第38話「別れ」
ハロワン第38話「別れ」
産土、朝霧、陸の三人は、朝霧の故郷〈白幻街〉に赴いていた。
そこで不意に〈終焉のオーデ〉について告げられた朝霧と陸。
そしてその後さらに、産土の口から告げられた事実に、陸は返す言葉を失うのだった――。
P.S.
書きながら、陸の気持ちを思って、胸がぎゅっとなりました。
でも産土側の気持ちも分かる……そんな切ない回でした。
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今回は、残酷な描写はありません。
独自用語や舞台設定が多いので、リンク先に解説をまとめています。
物語の進行に併せて随時更新してまいります。
宜しければご覧くださいませ。
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大雨が降り続けること、すでに二週間が経過していた。
灰色の空から降る止むことを大雨は、大地を濁流で削り、街道を泥濘に変え、家々の屋根を打ち鳴らしている。水煙は街の輪郭を曖昧にし、どこを見渡しても滲んだ浮世絵のようにぼやけていた。
産土、朝霧、そして陸の三人は、そんな荒天の中を抜けて、バルバロア郊外の〈白幻街〉に辿り着いていた。
ここは朝霧が生まれ育った故郷だ。
白幻街の石畳は雨に濡れ、足を踏みしめるたびに冷え切った水が靴底を伝っては染み込む。建物の壁はひび割れ、廃墟の隙間からは雨漏りがひっきりなしに滴り落ちていた。それでもこの街には、いまだ生き続ける人々の息遣いがあった。子どもの泣き声、鍋をかき混ぜる音、雨などお構いなしに取引を続ける大人の声――今日もこの街は変わらない。
今回ここを訪れたのは、因縁のオーデを倒したことを朝霧が伝えるためだ。
亡き親友――夜霧の墓へ。
「……ここに居ろ」
朝霧は、産土と陸を、かつて自分が寝床にしていた廃墟に伴うと、その一言だけ残して、墓へは一人で向かった。
河川敷の片隅、崩れかけた石垣に囲まれるようにして立つ小さな墓標。
それは、豪雨に晒され続けながらも、確かにそこに存在し続けていた。苔むした石肌に雨粒がひたひたと伝い落ちている。
朝霧はそこにゆっくりと膝を折った。
雨水でぐしゃりと沈む土を気にも留めず、長身の体を折り曲げると、傘を持っていない方の手で墓標を撫でる。冷たい石の感触が掌に重く沈む。
「……来たぞ、よる」
低く、掠れた声が雨音に溶けていく。
その声はただ亡き親友の魂にのみ届けばいいという、小さく優しく発せられたものだ。
「あいつを倒した」
掠れる声は、雨にかき消されそうなほど小さい。
どれほど仇を討とうとも、墓の下で眠る親友が帰ってくるわけではない。
それを理解しているからこそ、朝霧はしばらく、ただ無言で墓を見つめるだけだった。
長身の体を覆う黒い外套の上から、雨粒が規則正しく音を立ててはじける。
右手には傘をさしていたが、それでも靴の先からは水が染み込み、冷えた感覚がじわじわと広がっていった。
朝霧は低く息を吐いた。
そして握っていた傘を、地面へそっと横たえる。両手を自由にするために。
濡れることを厭わず、背筋を正しながら、ゆっくりと腰に下げていた日本刀うち、一本を取り出した。
それは夜霧の形見だった。
ずっと傍らにあった相棒であり、贖罪の証でもあった。
「借りてたもん……返すわ」
その言葉に合わせるように、朝霧は刀を両手でしっかりと抱え、まるで神前に供物を捧げるかのように、誠意を込めて墓石の前に置いた。
しっかりと磨きこまれ、研ぎ直された、一流の日本刀。
今日、夜霧のもとへ返すためだけに、朝霧が丹精込めて最後の手入れをしたものだ。
夜霧と交わした記憶が、走馬灯のように脳裏を過ぎる。焚き火の温もり、笑い合った声、最期に交わした言葉――。
「ありがとうな。よる」
冷たい雨が、朝霧の肩を叩き、その髪を濡らす。
だが彼は一切構わず、その場に額を垂れ、しばし動かなかった。
***
夜を裂くように大雨が降り続いていた。
廃墟と化した〈白幻街〉の一角、かつて住居だった建物の残骸に身を寄せ、産土と陸は焚き火のわずかな灯りの前で朝霧を待っていた。
壁に大きく空いた穴からは容赦なく雨が吹き込み、湿った空気がその場を満たした。
二人は分かっていた。今日の墓参りは、朝霧にとってただの報告ではなく、十三年間という長い年月の苦悩と決着をつける儀式だと。
だからこそ、無言でじっと待つしかなかった。
やがて――
ずぶ濡れの靴音が、廃墟の中に響いた。
雨水を滴らせながら、朝霧が重い足取りで戻ってくる。
傘は墓前に置いてきてしまったせいで、肩から腰にかけて完全に水を吸った黒い外套は肌に貼りつき、髪も額に濡れて垂れていた。
「……」
焚き火の明かりが、その姿を赤く照らす。
いつも腰から下げている二本の刀うち、一本は持っていない。いつも彼の隣にあったはずの日本刀が、今夜はそこには無かった。
「おかえり」
産土が短く声をかける。
その声音は、からかうでも慰めるでもなく、ただ静かに朝霧を迎え入れた。
朝霧は無言のまま、濡れた靴を鳴らしながら焚き火のそばに歩み寄り、無言のまま腰を下ろす。
水滴が床に落ち、じわじわと広がっていく。
「……びしょ濡れだな。はい」
陸がタオルを差し出す。
朝霧は受け取り、ぐしゃりと顔を拭った。
「……さんきゅ」
朝霧はタオルを頭から被ったまま、しばらくぼうっと焚火を見つめていた。
焚火に照らされたその横顔を、産土も陸も時折静かに見守っては、どこかに目線を泳がせる。
焚き火のはぜる音だけがしばらく場を支配する。
そんな中、産土がふいに口を開いた。
「……あんぱん。こんな時に悪いんだけど、いま言っとかなきゃいけないことがある」
その声音には、いつもの軽薄さも皮肉めいた調子も一切なかった。
ぽつりと落とされたはずの言葉が、やけに重く、部屋の湿った空気に沈殿していく。
普段なら飄々とした笑みを浮かべ、煙に巻くように話す男が、今は言葉を探すように、ひとつひとつ噛み締めながら紡いでいた。
「勿論、陸も。聞いてね」
促されて、陸は背筋を正し、神妙な面持ちでただ頷く。
産土がこれほど真剣に話を切り出すのは初めてだ――そう直感したからこそ、無闇に言葉を挟むことなどできなかった。
そして語られたのは、久遠から受け取った情報――朧の計画、終焉のオーデ、クロノスが望むという“新世界”の全貌だった。
飄々とした声音に戻ることなく、産土は淡々と、だが決して冗談ではないという重みをもって説明していく。
朝霧は最初こそ煙草をくゆらせていたが、話が進むにつれ彼の口から煙が途切れた。やがて無言で腕を組み、険しい顔で静かに耳を傾ける。
陸に至っては、全てを聞き終える頃には頷くことすら忘れ、ただ目を見開いたまま石のように固まっていた。
しん、とした沈黙が場を支配する。
廃墟に降る雨音だけが、彼らの頭上に絶え間なく降り注いでいた。
「……とまぁ、一応、いまこんなことになってんのよ」
唐突に産土が手をひらひらと振り、わざとらしく空気を切り替えた。
廃墟のソファに長い脚を放り出し、肩をすくめて軽く笑う。
まるでさっきの重苦しい説明など幻だったかのように。
「……だからか」
最初に沈黙を破ったのは朝霧だった。
低く絞り出すように吐かれたその言葉は、雨音よりも重たく耳に響く。
「クロノスから一番遠いここなら、話すにゃうってつけだもんな」
わざわざ付き合いの悪い産土がここまで同行した理由――真の目的を知り、朝霧は独りで納得したように呟く。
「感想、それぇ? ま、あんぱんらしいけど」
産土はにやりと笑い、わざと軽口を叩いてみせる。
その姿はいつもの産土そのものだったが、さっきまでの言葉の重みは三人の胸から消え去りはしない。
一方の陸は、頭が情報の渦に飲まれ、限界を迎えていた。
口を開こうとしても、言葉にならない。胸の奥で膨れ上がる不安と衝撃が、彼をただ黙らせていた。
「終焉と対峙できるのは、開闢の力だけ。つまり、この世で俺一人らしい。酷くない……? 酷すぎて笑けるよね」
産土はへらりといつもの調子で笑った。
だが、その笑みは張りついているだけで、目の奥には深い影が落ちていた。
朝霧も陸も、反射的に表情を引き締める。産土が冗談めかして話しているのに、空気は冗談を許さなかった。二人はただ、無言で彼を見つめるしかできない。
産土は、しばし視線を落とし、それから真っ直ぐに二人を見据えた。
「正直、今まで、自分のことしか信じてこなかった。自分が最強だと思ってたし、実際そうだし……基本他人なんてあてにならないと思って生きてきた。 それが辛いとか、悲しいとか、本当は誰かを頼りたいとか……そんなこと、思ったこともなかった。むしろ周りなんて足枷に見えてたし。 基本何をするにも自分だけの力でって――そういう性分だしね」
声は不思議と静かで、だからこそ重かった。
軽口でも虚勢でもない。産土の本音そのものだった。
「……でもね、それが今は、お前達の力を借りられないことを、心から……寂しく思うんだ。……うん、寂しいな……こんなに心細いのは、はじめての感覚だよ……」
言葉と同時に、長い睫毛の影が彼の目元を覆う。
ほんの一瞬、息を飲むような沈黙が生まれる。
「…………怖い」
その一言が落ちた瞬間、部屋の空気が凍りついた。
最強と豪語し、常に余裕の笑みを崩さなかった男が、初めて口にした脆さ。
朝霧も陸も、息を詰めたまま目を逸らすことすらできなかった。
産土は、組んだ手を膝の上で握りしめ、震えを押さえ込むように大きく呼吸した。
「今までだって、やばいことはいっぱいあった。でもなんてことはなかった。賭けるのはいつも自分の命だけだったから。でも今回は、違いすぎる。俺がしくったら、全部終わる。失敗の代償が……重すぎる」
声がかすかに震える。
彼は美しい顔を歪め、額を押さえた。
「それに、肝心の開闢の使い方も知らない……いつもなんとなく、自分の中でうっすらビジョンが見えてたけど、今回はそれがまったくないんだよ」
産土の肩が小さく上下する。普段の彼を知る二人には、それが震えだとすぐに分かった。
「……とても、いつものことだとわりきれない……自信が無いとか、そんな感覚すらはかれない程に――ただただ、逃げたいんだ」
そう言って、産土は深く俯いた。
握った手はわずかに震え、声には罪悪感が滲んでいる。
「こんな奴に運命を託すしかなくて……ごめんな」
その姿は、あの最強――“産土漂”ではなかった。
最強の男でも、飄々と笑う男でもない。
ただ一人の人間として、どうしようもない宿命に押し潰されかけている姿だった。
陸は胸の奥を抉られるような痛みに堪えながら、必死で言葉を探す。
「抱え込むな」と叫びたかったが、自分にできることの小ささを理解しているがゆえに、軽はずみに声をかけることもできない。
ただただ、産土から目を逸らせない。
しかし――
「てなわけで――この話は終わりー! はい終了!」
張りのあるいつもの声色と、顔を上げた産土の表情は、ほんの数秒前まで震えていた男と同一人物とは思えないほど、一瞬で切り替わっていた。
長い前髪をかき上げ、わざとらしく口角を吊り上げる。その仕草ひとつで場の空気がガラリと変わる。
「陸! ビックニュース! こっちが今日の本題。腰抜かすなよ?」
軽口と共に、産土は両手を広げて芝居がかったポーズを取る。
数秒前までの重苦しい吐露など存在しなかったかのように、産土はまるで辛気臭い雰囲気を一掃する如く、軽薄な笑みを顔いっぱいに貼りつけていた。
「……え?」
陸は完全に翻弄されていた。
あまりにも急激な振り幅に、頭がついていかない。
「じゃーん!」
産土が懐から取り出したのは、一枚のカードだった。
きらりと光るそれを差し出す仕草は、まるでマジックショーの種明かしのように軽やかだ。
―――ッ!
それは――クロノスの極秘研究機関、陸の兄が連れ去られた〈アルカナ〉への、専用招待カードだった。
専用のプログラムが埋め込まれており、使用できるのは一度きり。
入館の度に、クロノスからの再発行が必要な入手困難を極める専用招待カードだった。
「どうやって……これを……」
陸は声を震わせながらそれを受け取る。
すると、産土は普段なら絶対に見せない、優しげな微笑みをほんの一瞬だけ浮かべた。
「もう陸は十分に英雄だよ。大物を二体も仕留めたし、知恵を絞ってプロジェクトを成功に導いた。それに俺を五体満足でもう何度も帰還させてる。誰がどう見たって、立派な英雄でしょ」
その言葉に、隣で朝霧も黙って深々と頷く。
産土の語った内容は確かに真実だが、それは陸一人の力では到底成しえなかったことだ。
そのことを誰よりも自覚している陸は、思わず反論を口にしかける。
「それは――」
だが、次の瞬間、産土の一言で、また空気が一瞬で切り替わった。
「だから――もう次の任務は、着いてくるな」
「……え?」
陸の顔が凍りつく。
笑っているはずの産土の目の奥は、一瞬、鋭く、そしてどこか切なげに光った。
だが彼はすぐに、またいつもの調子に戻り、冗談めかして言う。
「英雄様はここでお留守番。残りは大人に任せときなさいっ」
――陸に悟らせまいとするかのように。
から元気で空気を軽く塗り潰すその背中に、ほんのわずか、張り詰めた哀しさが滲んでいるのを、朝霧は隣にいて、無言で理解していた。
陸をあえて突き放すように――まるで流れる水のように、産土の言葉は淀みなく続いた。
「ちなみに、これもう決定事項だから。ぎゃーぎゃー言ったってもついて来れないよん」
「……っ!」
その声音は軽やかだったが、突きつけられた言葉の鋭さは容赦がない。
陸の胸に、ざくりと冷たい刃が突き立てられたかのようだった。
(そんな……いきなり……そんなこと……)
心の奥で言葉にならない動揺が渦を巻く。
まるで突然別れを告げられた恋人のように、陸の心は狼狽に染まっていた。
――任務に同行しなくていい。
それはつまり、普通の生活に戻れるということ。
危険から遠ざかり、この先も生き延びられる可能性がぐっと高くなるということだ。
理屈で言えば、それは「良いこと」だった。
誰がどう見ても状況は好転した。
だが当の本人――陸だけが、なぜかその事実を受け入れられずにいた。
「……でも、血誓も結んだし……」
掠れた声で、かろうじて反論を試みる。
しかし産土はその必死さを、わざと軽々と踏みつけるように返した。
「大丈夫。もう俺の方で契約切ってあるし」
「……っ」
さらりと告げられたその一言に、陸は言葉を失った。
呼吸すら浅くなる。
それほどまでに簡単に、今まで積み上げてきた「絆」が切り捨てられるのか――。
産土はそんな陸の動揺など意にも介さず、悪びれもしない声で続ける。
「あー、知らなかった? 死神はいつでも、FANGの意思とか関係なく専属契約を破棄できる権利があんのよ。あ、ちなみに、専属外された時点でFANGの資格も剥奪だからね?
――もう陸はFANGじゃない。任務への同行は不可。勝手についてきたら逮捕されちゃうんだから、ついてきちゃだめよー?」
「……な、なんだ……それ……」
陸の声は震え、今にも消え入りそうだった。
あまりに急すぎる通告。
朝霧ですら何も口を挟めず、ただ黙って見守るしかない。
だが産土が陸の力を軽んじているわけではないことは、誰の目にも明らかだった。
そこにあるのは――
陸を戦場から解放し、普通の人生へと返してやりたい。
ただ、それだけの願いだった。
「――遅くなっちゃったけど、」
産土はようやく、陸の正面に向き直った。
その眼差しは、いつもの軽薄な色をすっかり潜め、どこまでも優しかった。
「お前は自由だ。……今までありがとな。お疲れ様」
その声音は、今まで陸が聞いた中で一番穏やかで温かかった。
慈しむような眼差しと共に送られたその言葉は、陸の胸を突き破るほどの重さを持っていた。
「……っ」
陸の胸の奥が軋む。
ほんの数か月の付き合いではあったが、陸は産土という男がどういう人間かを痛いほど知っていた。
いつもは軽口ばかりで適当な顔をしている。だが肝心なところでは、必ず自分の思惑通りに事を運ぶ。
しかもそれを悟らせず、気づいた時には既に外堀がきっちりと埋められている。
だからこそ――今、自分が何を言っても、どんなに足掻いても、もう全てが産土の掌の上で決まってしまったことなのだと、陸は誰よりも理解していた。
(……そういえば)
思い返すと、いくつもの小さな違和感が脳裏をよぎった。
討伐から帰還するたび、産土がふと気まぐれに姿を消すことが何度もあった。誰にも理由を告げず、夜の街に溶けていく背中。
翌朝の彼は決まって寝不足そうで、それを「夜遊びでもしてたんだろう」と軽く流していたが――今思えば。
(あれは……クロノスに交渉してたのか? アルカナへの入場のために……俺のために……)
口にすれば「自惚れんなよ」と軽く流されて終わるだろう。実際、ただの思い込みかもしれない。
けれど陸は、胸の奥が熱く疼いた。
産土なら――あの飄々とした笑みの裏で、きっとそういうことをやってのけていたのではないか。
「じゃ、俺ちょっと買い物しがてら帰るから。帰りは各々で」
それだけ言って、産土は何事もなかったかのように踵を返した。
その背中は、いつもと同じはずなのに、どこか痛いほど遠く感じられた。
やがて闇にその姿が飲まれ、残されたのは陸と朝霧だけ。
静寂が降りる。
遠くで大雨が叩きつける音さえ、やけに耳につく。
陸は立ち尽くしたまま、唇を震わせる。何かを言おうとして、結局のみ込むように強く噛んだ。
そして、不意に掠れる声を漏らした。
「……あんぱんは?」
自分でも驚くほど、頼りなく弱い声だった。
朝霧はその問いに少し目を伏せ、懐からタバコの箱を取り出した。
だが一本抜いただけで火はつけず、ただ指先で弄びながら答える。
「……俺は変わらないさ」
その声は静かで重く、雨音に溶けて消え入りそうだった。
「まだボスとの約束を果たしてない。それが終わるまでは、傍を離れる気はない。……終焉の件もあるしな」
「……そっか」
陸の声は遠く、ひどく頼りない。
心ここにあらずの響きがした。
そしてぽつりと呟く。
「……俺だけ、変わるんだな」
言葉と同時に、無意識に拳を握りしめる。
爪が手のひらに食い込み、痛みが走っても、それすら今の陸にとっては現実感を繋ぎ止めるための拠り所に過ぎなかった。
朝霧は、沈黙のまま隣に立つ陸の横顔をしばし見つめていた。
その眼差しは、戦場での鋭いものではなく、どこか懐かしむような柔らかさを帯びている。
「……ボスも、俺も、お前のことは、元いた日常に戻してやりたかった。唐突な形にはなっちまったが……これはこれで、良かったんじゃないかと俺は思ってる」
不器用に、しかし確かな想いを込めてそう言うと、朝霧はふっと口元を緩めた。
その微笑みは優しくも頼もしく、陸の胸に深く刻まれる。
「お前は、地頭がいい。センスもある」
不意に告げられた言葉に、陸は思わず顔を上げた。
耳慣れない評価に、返す言葉も見つからず、ただまっすぐに朝霧を見つめる。
「懐かしいな……ここに来ると、お前と初めてあった日を思い出すよ」
朝霧の視線は遠く荒野に向けられ、細められた瞳にはどこか遠い記憶が映っていた。
陸もまた、その横顔を見ながら、まだ何も知らずに戸惑ってばかりいた自分を思い出す。
「……」
胸の奥がざわつく。
それを振り払うように、朝霧は視線を戻し、低くしかし温かく続けた。
「俺は、お前の言葉や行動に、何度も動かされた気がしてる。そして……それは俺だけじゃない。産土も、他の死神たちも、多分一度は感じたことがあったはずだ。お前には多分、そういう……人を動かす力がある」
陸は思わず息を呑んだ。
それは照れや誇らしさではなく、胸に重くのしかかる実感だった。
朝霧は取り出していた一本のタバコをそのまま指先で転がしながら、切ない笑みを浮かべて陸を見やる。
「……陸、楽しかった。ありがとう。兄貴に宜しくな」
その一言が、まるで胸の奥深くを突かれるように響いた。
陸は喉が熱くなり、言葉が出ない。
朝霧はそれ以上は何も言わず、踵を返して静かに背を向ける。ずぶ濡れの背中が遠ざかっていく。
「……あんぱん……」
声にならないほど小さな呟きが、冷たいバルバロアの空気に溶けて消えた。
陸はただ、その背中を見送ることしかできなかった。
残された陸の手には、産土から託された〈アルカナ〉への切符が強く握りしめられている。
それは陸ひとりの力では決して手に入れられなかったもの。
これで、ついに兄貴に会える。
――ずっとこの瞬間を夢見てきたはずだった。
激動の半年間、幾度となく生死をさまよいながらも、この目標だけを支えにして生きてきた。
なのに、胸の奥を占めるのは歓喜ではなく、どうしようもない切なさだった。
産土、朝霧――自分はもうあの二人と共には歩めない。
切符を握る手に力を込めながら、陸はその事実を受け入れきれずに立ち尽くしていた。




