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第3話「死神」

ハロワン第3話「死神」


「おーおーおーおー、泣いて喜べぇ? 死神サマのお出ましだぁ――――」

そう言ってあの日の銀髪の美青年は不敵に笑う。

オーデ襲来、死神降臨、母親の危篤連絡……なぜ今日は、特別なことばかり起こるのだ――。


――――――――――――――――――――――――――――――

残酷な描写はまだありません。


独自用語や舞台設定が多いので、リンク先に解説をまとめています!

物語の進行に併せて随時更新してまいります。

宜しければご覧くださいませ。

https://ncode.syosetu.com/n9351kp/1/

――――――――――――――――――――――――――――――

――現在、兄がアルカナへ旅立ってから、およそ二年が過ぎた。


その日、陸は珍しく有給を取っていた。

増え続けるオーデの脅威により、自衛官の現場は連日てんてこ舞いであり、陸が自ら休みを申請することなど、これまで数えるほどしかなかった。

だが今日は、何があっても外せない。

兄――海が、二年ぶりに帰ってくるのだ。


しかし、そんな貴重な非番の日にも関わらず、朝一番で予定は狂わされる。

「正午まででいい。頼む」

現場からの連絡だった。どうしても人手が足りないという。

本来、こうした緊急対応は待機中の自衛官に割り振られるはずだが、今回は非番の陸にまで出動要請が来た。

その事実が、いま現場が抱える深刻な人員不足を物語っていた。


アサインされたのは、アトランティス第25区”ドレヴァ”で行われる避難訓練の補助業務。

本来担当するはずだった隊員が、急遽別エリアの救護任務へ回されたらしい。

オーデによる被害は日々深刻さを増し、それに比例して自衛官志願者は減少傾向にあった。

待遇の改善や給与引き上げといった対策も、焼け石に水だった。慢性的な人手不足の中、現場では体調を崩す者も後を絶たない。

陸は一瞬迷ったが、訓練内容を確認し承諾することにした。


(正午までなら――なんとかなる)


現在、大陸内だけでなく、大陸外からのオーデ侵攻も想定され、ここアトランティスでも、政府の指導により避難訓練が定期的に実施されていた。

かつては半年に一度だった訓練も、いまや月例行事のように行われている。

ただし、ドレヴァはこれまで一度も大きなオーデの襲撃の被害を受けたことがない地域だ。陸の見渡す視線の先にいる住民の多くは訓練に対してどこか緊張感に欠けていた。


(今日も、ちゃっちゃと終わらせて帰ろう――)


陸自身もそんな思いで軽く背伸びをする。

蓄積された疲労がじわりと響いたが、今日はいつもと違い、緩く流せるはずだった。


しかし――その瞬間だった。


耳をつんざくような、鋭い警報音が響いた。

聞き慣れた訓練用のものとは明らかに異なる、重たく、思わず耳をふさぎたくなるようなサイレン。


「……なんだ?」


思わず呟く。

直後、背後から新人隊員の呑気な声が飛んだ。


「テスト音声っすかね?」


その声に返答するより早く、陸は近くの上官の顔を見た。

硬直したような表情。眉間に皺を寄せ、何かを見据えるような目――


これは訓練じゃない。


スピーカーがノイズを含んだあと、無機質なアナウンスが始まった。


『これは訓練ではありません。エリア第25区“ドレヴァ”の皆さん。

およそXフィート先にて、オーデの反応を感知しました。

ただちにマントを着用し、建物内などの安全な場所へ避難してください。

繰り返します――これは訓練ではありません……』


新人が血の気の引いた顔で陸に縋るように声を上げた。


「え……やばくないっすか……?ど、どうしましょう!」


陸は周囲を見渡す。

ただでさえ“訓練慣れ”した住民たちだ。この異常事態に、即座に動ける者など、ほとんどいない。


足を止め、サイレンを見上げる人。

「なにこれぇ?」と笑い合う若者。

「やばいやばい」と騒ぎ立て、むしろテンションが上がっている者。

意味もわからず泣き出す子ども。

騒ぎに気づかぬままベンチでくつろぐ老人。


あらゆる光景が混在し、現場は瞬く間に混沌に包まれた。

陸はひとつ深呼吸をし、腹の底から声を張った。


「これは……これは訓練じゃありません!」


その声が、現場に響いた。


「みなさん、近くの自衛官の指示に従ってください!安全な建物や避難所に――すぐに避難を!」


少し離れた場所からも、他の隊員たちが声を張り上げているのが聞こえる。

その声が重なり、背中を押されるようにして、陸はさらに大きな声で指示を飛ばす。


「建物内や避難所へ、ただちに退避を! 急いで!――今日は、本番です!」


次第に、ひとり、またひとりと、周囲の人々が動き出した。

不安げにきょろきょろと辺りを見回しながらも、彼らは指示に従って避難所へと足を向け始めていた。

ふと、さっきまで背後にいた新人に目をやると、彼はその場で固まり、手元でもたもたとマントに腕を通そうとしているところだった。


「――新人!」

「はっ、はいッ?!」


陸の呼びかけに反射して跳ねるように返事をする彼に、端的に力強く指示を出す。


「ここは君に任せる。自分はまだ声が届いていないエリアを回る。住民を避難させるんだ、訓練通り、声を出せ! 一人でも多く、避難を完了させる。いいな!」

「は、はいッ!!」


その返事を確認し、陸は迷いなく駆け出した。


『繰り返します。これは訓練ではありません――』


再び、鋭く響くサイレンとともに、クロノスによる避難放送が流れる。

状況を把握した大半の自衛官たちは各所で指示を出している。

どうせ誤作動だろうとまだ信じていない者や、この混乱を収めようと動画を回す者も相変わらず居たが、大半は近くの自衛官の指示を聴き入れ、我先に逃げようとしていた。


陸はスピーカーから響くアナウンスの続報に耳を傾ける。

オーデが――数分前よりも格段に近づいている。その距離の詰まり方は、あまりにも早すぎた。今までの陸の経験則では測れないスピード感だ。


「もう……そんなに……」


思わず呟いた声には、驚きよりも底冷えするような不安が滲んでいた。

自衛官として培ってきた経験値が、警鐘を鳴らしている。

これまでの訓練や現場経験では対応しきれない――これは明らかに想定外だ。


この状況では、ほとんどの住民が避難しきれない。自分たち自衛官も、例外ではない。

最悪の結末が、じわじわと意識の端を侵食していく。

陸はそれを振り払うように、大きく息を吸い込み、喉が裂けるほどの声で叫んだ。


「走れ! そこの子供連れは先に進ませろ! 立ち止まるな!」


その声に呼応するように、遠くで誘導をしていた自衛官たちの声も、次第に張り詰めていった。

皆が恐怖に突き動かされるように、怒号の渦の中で命を守ろうと必死に声を張り上げている。

その時、陸の肩を強く叩く手があった。

振り返ると、軍帽の奥に険しい顔をした男――中佐の 槙島 が立っていた。陸の直属の上官であり、陸が信頼する人物だ。


「篁、近隣の避難所はすでに満員だ。ここにいる連中は、さらに一区画先の避難所へ誘導する」

「はッ……ですが中佐、ここには子供や高齢者ばかりです! あの距離まで逃がすには、あまりにも……!」


脳裏に、人々の顔が一斉に浮かぶ。

祖母の手を引く少年。歩行器を使う老人。赤子を抱いた母親――

到底、全員が間に合うとは思えなかった。


「すでに避難できた中から、脚力のある若い男性を再配置してはどうでしょうか。彼らを先導に――」

「無理だ。この混乱じゃ、指示系統はもう機能していない。今できる最善を尽くして、一人でも多く避難を完了させる、それだけだ……!」


普段は穏やかで冷静な槙島の顔が、今は強張り、血走った目に焦りが滲んでいた。首筋には冷や汗が伝っている。

それを見た陸は、もうそれ以上の進言は控えざるを得なかった。


現場はすでに地獄と化していた。

将棋倒し、パニックによる転倒、押し潰されるように倒れていく人々。誰かを助ければ、別の誰かが犠牲になる――そんな極限だった。


導守(しるべもり)はまだ来ないのか!」

「何してんだよあいつら、こんなときに!」

「税金いくら使ってんだと思ってんだよ!」


恐怖と絶望に支配された群衆の中から怒りの声が飛び交う。

やり場のない感情が、最前線で奮闘する自衛官たちに向けられていた。中には、自衛官の胸ぐらを掴み、無線機を奪おうとする者までいる。


導守――今回の災厄の元凶であるオーデに唯一対抗できる、特別な力を持つ存在。

この状況に、彼ら以外の人間が為せる術など何も無い。皆がただひたすら、彼らに縋るしかなかった。

感知器が鳴った瞬間に、導守と彼らを守るために戦うFANGに、クロノスが直ちに出動を指示しているはずだ。

しかし、その姿はまだ見えない。


(……もう、最前線に向かったのか?)


陸は不安を押し殺しながら、隣に立つ槙島へ問う。


「中佐。導守とFANGは、どうなりましたか」


もしすでに到着しているのなら、情報を共有するだけで混乱を少しでも抑えられる。

まだであれば、手段を問わず、とにかく時間を稼ぎ、あらゆる手を尽くしてより多くの命を避難させるしかない。


「……まだだ。出動要請はひっきりなしに出してるが、現場の混乱を見たクロノスが、出動を一時見合わせているらしい」

「……は?」


聞き間違いかと、陸は思った。


(この非常事態に、出動を見合わせる……?)


「……それは、なぜですか」

「導守とFANGの身を案じての判断だ。もう少し状況が落ち着いてから、だと」

「そんな……それじゃ、手遅れになります……!」


陸は、言葉を詰まらせた。

槙島は目を伏せ、目の前の惨状を見ながら、思わず強く結んだ唇から言葉が漏れ出る。


「……最悪だ……」


その間にも、無情なアナウンスが響く。

それは、オーデがすでに目前に迫っていることを、淡々と告げていた。


「……クロノスは、このエリアにいる数千の民間人よりも、導守の安全を優先した。長期的に見れば賢明な判断かもしれんが……」


槙島は、逃げ惑う人々の渦を俯瞰しながら、現実を受け入れられないような表情を浮かべた。


「……これはあまりに、残酷すぎる」


その声はひどく掠れていた。

陸もまた、崩れゆく秩序の中で、言葉を失っていた。


――だが、そのときだった。

視界の端に、動きがあった。


黒装束の一団が、階下の広場に現れた――導守とFANGが来たのだ。


「……あれ……導守……!」


思わず声が漏れた。陸は希望にすがるような気持ちで声をあげた。


「彼ら来ましたよ……! ……よかった……」


ようやく来た。彼らがこの混乱を終わらせてくれる――


「いや、違う」


隣で、槙島が低く呟いた。


「……え?」

「あれは本丸じゃない。奴らじゃ、この場は収められない」


槙島の視線は、階下に集う黒装束の中心に向けられていた。その目には、どこか哀れみすら宿っている。


「本丸が来るまでの、時間稼ぎだろう……ずいぶんと重い役目を押し付けられちまったな……それに、本当にこのあと本丸が来るのかどうかすら怪しい」


その言葉に、陸は思わず拳を握った。


この異常事態――大陸外からの襲撃。

そんなものに対応できるのは、導守の中でも最高位にあたる“白冠(はっかん)”だけだ。クロノスが彼らを温存しようとしているという事実こそ、それを物語っていた。

つまり今現れた彼らは、“たまたま近くにいた”がために、繋ぎとして駆り出された――不運な者たちだった。


「……本丸って、白冠のことですか」


陸の問いに、槙島は少し声を落として答えた。


「……恐らく、“ただの白冠”なら、クロノスはここまで出し惜しまない」


その言葉に、陸はさらに息を呑む。

槙島の視線は遠く、何かを見透かしているようだった。

含みをもたせる言い方に、陸は思わず続きを求めるような目を向ける。


槙島は一度短く息を吸い、それから口を開いた。


「……こんな未曽有の展開、もう“死神”しか手に負えんだろう」

「……死神……?」


小さく問い返すと、槙島は無言で頷いた。その目には、どこか諦めにも似た色が宿っていた。


「白冠の中でも、デッドアサインと呼ばれる推定致死率70%以上の案件ばかりをこなす、上位数名の真の実力者だけを指す俗称だ。引き連れたFANGが全滅しても、敵を討ち、任務を完遂し、五体満足で帰還する――その姿がまるで“死神”のようだと語られたことに由来してそう呼ばれてるらしい」


陸は、ただ静かに耳を傾けていた。


「俺も、直接見たことはない。ただ、いわば大陸最強の護衛軍を、クロノスが掌握していないはずがない。噂じゃ、彼らはクロノスの加護を受けていて、桁違いの報酬で動いてるって話だ」


槙島は一度わずかな間を置き、声を低くした。


「クロノスは、命に明確な“優先順位”をつけている」


その言葉を聞いた瞬間、陸の胸に、冷たいものがすっと流れ込んだ。


(……やっぱり、そうか)


薄々気づいてはいた。

だが、信頼する上官の口から改めて聞かされたことで、それは逃れようのない現実としてのしかかってきた。


(導守の中ですら、優先される命とそうでない命があるっていうのか。だったら、今ここで助けを求めてる市民なんて……)


陸の顔に、影が差す。胸の内で膨れ上がる違和感と苛立ちが蠢く。


(たしかに、兵器や戦術には“使いどころ”ってものがある。状況を見て適切な手段を選ぶのは合理的だ。けど、これは――命の話だ。生きてる、血の通った人間同士のことだぞ。目的のためなら人間をも道具みたいに使うってことか……)


――!

そのとき、脳裏にある存在がよぎる。

兄・海が行った、アルカナのことだ。


(アルカナは……? あそこなんて……その、クロノス本部にあるけど…)


頭の中で不穏な疑念がぶくぶくとふとっていく。

恐怖と混乱の渦の中、これまで見ないようにしていた疑念が、じわじわと輪郭を帯びはじめていた――。

その時だった。


「おせーぞ!!」


怒鳴り声が飛び、陸ははっと現実に引き戻された。


「早くオーデを止めてくれーー!」

「税金泥棒が! 仕事しろ! さっさとやれぇ!」


罵声の主は、逃げ惑う中で恐怖と怒りを抱えた民衆だった。

彼らの視線の先には、黒装束の一団の姿がある。


その光景に、陸の胸が痛んだ。

彼らは命を懸けて戦おうとしている。それなのに、浴びせられるのは罵声ばかりだ。

中心にいる導守にも、間違いなく今の民衆の怒号は届いているはずだ。その手が、明らかに震えている。

陸は槙島とともに、怒声を上げる群衆を少しでもなだめようと声を張る。


「無駄口を叩くな! 速やかに前へ進め!」


ふと、導守に目を向けた陸は、彼が懐からナイフを取り出し、それをじっと見つめているのに気づいた。

その仕草に、陸の背筋に冷たいものが走る。


(まさか……)


直感が、警鐘を鳴らしていた。彼は今――自ら命を絶とうとしている。


迷っている時間はなかった。考えるよりも早く、陸の身体は動いていた。

説得の言葉も、計画もなかったが、ただ一つ、ナイフを取り上げる。それだけが、今すぐできることだった。


陸は瞬時に導守の背後に回り、一気に羽交い締めにした。


「……! 離せ!! もう嫌だ!! 全部終わりにしたい! 離せぇ!!!」


悲鳴のような叫び声。震える声には、恐怖と絶望が滲んでいた。

黒装束の下、導守の男の顔は青ざめ、目には理性の光がほとんど残っていない。

目元の印象から察するに、彼は陸より一回り以上は年上の成人男性のようだった。陸の方が若いとはいえ、必死の抵抗は容易に押さえ込めるものではない。

それでも陸は腕を捻り上げ、ナイフを取り上げた。


「それ以上暴れたら、拘束するぞ」


短く、鋭く告げた陸の声に、導守はまるで幼子のように、嗚咽混じりに叫びながら、力なく崩れるように泣き出した。


と、その時――


「おーおーおーおー。そうだ、そうだぁ。泣いて喜べぇ……?」


その場の空気とはまるで異質な温度を帯びた声だった。

悲鳴でも怒号でもなく、恐怖や焦燥の一片も感じさせない。異様なまでに静けさを湛えた、低く抑揚のない声。

冷めきったその声音に、空気ごと引き締められるように周囲が一瞬にして静まりかえる。


その声の主に、陸は視線を向ける。

そこに立っていたのは、純白の装甲に身を包んだひとりの人物。


それは間違いなく――白冠。


声から察するに男だが、全身を白銀の装備で覆い、肌の一寸も見せていない。表情も仮面で隠され、年齢すら判別できない。

だが、彼がただその場に“立っているだけ”で、圧倒的な威圧感が、あたり一帯に広がっていた。


彼の手元には、いつの間にか、先ほど陸に羽交い絞めにされた導守が自害に使おうとしていたあのナイフがあった。

誰もそれを拾った瞬間を見ていない。

彼はそれをまるでおもちゃのように、指先で軽やかに回しながら言った。


「――死神サマのお出ましだぁ」


疾風が吹き抜けたような衝動が走り、陸の背筋がぞわりと粟立った。


“死神”と名乗った彼は、ふざけた口調とは裏腹に、装備の奥にちらりとのぞくその瞳は、氷のように冷たく、いっさいの感情を欠いていた。

その眼光は、視線を向けられただけで、どんな猛獣でさえ一瞬で獲物に変えてしまうほど。その瞳に捉えられたら最後、終わりを突き付けられるように鋭い眼光に射貫かれる。


これが、槙島の言っていた本丸――白冠の最高峰――本物の“死神”だ。


そして次の瞬間、陸の脳裏に、ある記憶がよみがえった。

二年前――明け方の救護活動中に、ほんの一瞬言葉を交わした、あの銀紫の長髪の青年――。


(……まさか)


声。気配。そして仮面の隙間からのぞく、淡く銀を帯びた髪。

確信した。

間違いない――あの時の彼だ。


当時、彼は陸よりも小柄に見え、どこかあどけなささえ感じさせる風貌で、学生かとも思えるほどだった。

しかし、今、この場に立つ彼からは、まるで大いなる存在を思わせるような、神聖で、それでいて禍々しいオーラが立ち昇っている。

その異質な存在感が、姿形以上に彼を異次元の者にしていた。


自殺を図ろうとしていた導守は、陸に押さえつけられたまま声も出せず、ただ呆然とその若き死神を見つめていた。

その姿は、死神の冷気に、心そのものを凍てつかせられたかのようだった。口元がかすかに動いていたが、言葉にはならず、虚しく空を切るだけだった。


そのとき、少し離れた方角から、また別の声が響いた。


「我が君――」


静かで、どこか親密な響きを持った呼びかけに、死神はちらりとそちらに目を向け、小さく返す。


「おー、今行く」


それだけ告げると、彼は再び陸の方へと視線を戻す。

何かを測るように、ほんの一瞬じっと見つめ――


「ごくろーさまぁ」


仮面の下の表情は見えない。

どこか気の抜けたような、余裕を感じさせる口調でそれだけ言い残すと、死神は風に溶けるようにかき消え、彼を呼んだ方向へと姿を消した。


(……今のは、俺に言った……?)


陸の脳裏に、そんな考えがふと浮かぶ。

まさか、自分のことを覚えていたのか?――いや、そんなはずはない。あれは腕の中の導守に向けられたものだろうと思い直す。


しかし当の導守は、もはや限界を越えていた。

へたり込むようにその場に崩れ落ち、硬直した表情からは、生気がすっかり抜け落ちていた。

救われた安堵か、それとも――導守として見切りをつけられた絶望か。

その表情の意味を、陸には読み取ることができなかった。


「――篁!」


背後から名を呼ばれ、陸はようやく現実に意識を戻された。


「ハッ!」


慌てて返事を返すと、すぐに槙島が駆け寄ってくる。彼は状況を一瞥するや否や、ぐったりした導守の腕を自分の肩に回した。


「彼は、どうしますか」


陸も手伝おうと、案内人の足元に手を伸ばしかけた。

そのとき、槙島の眉がピクリと動いた。


「……お前、伝令を聞いていないのか」

「伝令……? すみません、聞き逃したかもしれません……」


混乱の中、本物の死神と対峙し、無線からの通信など耳に入っていなかった。

槙島は、一瞬だけ目を伏せ、それから口を開いた。

その言葉には、これまでのどんな命令とも違う重みがあった。


「なら今言う。お前の母親が危篤だ」

「……えっ」


陸は頭が真っ白になった。

あの死神を前にしたときとはまるで違う種類の恐怖が、陸の胸を貫いた。


「今すぐ向かえ。これは上官命令だ。ここでどれだけ我々が動こうが、救える命には限りがある。……こうなっては、もはやどこが安全かも分からん。各区の関所が封鎖される前に、母親のもとへ渡れ。いいな」

「……は、はい!」


迷っている暇は、もうどこにもなかった。陸はすぐに踵を返し、走り出す。

母のもとへ。

間に合え。どうか、間に合ってくれ――。


今日という日は、なぜこんなにも異常なのか。

次から次へと常軌を逸した出来事ばかりが押し寄せる。

けれど今は、そんなことを考えている場合じゃない。


何も考えるな。ただ、走れ。

ただ――走れ。


陸は、足が千切れるのではないかと思うほど、全力で駆け出していた。

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