かりが見つかるかもしれない。」


「それは……助かる。」


「小さいけれど、旅人や商人が立ち寄る集落よ。

宿もあるし、街へ向かう馬車も定期的に出ているわ。」


白花の海を抜ける細い道を並んで進む二人の影が、夕暮れにゆっくりと長く伸びていった。


やがて空が茜から群青に変わる頃、二人は森の入口近くの小高い丘にたどり着いた。


少女は周囲を一瞥し、焚き火に適した平らな地面を見つけると振り返った。


「ここで夜明けまで休みましょう。

夜は魔物の動きが活発になるから、森の中を進むのは危険よ。」


「ま、魔物……?」


思わず声を詰まらせた。

背筋にひやりと冷たいものが走る。


少女は空間にそっと手を差し伸べた。

淡い光が揺らめき、そこから小さな香袋がふわりと現れる。


「それはなんだ?」


「〈護り香〉。精霊術をこめた薬草を焚くと、その煙で魔物がめったに近寄らないの。」


焚き火をくべると、かすかな香りが夜風に溶けていく。


「野営をするなら必ず持っておくべきものの一つよ。」


二人は焚き火のそばに腰を下ろした。

少女がアイテムボックスから取り出した干し肉と黒パンを、火で軽く炙る。


肉の脂がわずかに滲み、ぱちぱちと小さな音を立てて弾けた。

香ばしい匂いが夜風に混じり、空腹を刺激する。


思わず喉を鳴らすと、少女は微笑んだ。


「お腹がすいてるでしょう。こんなものしかないけれど、どうぞ。」


差し出された食事を受け取り、口に運ぶ。

噛むほどにじゅわりと広がる塩気と燻された香りが、体の芯まで温めていくようだった。


しばし無言のまま、二人はその温もりを味わった。


やがて少女が毛布を広げ、寝支度をはじめる。


「そろそろ休みましょう。明日は日の出とともに出発するわ。」


「……ああ。」


俺も毛布に身を沈める。


「おやすみ。」


少女の声が、夜気の中に柔らかく溶けた。


「おやすみ。」


護り香の煙が夜風に揺れ、女神の光の粒がかすかに瞬いていた。

それは失われた太陽や月の代わりに、世界へ微かな希望を伝えるようだった。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


記憶を失ったハルトが目覚めた白花の草原。

そこで出会った銀紫髪の少女との一夜が、

彼のこれからの旅の始まりとなりました。


次回は、二人が草原を抜けて初めて訪れる村へ。

失われた記憶の手がかりが、そこにあるのか。

新たな物語が静かに動き出します。


この先の展開が気になった方は、ブックマークや感想で応援していただけると嬉しいです。

これから始まる二人の行く末を、どうぞ見守ってください。


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