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第4話「決意の門出」

ハロワン第4話「決意の門出」


母親の危篤に、なんとか間に合った陸。

しかし最後まで兄はそこへ訪れなかった。

陸は今、これまでの自分に決別し、一歩踏み出す決意を固める――。


P.S

物語の進行上、絶対必要なシーンなんですが、正直全話の中で一番書くのがしんどかったぁ……

間延び回を作らないように書くのは本当に難しいなと……常々思います。

これからもたくさん作品を読んで勉強しようと思います。


――――――――――――――――――――――――――――――

残酷な描写はまだありません。


独自用語や舞台設定が多いので、リンク先に解説をまとめています!

物語の進行に併せて随時更新してまいります。

宜しければご覧くださいませ。

https://ncode.syosetu.com/n9351kp/1/

――――――――――――――――――――――――――――――

病院にて。

必死の思いで母親のいる病院まで辿り着いたのは、危篤の連絡を受けてから約2時間後のことだった。

静かに横たわる母の隣に、陸はそっと腰掛けた。


「間に合ってよかったです」


そう言ったのは担当医だった。


「それと、お兄様にも何度か連絡していたのですが……連絡はつきましたか?」

「いえ……」


短く返す陸の言葉に、医師は気まずそうに眉をひそめた。


「……そうですか」


何度も発信履歴が並んだ端末を握りしめながら、陸は母の寝顔から目を離せずにいた。


「このお部屋は携帯使っていただいて大丈夫ですので、また連絡してみてください。こちらからも、引き続きかけてみます」


静かにそう告げて、医師は病室を後にした。


「すみません……」


陸はそれに応えるように、小さく呟いた。

部屋にふたりきりになると、陸は母の手をそっと握り、自分の手を重ねる。


「母ちゃん、俺だよ。もう少ししたら、兄貴が来るから。頑張れ……」


既読のつかないメッセージ画面を見つめる陸の目は次第に曇っていく。

次第に自分の中の嫌な考えが膨らんでいくのを振り払うように、陸は息を深く吸い込み、窓の外へと視線を向けた。


病室の窓から見える風景は、あまりにも静かで穏やかだった。

まるで、数時間前のドレヴァ区の混沌が、別世界の出来事だったかのように思えてくる。


あの混沌の現場は――今自分がここにいられる事が奇跡と思えるくらい、絶望的な状況だった。

あんな状況で、皆はどうなったのか――いや、今は考えるべきことじゃない。


それより、兄だ。

何度も電話をかけても繋がらず、もう数時間が経過している。

陸の脳裏に、ここ最近の兄とのやりとりが浮かんだ。


最後に手紙をもらったのは、いつだったか――


最初の頃は、まめに電報が届いていた。

研究のことには一切触れられず、代わりに日々のどうでもいい出来事が綴られていた。それが兄らしくて、元気にやっているのだなと安堵していた。

そのうち、手紙の間隔は空くようになり、それでも細々と続いていたやり取りが、半年前からぷつりと途絶えた。


最後に届いたのは、封書ではなく、写真だった。


青一面の水面。


夕陽に照らされて輝くそれを、手紙の中で兄は「海」と言っていた。

写真の裏には、ぽつんと一言だけ。


『やっと見れた!海!俺と同じ名前〜』


兄のクセのある筆跡で書かれた文字が、余白たっぷりの裏面に残されていた。

手紙というよりメッセージカードのようなそれを、陸はなぜか特別に感じ、他の手紙は実家に保管して置いていたが、これだけは日常的に持ち歩くようになった。


――でも、それきり音沙汰無しだ。


(もっと書くこと、あったろうよ……)


心の中でぽつりと、独り言のように呟く。

手紙を受け取った当時も、同じことを思ったのを覚えている。


二年前、兄がアルカナへと出発した日。

どれほど忙しくなっても、どんなことがあっても――「母の還暦の誕生日だけは、必ず3人で集まろう」、そう約束した。

その日が、まさに今日だったのだ。

他のどんな約束よりも大切にしようと、3人で誓い合って、兄は旅立ったというのに――


「……『絶対』って言ったじゃん」


陸はひとり、ぽつりと呟いた。

その声は我ながら酷く不安げで、情けなく、大人の男のものとは思えないほど頼りなかった。

静まり返った純白の病室で、自分の声だけが冷たく反響する。


陸は深いため息をつき、母の小さな手に自分の手を添えながら、そこにはいない兄に向けて語りかける。


「……もうすぐ18時になるよ」


掠れたその声は、孤独に押しつぶされそうなほどか細かった。


「どこにいるんだよ……」


そう言ってベッドに突っ伏すと、蓄積していた疲労が一気に押し寄せ、陸はそのまま深い眠りに落ちた。


***


【約3時間後 ―― 病室にて】


ガチャ。

病室のドアが開く音に、陸はぱっと目を覚ました。


熟睡していたようだが、その音が兄の帰りを告げるものかもしれないと思うと、すぐさま意識が冴え渡った。

がばっと体を起こして振り返ると――


「おぉ、すみません、起こしてしまいましたね」


そこにいたのは、ビニール袋をぶら下げた担当医だった。


「あ……いえ」


陸は慌てて取り繕ったが、顔に浮かんだ落胆の色は隠しきれなかったらしい。

医師は小さな声で「すみません」ともう一度謝ると、手にしていた袋を差し出した。


「おひとりだと、なかなか買いに出られないと思いまして。気持ちばかりですが」


中には、おにぎりが2つと簡易な栄養食、そしてミネラルウォーターが入っていた。

母親の傍を離れられない陸のために気を利かせてくれたのだろう。


「うわ、すみません……お気遣いいただいてしまって」


そう言って陸が立ち上がって袋を受け取ると、医師は軽く手で着席を促しつつ、穏やかに笑った。


「いえ、ちょうど売店に行ったのでついでですよ。お気になさらず」


陸は気づけば、朝にバナナと牛乳を摂ったきり、何も口にしていなかった。

けれど今日という日は、朝から胃が締めつけられるような出来事ばかりで、空腹を感じる余裕すらなかった。


「……昼間より、いい表情をされていますね」


医師がふと、眠る母の顔を見て言った。


「不思議なものですが、ご家族やご友人がそばにいると、患者さんって驚くほど顔が穏やかになるんですよ。

患者さんにとってはどんなお薬や数値情報なんかより、そっちの方がよほど大切なことかもしれませんね」


そう言って医師は軽く頷き、陸の方へ向き直る。


「私も、まだしばらく院内にいますので、何かあれば呼んでください」

「……はい、ありがとうございます」


陸は立ち上がって小さく頭を下げた。

袋の中の食べ物を見ても、やはり食欲は湧かなかったが、とりあえずミネラルウォーターのキャップを開け、一口だけ飲んだ。


携帯を見る。――既読は、まだついていない。


「……」


こんなふうにぽっかりまとまった時間が空くと、つい今日の出来事が頭をよぎる。


オーデ、クロノス、導守――この世界は、一体どうなっているのか。


自然と、日中の混乱を思い返す。皆、無事だろうか。

あの死神は、無事に任務を終えたのだろうか――

気になって、陸は端末で今日のニュースを調べ始めた。


既に事態は収束しており、現在は行方不明者の捜索と現場の復旧が進められているという。

だが、目につくのはクロノスに対する不信感の数々だった。


《被害甚大。クロノスの誤情報で民衆が犠牲に》

《オーデ感知機、誤作動か》

《犠牲者拡大、導守の派遣遅れは意図的か?》


スクロールしても、どれも似たような見出しばかりが並ぶ。

情報は錯綜し、もはや何が真実か判然としない。

ただひとつ明確だったのは、今回の一件で、特に騒動のあったドレヴァ区画周辺ではクロノスへの信頼が地に落ちたということ、そして“いざというとき、自分たちは守ってもらえるのか”――そんな不安が一気に広がっていた。


加えて、クロノスの独裁体制をもともと面白く思っていなかった諸外国がこの混乱をチャンスと見て、反感勢力の拡大に動いていることも報じられていた。


陸は、あの自称死神の彼の動向を調べようとしたが、導守に関する情報はすべて強力な保護フィルターがかかっていて、一切情報が閲覧できないように規制がかかっていた。


既出の情報を繋ぎ合わせて唯一分かったのは、「感知器誤作動ではなく、オーデ勢力が自発的に撤退したため、導守が対応する前に事態は沈静化した」という歯切れの悪い事実だけだった。


けれど、陸は思い出していた。

避難誘導のさなか、上官の槙島がぼそりと漏らした言葉を――


『クロノスは、導守の身を案じて本丸の派遣を見送っている』。


その言葉が事実なら、本来もっと早く死神が派遣されていれば、犠牲はもっと出さずに済んだかもしれない。

それを思うたび、陸の胸に不信の火種がくすぶる。

陸もまた、クロノスや導守に対し、不信感を募らせる張本人となっていた。


兄がスカウトされたのも、兄のオーデに関する研究が評価されたからだと聞いている。


兄は、無事なのか。

巻き込まれてなどいないだろうか。

元気に……しているのだろうか。


再び端末を手に取り、クロノスやアルカナに関する情報を探る。

だが表示されるのは、公式発表か、眉唾な都市伝説ばかりで、何ひとつ核心には届かない。

それがかえって、陸の胸に底知れぬ不安を植えつけた。


――クロノスは、何かを隠している。


漠とした底しれぬ不安に、不気味な胸騒ぎをおさえきれずにいた。


【さらに3時間後 ―― 病室にて】


時刻は、23時54分。

兄からは、いまだ何の音沙汰もない。陸はずっと腰を下ろしたまま、母の傍に静かに寄り添っていた。


その時、かすかに――


「……陸?」


小さな声が病室の静寂を破った。

陸は驚き、ばっと母の顔を覗き込む。


「母ちゃん……?」


母の瞼がうっすらと開き、陸の顔を見つめた。

陸の心臓が跳ねる。


「……!」


慌ててナースコールに手を伸ばしかけたその瞬間、母が再び何か言った。

その声を聞き逃すまいと、陸はすぐに身を乗り出した。


「ん、どうした?先生呼ぶよ」

「……ううん。みんなが来るより、陸と話がしたい」


かすれたその声は小さかったが、確かに陸の耳に届いた。

母の気持ちを尊重するように、陸はナースコールから手を引く。


「わかったよ」


そう言って母の手を握ると、母は小さく頷き、穏やかな笑みを浮かべた。


「今日は……3人でお祝いするはずだったのに、こんなになっちゃって……ごめんねぇ」

「……ううん、気にすんなって」


陸は首を横に振って見せた。責める気なんて毛頭ない。

むしろ、申し訳なさそうに謝る母に胸が締めつけられる。


「海は……来た?」

「……いや、まだ」

「……」

「……多分、今日はもう来られそうにない」

「……そう」


残念な知らせだったはずなのに、母の顔には一点の曇りもなかった。

まるで、最初からわかっていたかのように。


そのあまりに穏やかなまなざしには、陸の方が戸惑ってしまうほどだ。


「……陸、来てくれてありがとう」


そう言いながら母は、力のない手をそっと差し出した。

陸は両手でその手を包み込む。決して手放さないように、そっと、しっかりと握った。


「……もう、話せないと思ってた。きっと陸が来てくれたから、神様が最後に会わせてくれたんだね……」

「最後なんて言うなよ……」


陸の声は震えていた。


「……今日、本当はふたりに渡そうと思ってね……リビングの茶色の棚の、三番目の引き出しに入ってるの。

悪いんだけど……次に海に会ったら、陸が渡してくれる?」


まるで遺言のようなその言葉に、陸は喉の奥が熱くなった。

この時間が本当に“最後”になってしまうのかと、怖くてたまらなかった。


本当にこれが最後なら、涙で終わりたく無いと、流れぬように懸命に堪えた。

声を出してしまったら溢れ出しそうで、代わりに何度も何度もうなずいた。


母の手が、さっきよりも冷たい。


「海は……ああ見えて、危なっかしいところがあるから。

陸みたいにしっかりした子がそばにいてくれたら、マミーは安心…………優しくて、いい子に育ってくれて、ありがとう……。

海と二人で、支え合って……生きていくんだよ…………マミーは二人のこと、大好きだからね……」


その言葉を最後に、母は静かに、眠るように息を引き取った。


時計の針が、ちょうど0時を指していた。

母親は海の帰りを最後まで待っていたかのように、約束の日が終わるその時と共にその命を閉じた。


たった6分間の最後の会話。


奇跡のような時間だった。


陸は、この瞬間を一生忘れないと思った。


顔に左腕を押しつけて、溢れ出す涙を何とか拭おうとしたが、それは止まることなく流れ続け、やがて病室には――陸の嗚咽だけが、静かに響いていた。


***


最初の数日は、葬儀や手続き関係で慌ただしく時間が過ぎた。

けれど今は慶弔休暇の真っ最中。


陸は誰もいない実家で、ぽつんと一人きりで過ごしていた。


実家に来ているのは、手続き関連も理由のひとつだが、本当の目的は、母が「海と陸に渡したい」と言っていたものを取りに来るためだった。

言われた場所――茶色の棚の三番目の引き出しを開けると、中にはブレスレットが三つ、丁寧に並べて入っていた。


きっと、以前のような頻度ではなかなか3人で会えなくなってしまったために、“お守り代わり”に、お揃いにしようと用意していたのだろう。

渡す用だけではなく、自分の分もちゃっかり作ってあるのが母らしかった。


その中のひとつ――恐らく自分用と思われる、落ち着いた茶色のデザインのものを袋から取り出し、

そっと左腕にはめてみる。


ぽかぽかとした陽射しが、リビングの窓から差し込んでくる。

春の訪れを感じるような、のどかで穏やかな昼下がりだった。


もう家事も一通り済んでしまって、昼寝をするにも眠くなく、時間を持て余していた。

コーヒーを淹れて、3人がけのリビングテーブルに腰掛ける。

思えば最近ずっと忙しくしており、こんなにゆったりと過ごすのは暫くぶりだ。


しかし妙なことに、この穏やかさを陸は心のどこかで歓迎していない事に気づく。

本来なら喜ばしいはずの休息が、今はどうにも居心地が悪い。

穏やかなはずなのに、妙な不安が胸に巣食って離れない。


何もない時間が、自分の内側を静かに覗き込んでくる。

まるで、向き合いたくないことに向き合わせようとしてくる――そんな感覚があった。


読みかけだった漫画はすでに読破してしまった。

誰かに会う気にもなれず、かといってテレビをつける気にもなれない。

ニュースを漁ったり、気まぐれに筋トレをしてみたりもしたが、どれもしっくりこない。


――もう誤魔化しようがない。

今日こそは、ずっと避けてきたそれの違和感に向き合うタイミングかもしれない。


コーヒーカップに手を伸ばす。

苦味と香りが鼻腔をくすぐるのを感じながら、陸は静かに思考の流れに身を任せた。


『……優しくて、いい子に育ってくれて、ありがとう』


母は、あの夜そう言ってくれた。


確かに――自分で言うのもなんだが、堅実で、実直。

自分には、そんな言葉がよく似合うと、陸は自覚していた。

羽目を外したことがないわけじゃないが、それとてせいぜい友人と飲みすぎて終電を逃す程度のもの。

夏休みの宿題も、毎日わりと面倒がらずにやって、あとはのんびり遊んで過ごすタイプだった。

勉強も、運動も、人付き合いも、全てそこそこにやってきた。


そして何より陸はいつも「安定」を選び続けてきた。

公務適性診断で「適性あり」と判定された自衛官という職も、まさにその選択の延長だった。

陸は、今の生活が死ぬまで続いていくことに納得していた。


世界には、命を燃やして、何かを成し遂げる人たちがいる。

けれど自分は、そういう部類じゃない。

人並みに地道に働いて、ささやかな日常を享受する――“そういう側“だと、はっきり自覚していた。

功績を残したいとか、何かを成し遂げたいとか、そうした大それた願望はない。

しかしだからといって、日常を卑下しているわけでもない。

自分の仕事をして、少しでもそれが人のためになれば、それはそれで充実感を感じたたりする、どこにでもいる“普通”のタイプ。


これまでの人生で後悔が無かったかと言われれば、勿論「無い」とも言い切れない。


憧れていたボクシングジムの選手コースに入らなかった日。

好きだった子に告白しないまま、彼女が転校してしまった日。

親友からのベンチャーの誘いを断った日。


そういう瞬間に、胸の奥がざわついたのを、陸は確かに覚えている。

心が少し熱を帯びるような――そんな高揚感は嫌いではなかった。


けれど結局、自分はいつもリスクのない方を選んできた。

“挑戦”という言葉を、“危うさ”と変換してしまう癖があった。

そして、「やめておいた方がいい」という守りのプロットを自分で組み立てて、納得してしまう。


高揚と未練が同時に押し寄せ、一瞬苦しくなるが、それも時間が経つと未練は薄れ、安堵だけが残る。

それがいつものパターンだった。


結局、自分は“挑戦”そのものじゃなく、挑戦”しそうになるところ”までを楽しんでいて、そこから先には進めない――そういう人間なのだと、気づいていた。


自分は、命を燃やすような人生には、向いていない。


命を燃やしている、と思う人間は案外居る。

飲み会の場で笑いながら「一度きりの人生だろ! 好きなことやろうぜ!」と夢を語っていた友人――。

深夜の公園で、目を輝かせて懸命にネタ合わせをする見知らぬ青年たち――。

駅前でギターを片手に弾き語るシンガーソングライター——。


彼らは、全身全霊で生きていた。

妬ましいとか、自分だって本気出せば……とか、そんな幼い感情は微塵もない。

あるのはただ――応援したい気持ちと、少しの、憧れ。


兄・(うみ)もそうだった。

海はまさに、命を燃やしているタイプの人間だ。


朝も夜も、オーデについての研究に没頭していて、放っておくと食事も風呂も忘れてしまうくらい熱中してしまう。

兄がたまにリビングに顔を出すと、陸はよく研究の話を聞いた。

そのたびに兄は、まるで夢を語る子供のように、目を輝かせて話し始めるのだった。


兄を思い出した、その途端だった。


『きっと自分の中で、「やらなきゃ」って強く思う瞬間が来たら、たぶん陸もそっちを選ぶと思うよ』


ふいに、兄の言葉が蘇る。


どうして今、この言葉を思い出す――?


自分は、何か“やらなきゃいけない”と感じているのか――?


陸は目を見開いていた。


(いや……もうとっくに、気づいてるじゃんか……)


あの日――

母が亡くなったその日から、陸の胸にしつこく張り付いて、離れない違和感――


それは、“戻らなかった兄を探す”ことだ。


しかし陸は、それに気づかないふりをしてきた。

恐怖と不安と、変わりたくないという臆病さに震えて、目を逸らし続けてきたのだ。


「……また逃げるのかよ」


思わず、そう呟いた。誰に向けてでもない。自分自身への言葉だった。


しかし、人はそう簡単に変わるものではない。

26年間ずっと安定と日常を選んできた自分が、いきなり“いつもと違う方”を選べるはずがないのだと、陸は思う。


避けてきた本質が重くのしかかる。

思考が止まりかけたその瞬間、不意に、昔の記憶がよみがえってきた。


当時、自分が12歳、兄が18歳だった頃のことだ。

夕方、実家の居間でぼんやりと兄と話していた、何気ない会話だ。


***


『いいなぁ、兄貴は。やりたいことがはっきりしてて。俺は、なーんもないや』

『それは、全然悪いことじゃないよ』


兄は、いつもの穏やかな声で言った。


『陸はさ、何でもそつなくこなせる“バランス型”なんだよ。だから逆に、やりたいことを見つけるのが難しく感じるのかもね』

『ふーん……』

『でもさ、それでいいんだと思う。陸みたいなのと、俺みたいなのが居るから、世の中は上手くまわるんだよ。

どっちも必要で、大事なんだ』

『そうかなぁ……なんか俺さ、今までいつも“本当にやりたい方”じゃない方を選んできた気がする』


その言葉に、兄は少し不思議そうな顔をした。


『どうして?』

『……うーん』


陸は言葉を探しながら、少し戸惑って言った。


『今でもさ、不自由なく普通に生きてるのに、もし無茶して“やりたい方”を選んで、それで失敗して後悔したら……なんか、今のままで良かったじゃん、って後悔しそうで。だから踏み出せない、っていうか』

『……なるほどね』


兄は、納得したように頷いた。


『それ、健全な感覚だと思うよ。全然悪いことじゃない』

『だからさ、俺、この先もきっと、こうやって“普通に”生きてくんだろうなって思うんだ。嫌ってわけじゃなくて、たぶん今までがそうだったから、これからもそうなんじゃないかなって』

『うん、そう感じるのも分かる。でもさ、』


兄は、少しだけ真剣な目をして続けた。


『確かに人の性格や考え方って、そんな簡単に変わるもんじゃないよね。

たぶん陸は、俺より“いつもと違う方”を選ぶことにストレスを感じやすいタイプだと思う。

でもね、きっと陸の中で『やらなきゃ』って強く思う瞬間が来たら、そのときはちゃんとそっちを選ぶと思うよ』

『……』

『“ずっとこうだったから、これからもそう”なんて、実はそんなに当たり前じゃない。

何が起きるか分からないのが、この世界だもん』


***


「………!」


当時の兄の言葉に、陸はハッとする。


(これのこと……なのか――)


“やらなきゃいけない”って、強く思う瞬間――それは、今のことなのか?


でも、“強く”って、どのくらいだ?


その当時は野暮な質問だと思って飲み込んだ疑問が、今になって胸の中をぐるぐると駆け巡る。


「……聞いときゃよかった」


冷めきったコーヒーを啜る手が、小刻みに震えていた。

それに気づいて、また自己嫌悪が押し寄せる。


「……また逃げるのか」


これは、無視してはいけない――無視したらダメなやつだと、誰より自分が分かっている。


兄はあの日、戻らなかった。

今まで兄が約束を守らなかったことなどない。

その兄が――あの日だけは、帰ってこなかったのだ。

きっと兄は今、陸の知らない世界の中で、必死にもがいているのではないか。


――戻らなかった兄を、見つけ出す。


(――俺がやらなきゃ、誰がやる……!)


握った拳が、手首のブレスレット――母の形見に触れた。

母の最期の言葉が蘇る。


『海と二人、協力しあって、生きていくんだよ』


そうだ。兄弟二人、世界にたった一人の家族。

陸は、もうひとつの瑠璃色のブレスレット――兄のために用意されたそれを、ぎゅっと握りしめた。


「……これを渡さなきゃ、だろ」


不思議と、震えが収まっていく。


兄が姿を消したのは――クロノスの機密研究所「アルカナ」。


その場所に関する情報は極めて少なく、手がかりも人脈も、なにもない。


それでも――今回だけは、こちら側を選ばなきゃならない。命を燃やす生き方を。

選ばなかったら――今日の自分を、きっと一生許せないと陸は思う。


「……よし」


陸は、立ち上がった。

今日、兄を探しにここを出て行く。


そう決めたのだ。

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