第6話「バルバロア」
ハロワン第6話「バルバロア」
朝霧と名乗る男が語ったクロノスの実態に、陸は、一刻も早く、兄を取り戻さなければと焦燥を募らせる。
クロノスに顔が利くという”朝霧のボス”に遭わせてもらえることになるが――
もう、引き返せないところまで来てしまったのでは……そんな不安が、陸の中では日に日に大きくなっていた。
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残酷な描写はありません。
独自用語や舞台設定が多いので、リンク先に解説をまとめています!
物語の進行に併せて随時更新してまいります。
宜しければご覧くださいませ。
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鳥の囀りと、暖かな陽射しに包まれながら、陸はゆっくりと目を開けた。
視界に映ったのは、塗装の剥げたパイプが剥き出しの天井。
どこかの廃墟の一室――そんな無機質な空間が広がっていて、意識がはっきりしてくるにつれて、徐々に自分がどこにいるのか思い出してきた。
「起きたか、若いの」
聞き覚えのある低い声が陸に話しかける。
視線を巡らせると、向かい側の床に腰を下ろした男がいた。四十代くらいの渋い顔つきの男は、陸にはお構いなしにタバコをふかしていた。
陸は直近の断片的な記憶をつなぎ合わせ、これが誰なのか思い出す。
(……酒場で、助けてくれた人だ)
陸は、生き延びることができたのだと安堵と共にゆっくりと息をついた。
男はタバコを持った手の親指で、自分の左肩をトントンと指差しながら言う。
「傷口が完全に塞がってねぇからな、あんま動かすなよ」
言われてふと自分の左肩に視線を落とすと痛々しい傷跡が露わになっていた。見るだけでズキズキとした痛みを感じるような見た目だ。
「……ありがとうございます。色々と」
重たい体を起こし、陸はできるだけ丁寧な姿勢を取る。怪我のせいで自由な体勢はとれないが、せめて礼だけは尽くしたいという思いがあった。
「自分、篁といいます。……お名前、聞いてもいいですか?」
「朝霧。すまんな、ここじゃ名乗る習慣がねぇんだ」
悪びれる様子もなく、朝霧は煙草をくゆらせながらそう言った。陸は「いえ」と小さく会釈する。
朝霧は改めて陸の傷に目をやり、感心したようにうなる。
「普通ならもうとっくにダメになってる。お前、かなり丈夫だな」
「……はは、どうも……」
陸は試しに怪我を負った方の手をグーパーしてみると感覚があり、指もちゃんと動いた。どうやら神経は無事らしい。
「若いのは、海を見に来たのか?」
そう問いかけながら、朝霧が左手に挟んでペラペラといじっていたのは、兄・海からの最後の手紙だった。
「……それ」
気づいた陸が反応すると、朝霧はそれを無造作に陸の枕元へ置いた。
「随分とこれに執着があるみてぇだったからな」
そのまま近くの灰皿にタバコを押し付けパチパチと音を立てる。
旅の本当の目的――兄の行方を追っていること――を、初対面の相手に語るには、まだためらいがあった。たとえ、それが命の恩人であってもだ。
しかし不思議なことに、この男には話してもいいかもしれないと、そう思わせる何かがあった。
朝霧の目の奥には、昨夜の酒場で人々が陸に向けてきたような詮索や猜疑心はない。むしろ、何を言っても興味を持たれない気すらする、心底どうでもいいという無関心を貫いたような虚ろな目線。
だがその無関心さが、今の陸にはどこか心地よくもあり、信頼しきっていた訳ではないが、陸は会話を試みる事にした。
「……これを、知ってるんですか?」
ようやく声を絞り出すと、朝霧は少しだけ視線をこちらにやった。
「この辺の連中にとっちゃ、別に珍しくもなんともねぇもんだよ」
肩の傷を少し覗き込み、状態を確認する。
「……おう。上出来上出来」
その一言から、思っていた以上に順調に回復していることが伝わってくる。
「そう、ですか……」
陸は少しだけ寂しげに呟いた。陸にとっては知りもしなかった「海」がここではごく日常的なものである事に、一抹の寂しさを感じた。自分の兄ももしこれを見たいがために無理をしたのだとすれば、その努力があまりにも虚しい様に思えたからだろうか。
「……あの、自分は内陸の、もっとずっと奥から来たので……その、海なんて見たことすら知らなかったんです。だから、これは……自分みたいな人間は見ちゃいけない景色なんでしょうか……?」
兄のことは伏せて、陸は問いかけた。口にした瞬間、意味が伝わるか不安になって少しだけ視線を落とす。
朝霧はそんな陸を一瞥し、少しの沈黙のあと口を開いた。
「……いや、見た方がいい。特に若者はな」
その言葉に、陸の瞳が驚きと喜びでふっと揺れた。
「すぐそこだ。連れてってやろうか」
相変わらず無感情な口ぶりだったが、そのひと言は、陸の背中を押すには十分だった。
こんなにもあっさりと、第一の目的地が目の前に現れるとは思っていなかった。
だが、行かない理由はなかった。
この無愛想で何を考えているのか分からない男の気が変わらないうちに――陸は、ついていく決意を固めた。
【約30分後――バルバロア沿岸部にて】
朝霧の言った通り、本当にものの30分ほどで目的地に辿り着いた。
「ここを登る」
そう言って彼が指さしたのは、バルバロアとオーデ領域とを隔てるために政府によって建設された巨大な壁――“そりたつ壁”の壁面だった。
本来この壁は、その名の通り人がよじ登れないよう反り返るように設計されているが、この一帯だけは建設途中のまま放置されており、パネルの継ぎ目や骨組みの金属がむき出しになっていた。皮肉にも、それがかえって足場となり、人が登れるようになっていたのだ。
さらに通常なら壁面には、その領地を収めている国がその存在を知らしめるかの様に各国の国章が等間隔に刻印されているはずだが、この建設途中の壁に見られるのは未完成の刻印や、それを侮辱するような落書きばかりだった。暴言や皮肉めいた文言、薄れたスプレーの跡ばかりで、この地の人々と国家との隔絶がよくあらわれていた。
「…ここには、どうして壁が無いんですか?」
陸は、前を登っていく朝霧の背中に声をかけた。
「必要ないと思ったからだろ……死んでいい命が集まる場所に壁は要らねぇってこった」
彼は振り返らなかったが、その吐き捨てるような声音に、冷笑が滲んでいた。
「……」
陸は改めてこの土地が”捨てられた場所”なのだと実感した。
街並みも、陸が育った環境とはあまりにも違う異質な空間だった。崩れかけた建物が連なり、遊ぶ子どもたちの姿すら、ゴミ山の隙間や鉄くずの影にある。すれ違う大人たちは誰もが肩をすくめ、足早に視線を動かし、常に背後を警戒しているような緊張感を孕んでいる。路地裏では、喧嘩、売春、賭博、殺しが日常茶飯事に行われているらしい。赤ん坊の泣き声がどこからともなく聞こえてきては消えていく――それがここ、白幻街。
この地に住みなれた朝霧がいなければ、きっと自分は今頃“外の人間”として、すぐに餌食になっていたであろう。
「……若いのは、天気雪も知らねぇだろ」
唐突に朝霧が話しかけてきた。
「天気雪?」
「この辺じゃよく降る。晴れてる日に突然、雪がちらちら舞ってくる。それが幻想的でな」
「……」
普段あまり多くを語らない彼が、珍しく話し続けるのを陸は黙って聞いた。
「“風花”って呼ばれる現象だ。普通は少しだけ舞うもんだが、ここの地形が特殊でな。舞う量が桁違いなんだ。晴れた空に、粉雪が街一帯に降り注ぐ。あれは、ほんとに綺麗だ」
朝霧はふっと煙草の煙を遠くへ吐き出す。
「誰が言い出したかは知らねぇがな。その光景を見て、“白い幻の街”って呼ぶ奴もいる。誰が最初に言い出したかはわからねぇ、外の連中か、街の連中か……だが、ここの奴らはそれを気に入ってる」
その語り口から朝霧はこの街が好きなのだと陸は感じた。
「……見てみたいです」
陸がぽつりと呟くと、朝霧はわずかに視線を寄越し、口元をかすかに緩めた。
「白幻街には、そんなただの人間が住んでる」
そう言って彼は、再び前を向き、いつの間にか登り切った壁の上から視線を向けた。
「……着いたぞ」
顎を軽く動かして、見下ろす先を示す。
陸が彼の隣に立ち、視線の先に目を向けた瞬間――
「……!」
思わず、息を呑んだ。
風が真正面から吹き抜ける。何も障害物の無いふきっ晒しの壁上で、強い風に体が煽られそうになるのを、足を踏ん張って堪える。
その向こうには、これまで見たこともない広大な海が、金色の陽光を受けて煌めいていた。
「すげぇ……写真より、全然すげぇ……!」
生まれて初めて目の前に広がる景色に、陸の胸は高鳴り、思わず声が漏れる。
海の匂い。風の音。空の広さ。世界はこんなにも大きかったのかと、ただ圧倒された。
朝霧はその隣で仁王立ちのまま、あたり一面を懐かしむ様な目線で見渡した。
「……綺麗だろ。俺はここから見るこの景色が好きだよ」
かすかに揺れる淡い光を帯びたライトグレーの眼差しは、海ではなく、この街に対して何か特別な感情を抱いていることを物語っていた。
陸はしばらく無言のまま、景色に見入った。
「……あぁ、本当に綺麗だな……」
ドームも壁もない、どこまでも続く空と夕日に照らされた地平線の彼方。風が強く、冷たい空気が鼻の奥をつんと刺激する。けれど、その感覚すら心地よく思えた。
しかし同時に――『ここに来れば何か分かる』そう思って来たが、あるのは自然広大さと自由のみが広がっていて、遥かなる見晴らしの先には何も無い。
陸は急に、この広大な地球で自分だけが酷く孤独な存在に感じて、ふとこの先どうしたら良いのだと、その足元が不安になった。そもそも自分はここに何があると期待していたのだろうか、これを見て、どうするつもりだったのだろう。
湧き上がる感情が胸にこみ上げ、気づけば目に涙が浮かんでいた。
「……綺麗だし……綺麗だし、でも、思ったより……何も分かんなかった……」
ぽろぽろと涙をこぼしながら、無理に笑ってみせる。腰に手を当て、胸を張って、地平線を見据える。
そんな陸の姿を、朝霧は隣でじっと見つめていた。彼は、陸が涙を乾かすのを黙って待っているかのように、そっとその場に腰を下ろした。
陸は、慣れない旅と昨日の出来事で、心のどこかにヒビが入っていたのだろう。ふと堰を切ったように、感情のあふれるままに口を開いていた。
「兄貴を、探してるんです。安否が分からなくなった兄を」
「……」
陸もおもむろに朝霧の隣に腰を下ろす。
「兄貴は、クロノスからのスカウトで……二年前から、アルカナで働いてます」
「……優秀なんだな」
朝霧は海を見据えたまま、ぽつりと相槌を打つ。陸は小さく頷きながら、言葉を続けた。
「まさか自分の兄が、って驚きましたし、アルカナに行けば秘匿性が高くて連絡が取れなくなるとは聞いてました。でも兄は納得してましたし、名誉なことだって素直に送り出したんです」
そう言って、胸ポケットから一通の手紙を取り出した。兄から、半年前に届いた最後の手紙だ。
「でもこれ以降、ぱったり連絡が途絶えて……。それに兄貴は、絶対に守るって約束してたんです。母の還暦の誕生日には、必ず帰ってくるって」
手紙を見下ろす陸の目が、かすかに揺れる。
「でも、帰ってこなかった。母は病床で兄貴を待ち続けたまま、日付が変わったその瞬間に、静かに眠りました」
朝霧は黙ったまま、海の向こうを見つめていた。
「今まで一度も、兄貴が約束破ったことなんてなかったのに……それで、おかしいと思って、ユートピアの治安局や、警察にも兄の安否を確認したけど……アルカナに身を置く人間の情報は極秘だって、全部突っぱねられて。結局、兄貴が無事なのか、今も分からないままです」
言い終えると、海風がふっと吹き抜け、陸の前髪をふわりと揺らす。
「直接アルカナに乗り込もうとも思ったけど、俺みたいな民間人が入れる場所じゃないって分かってた。だから――」
陸は、しっかりと手紙を握りしめながら言った。
「兄貴が最後にくれたこの手紙に、何かヒントがあると思ったんです。同じ景色を辿れば、何か分かるかもしれないって」
そう言って、ひとつ大きく息を吐いた。
「……すみません、こんな話、いきなり。でも、ここに来て――想像以上に、状況が良くなさそうな気がしてます」
「……どうしてそう思う?」
朝霧の問いかけは穏やかだが、その奥にはどこか試すような視線も入り混じっている。
「……まず、ここまで来るのに、自分1人じゃ絶対に無理だった。俺でさえドクターの助けがなければ、途中でどうなっていたか分からなかったですし……。ましてや俺より非力な兄が1人でこれを見れた訳がない。絶対に、ここまで誰かに連れられて来たはずです」
朝霧は無言のまま、僅かに頷いたようにも見えた。
「それに、兄の撮った写真の海は、この画角よりもずっと低い目線から撮られてる。つまり、兄貴はこの壁の上じゃなくて、正規の門を通ってここに来たってことです。つまり兄貴は、この壁の門を自由に出入りできる存在に連れてこられたんだと思います」
陸の語気が、段々と強くなっていく。
「……アルカナに行くって言ってたのに、もし最後に手紙を寄越して、それきり消息を絶ったとしたら……兄貴はどこかの国でオーデ討伐の捕虜にされて――」
言葉が詰まる。
「……もう、この世にはいないって……思いますか?」
それはまるで、涙を飲み込むような声だった。あまりにも不格好で、もろすぎる問いかけだった。それなのに陸の潤んだ瞳は、まっすぐ朝霧を見つめてしまう。
縋るような問いかけを、このほとんど初対面の男に向けてしまった自分自身が、陸は自分でもよくわからなかった。
どこかで否定してほしかった。
(…少ない情報の中からヒントを探し出せている。俺との会話もただだべってた訳じゃ無いらしい…バカじゃないな、センスがいい)
朝霧はその瞳を見つめ返しながら、内心、陸の意志と勘に静かに感心していた。
彼はタバコを咥えたまま、しばしの沈黙の後に言った。
「……ぬか喜びさせたいわけじゃねぇが、いくつか、まだ検証の余地はある」
「……え?」
陸の目がかすかに揺れる。わずかにだが、希望の光が差したのが分かった。
朝霧は顎をしゃくって、陸が持っていた写真を指差す。
「それは恐らくB国沿岸だなぁ。写真の時刻にその位置に太陽が昇って見えるのはB国沿岸から取った証拠だ。
「……B国……?」
「あそこは、ここよりずっと治安がいい。言葉が通じない苦労はあるが、気のいい小人の村があって栄えてる。天気は荒れがちだが、治安状況でいったら、沿岸部まで十分1人でもたどりつける」
朝霧は一度タバコの煙を吐き、続けた。
「それに、門が開くのは何も出兵の時だけじゃない。もしその写真が本当に本人が撮ったものなら、万が一捕虜になってたら自由に写真が取れるとは考えにくい。少なくともここにきた時には、いくらか心身ともに余裕があったんじゃないかと、俺なら想像するね」
陸は無言のまま、写真を見つめる。
「迎えに来たのは、クロノスの連中で間違いねぇのか?」
「はい……たぶん。クロノスの紋章がついた制服でしたし、通行証にも刻印がありました」
「だとしたら、若いのの兄貴は恐らく話通りアルカナに行ったんだろ。クロノスの連中は、お前さんも知ってる様に秘密主義だ。関係者になった奴をむざむざ他国の捕虜になんてしねぇよ」
それを聞いて、陸の表情が少しだけ和らぐ。だがすぐに、朝霧はその期待を静かに制した。
「……ただ、たからってそれがホッとできる理由にはならねぇのがこの話のミソな気がするな」
「……っ」
どこか訳知り感の漂う朝霧の語り口に、陸は今まで誰にも聞けなかった疑問をぶつける。
「……クロノスは、やばいところなんですか?」
朝霧は火のついたままのタバコをくわえ直し、低く答えた。
「…俺も本質は知らない。ただ、少しの間あそこで生活した事がある」
タバコの先がジリと赤く光った。
「あそこの“味方”でいるうちはいい。だが、一度でも“敵”と見なされれば――一瞬で消える。昨日まで組織の上層部にいた奴が、次の日にはいわれのない罪で処刑されてたりもする場所だ。
理由もわからないまま文字通り跡形もなく始末されて、殺したやつの事なんか誰も覚えちゃいない。クロノスは、ほんの一握りの上位者の意志だけで動く独裁国家状態だ」
その言葉を聞いて、陸の中で、ずっと心の奥にあった不安が、確信へと変わってしまった。
「……そんな場所に、兄貴が連れて行かれたんだとしたら……奴らに用済みだと思われる前に、何とかしないと……!」
(まさか、もう手遅れだったり……しないよな……)
いてもたってもいられなくなり、陸は思わず朝霧の方へ身を乗り出した。
「ドクター……クロノスとかユートピアに、知り合いはいませんか? できれば上のほうの人で」
朝霧は小さく肩をすくめ、申し訳なさそうに言った。
「悪いが、俺がコンタクト取れる相手はいない」
「……っ」
陸はあからさまに焦り、落ち着かずそわそわし始めた。しかしどうしたら良いかあてもなく、いたずらに視線だけが彷徨っている。
そのとき、静寂を破ったのは、朝霧の端末から鳴った着信音だった。
朝霧は液晶に出た相手の名前を確認すると、陸に目配せもせず迷わず出た。
「もしもし」
低い声で短く言うと、何やら電話越しの相手が話し始めた。内容は聞こえなかったが、それが男の声であることは陸にもわかった。
『今からちょうど7日後、いつものとこ集合。いける?』
「了解」
朝霧は簡潔に返す。だがそのとき、ほんのわずかに口元が緩んだのを、陸は見逃さなかった。
何か、彼にとって嬉しい知らせが届いたのだろう。
『ん。詳細は今送ったの見て』
「了解」
電話を切ったあと、朝霧はふうっと煙を吐いて、ようやく陸の方に視線を戻す。
「あー……そういや、若いの。1人だけ居たわ、”唯一、俺がコンタクト取れる偉い人間”」
「……!」
陸はハッとして顔を上げる。
「本当ですか……!?」
高鳴る気持ちを抑えきれず、前のめりになりながら問うと、朝霧は先程まで通話していた端末を指でトントンと軽く叩き、口元に皮肉げな笑みを浮かべた。
「俺のボス」
そして、苦笑しながら、さらりと付け加える。
「おすすめはしねぇがな」
***
朝霧が言うには、先ほどの通話で告げられたボスとの目的地に間に合わせるには、今すぐここを出発する必要があるらしい。
陸はろくに休む暇もなく、そのまま朝霧の案内で移動を開始した。
「状況を簡単に整理しとこうか」
移動用の簡易車両の座席に腰を落ち着けた朝霧は、タバコをくわえたままそう切り出した。
「今、この大陸の各国が一番躍起になってるのは、『大陸外に棲むオーデを討伐して、あの広大な未開領地を手に入れること』だ。若いのも知ってるだろうが、ほんのひと昔前までは各国が我先にと討伐隊を組んで秘密裏に動いてた。クロノスや他国に悟られぬようどの国も秘密裏に、自分のところが大陸で1番の権力を得ようと画策していた」
陸は黙って頷きながら朝霧の話を傾聴していた。。
「だがクロノスは、どこよりもずっと前から着々と準備を進めてた。装備の開発や事前調査の類はもちろん、一番の攻略の要を既にその手中に収めていた。それが、オーデ討伐のプロ、我らがボスだ」
その言葉に、陸の眉がわずかに動く。
「……じゃあ、ボスは、導守ってことですか」
朝霧は、「ご名答」とでもいう様に煙草をひょいと掲げる。
「導守って……たしか、“死者の魂を可視化て、裁くことができる”っていう、特殊な血筋の人たち……ですよね?」
「ああ。オーデってのは、普通の手段じゃ倒せねぇ。ヤツらを“見る”ことができる導守だけが、それを討つことができる。そして、その中でも現代最強っていわれてんのがボスだ」
陸はその“ボス”とやらに強い興味を抱きつつも、同時にクロノスの周到さに背筋が冷える思いだった。
「……つまり、クロノスはボスみたいな優秀な導守を使って、大陸外のオーデを討伐、領地を獲得し、中央集権をさらに強固にしようとしてる、と」
「察しがいいな。まさにその通りだ」
朝霧はくぐもった煙を吐き出し、少し間を置いてから言った。
「“死神”って言って通じるか?」
「……一応は。確か、“白冠”の中でもトップクラスの実力者のことですよね? 同行したFANGが全滅するような難案件ばっかり担当するエキスパートだ、って……。自衛隊の上官から、口頭で教わっただけですが……」
「概ね十分だ。なるほど、若いのは元自衛官か。どうりでフィジカルが強ぇわけだ」
陸の通行証を確認する隙なんてここ数日散々あったはずだが、見ていなかったのだろう、朝霧は初聞の顔だ。いい人なのか、どこまでも他人に興味がないだけなのか……。
「クロノスは、この大陸中の死神と時期死神を、多額の報酬と待遇で全員確保しちまった。で、その多額の報酬を享受するのは死神だけじゃない。他にも喜ぶ連中がいる」
タバコを灰皿に押しつけると、朝霧は淡々と続けた。
「死神――というか、これは導守全般に言えることだが、彼らはその専門技術を、自身の出自の系譜門下に入門し、それぞれの屋敷でその門下お抱えのエキスパートによって手塩にかけて育成され、技を習得し、やがて大成させる。死神はその成れの果てだ。
だから、クロノスは死神を輩出した門下には、“献上代”として多額の見返りを用意した。そして、その門下を支援していた諸外国や地方自治体なんかの支援組織にも、“献上の貢献費”としてそれ相応の見返りを用意した。ちなみにこれはただの手付金。1回こっきりじゃなく、輩出した死神の活躍度合いによって、追加でさらに見返りは用意される仕組みだ。加えて、該当の死神が所属する諸外国に限っては、日々彼らに治安税を納めている国民にも、”謝礼金“として見返りが用意された」
「……つまり、関係者全員に金をばら撒いたってことですね。死神一人出すことで、多方面に利益が流れる構図を作ったと」
「あぁ。そんな状況を作られた日には、諸外国もろとも総出で死神と時期死神の献上が行われ、彼らはクロノスの算段通りその手中に収まるしかなかった。そんな仕組みをつくられた日には、もうこのひと繋がりの小狭い大陸に、逃げるとこなんかねぇわけよ」
クロノスのあまりに緻密で、あまりに周到な戦略に陸は言葉を失っていた。
朝霧が深く煙を一吐きする。
「色々と危険が多い仕事だからな、俺はボスの護衛をしている。ボスが依頼を遂行できるよう、あらゆる脅威からボスを守んのが俺の仕事だ」
その口ぶりから、陸は朝霧がボスの専属FANGなのだと直感した。
「……ドクターは、FANGだったんですね」
最初から医者らしくはないと思っていたが、なるほどこれが本来のこの男の仕事かと陸は1人で納得する。
「まぁ、そんなとこだ」
相変わらず朝霧の答えは歯切れが悪いが、今は深入りはしないことにする。
(今回の依頼が達成できたら、俺たちはクロノス上層部にとって頭が上がらない存在になる。そこを利用するしかない。何も持たない今の俺じゃ、仮に上層部に会えたとしても、無力で、何の意味もない。下手を打てば、返り討ちで終わるだけだ――)
陸は、次第に道筋を描き始めていた。
(なんとかしてボスのFANGになって、オーデ討伐の実績を上げる。そうして上層部と“話ができる”立場に登りつめる。
それが、きっと今の俺にとっての最短ルートだ)
考えに没頭する陸に、朝霧がふいに問いかけてくる。
「どうだ、勝機は見出せそうか?」
朝霧は、変わらぬ無感情な目のまま、いつの間にか次のタバコを咥えていた。
薄く開けた車窓から、白い煙がゆるやかに流れていくが、ほそなくしてすぐに個室にはタバコのにおいが充満した。
(……ここ、禁煙じゃ……)
ふとそんな感情が頭をよぎるが、今はどうでもよい。それより今は、目の前にある話の方がはるかに重要だった。
「……はい。ざっくりと、ですけど。……けど、上手くいくかは、分かりません」
「そうか……」
短く返されたその声に、重さはなかったが、朝霧は続く言葉をさらりと言ってのける。
「ま、ここまで聞けば察しはついてると思うが――
そもそもこの件が完了するまでに、どれほどの時間がかかるか分からん。
それどころか、生きて帰ってこれるかどうかも、あやしい。
……四肢の1本や2本くらい、無くすのは承知でいった方がいい」
彼が言っているのは、脅しでも何でもない。ただ事実を述べているだけだ。
だからこそ、陸の背筋にじわりと冷たいものが這い上がった。
(……やっぱ、降りた方が……俺なんかが、無理……だよな)
まだ引き返せる。引き返した方が良い――本能が何度も訴えてくる。
しかし、陸はそれを必死に打ち消す。
ここで怯んでいたら、何も変えられないのだ。
「……もちろん、他にもっと良い方法がないか、考え続けます。……でも」
(――そんなもん、あるならとっくにそうしてる。逃げるな、これしかない……!)
まだ何も始まっていない。ここで揺らいではいけない――そう自分に言い聞かせながら、陸はゆっくり顔を上げた。
「この依頼は、きっとうまくいきます。……自分の直感なんですけど」
視線はまっすぐ朝霧を捉えていた。
「俺は、ドクターや他の皆さんに比べて、この件について何も知らない。だからこれは、自分の考えというよりフィルター越しの判断ですけど、今の時点で言えるのは――クロノスが、あの勝利を最優先する組織が、その依頼の実行者として“ボス”を選んだこと、そしてそのボスに、あなたが付いているということ……たったの数日間の付き合いですけど、あなたが負け戦に挑むタイプじゃないのはなんとなく分かりました。そのあなたがボスについてるってことは、それだけボスの賞賛が見込める証拠です」
朝霧は、言葉を挟まず、黙って聞いていた。
陸はひと息ついて、最後の想いを口にした。
「……それに、もし、この読みが外れてたとしても、正直言うと、今の俺には、これしかかけるものがないんです。
もう、お袋もいない。……迷惑や心配をかける相手も、もう居ない。
思う存分、やれます。だからこの機を利用させてください。お願いします、自分も連れて行ってください!」
陸の真っ直ぐな願いは、目の前の無表情の男にも届いた。
朝霧は、まるで小気味いい音楽でも聴くかのように口元に小さく笑みを浮かべた。。
「若いのの話は、聞いてて楽しいな……」
タバコをもう一服。車窓の方へふっと目をやりながらも、彼はどこか楽しげな口調だった。
そして、持っていたタバコの先で、ちょいちょいと陸の方を軽く指し示す。
「きっと、ボスも気に入る」
その言葉に、陸は息をのんだ。
朝霧の“ボス”とは、どんな人物なのだろうか――陸はふと思う。
こうして静かに会話ができている今、目の前の男はいたって理知的に映る。しかし同時に、皮一枚を隔てた向こう側に、得体の知れない凶暴性が眠っているのを、陸は肌で感じていた。
そんな男が付き従う“ボス”となれば、どれほど恐ろしい人物なのだろうか――想像しただけで、胃の奥がきゅっと縮こまる。
そこでふと、陸の脳裏に、ある人物の姿が浮かんだ。
(そういえば、“死神”なら……)
思い出されたのは、あの銀髪の青年だった。確証はないが、直感的にずっと何かが引っかかっており、陸はそのまま率直に朝霧へ尋ねてみる。
「……あの、もしかして。ドクターのボスって……長髪の青年ですか?」
その問いに、朝霧のまぶたがわずかに持ち上がる。
「腰まで届かないくらいの長い銀髪で……色白で、細身の……」
陸がそう補足した途端、朝霧は低く小声で答えた。
「……いや、それは俺のボスじゃない。それと――それは、他言しない方がいい」
その口ぶりに、陸もすぐに察する。導守は身元が明かされないよう徹底している。
姿や特徴に関する情報の漏洩は、暗黙の禁忌だった。
「あ……そっか。すみません」
「いや、いい」
朝霧はちらりと周囲を確認したあと、無言で次のタバコを取り出し、くわえながら、ぽつりと続けた。
「その方も、今回のプロジェクトの犠牲者の1人だ。……長い付き合いになる」
やはり、あの時の青年は名乗った通り、“死神”だったのだ。
朝霧は胸ポケットからライターを取り出し、火を点けながら静かに言った。
「現役の死神は、6人いる。ボスはそのうちの1人だ。……ちなみに、ボスがそん中で一番素行が悪くて、やる気もない」
「……えっ」
まさかの不安要素に、陸は思わず間抜けな声を漏らす。朝霧はくつくつと笑いながら、さらりと言葉を重ねた。
「……ただまぁ、俺の見立てじゃ、ボスが一番強い」
陸の顔が思わず引き締まる。
そう語る朝霧の目の色が一瞬、野生の狼のような鋭さを宿したからだ。この男は、時折、アドレナリンが溢れるような、酷く猟奇的な眼光をのぞかせることがあるのだ。
「……」
何も言えずにいる陸の方へ、朝霧は窓から視線を戻して言った。
「……ボスは、ロマンチストだよ」
「……ロマン、チスト……?」
(死神最強で、素行が悪くて、やる気がない……ロマンチスト?)
「……」
情報が渋滞しすぎて、まったく像が結ばない。逆にイメージが霧散して、混乱すら覚える。
その困惑が顔に出ていたのだろう、朝霧はまたどこか愉快そうに陸を見た。
「見たとこ、歳も近そうだ。仲良くしてやってくれ」
「……はぁ」
曖昧に返事をしながら、陸は早くも一抹の後悔を感じていた。
(俺は……とんでもない世界に足を踏み入れたんじゃ……)
朝霧という男は、一見まともに話せそうでいて、根っこの部分ではどこか異常だ。
基本的にすべてに無関心で、それでいて時折見せる猟奇的な顔はどこか人間離れした異常性を感じずにはいられない。
そして、あの銀髪の青年。まるで死を日常的なものとして享受しているような、虚ろで、無慈悲で、自分とは全く違ったものを感じた。
そして、ボス。死神の1人であるその人物も、例外ではないのだろう。
異様な空気を纏い、踏み込むにはあまりにも危険な存在であるに違いない。
(……とにかく、この人たちには、深入りしない方がいい)
プロジェクトの機会は、最大限利用させてもらう。
だが、それ以上の関係は築かない方がいい――陸の本能が、静かにしかし確実に警鐘を鳴らしていた。
約束の地に近づくにつれ、陸の胸騒ぎは、日に日に増していくのであった。