第2話「ただ見ていた」
第2話『ただ見ていた』
陸は久しぶりに実家で穏やかな夜を過ごす。
しかし胸の奥はオーデ騒動の余波に揺れており、兄がアルカナにスカウトされたとの知らせにも、なぜだか手放しには喜べずにいた――。
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残酷な描写はまだありません。
独自用語や舞台設定が多いので、リンク先に解説をまとめています。
物語の進行に併せて随時更新してまいります。
宜しければご覧くださいませ。
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【明け方 ―― アトランティス第13区“ザンミア”にて】
夜の闇がまだ空の端に名残をとどめる時間帯。
地平線の向こうに滲む仄かな朝の光が、崩れかけたビルや焼け焦げた瓦礫の影を長く引き伸ばしていた。
昨夜のオーデ襲来の爪痕は深く、あちこちに散らばる破片や瓦礫が、それが単なる悪夢ではなかったことを如実に物語っている。
空気中には、焼けたコンクリートや鉄の臭いがまだ微かに残っていた。
そんな荒れた現場の片隅で、久遠 天愛 は瓦礫の上に腰を下ろし、心底うんざりしたようにため息を吐いた。
腰に届かない程度の銀紫の長髪が、明け方のひんやりとした風に遊ばれて、彼の色白でひんやりとした陶器の様な肌をあらわにする。
「……これくらいなら、俺が出なくてもよかったよなぁ」
久遠はこのエリアを管轄する導守ではない。本来の担当者が病欠したために、急遽緊急アサインされ対応した。
隣に立つ男――漆黒の軍服に身を包む、端正な顔立ちに恵まれた体格の長身の男へ、久遠はあからさまに不満げな顔をしながらぶつぶつと文句をぶつける。
「高く見積もって“中の上”。……ったく、こんくらいで仮病つかうとか……あーあ、疲れたぁ」
愚痴の聞き役である軍服の男は名を 高嶺 といい、久遠の専属FANGである。
彼は年下の主の愚痴を受け流すように、淡々と佇んでいる。
たったいま戦闘を終えたばかりとは思えないほど身なりは整っており、彼の漆黒の外套は夜の闇の残滓を纏ったまま風に揺れていた。
「我が君。貴方ほどの方が、この程度の任務で済むのなら、むしろ喜ぶべきかと」
任務が終わっても、高嶺の警戒は緩まない。
穏やかな声音でそう返しながらも、その視線は戦場の名残を的確に分析している。
「は~~……高嶺はなぁーんもわかってない」
久遠はわざとらしく欠伸まじりに文句を言いながら、その場で小さく伸びをした。
その時、けたたましいサイレンが二人の程近くまで迫ってきた。
「来ましたね」
高嶺がちらりと横目に確認する先には、区の緊急対応部隊、そして自衛官たちの車両が次々と現場に乗り付けてきた。
オーデの襲撃があった以上、被害状況の確認と救護、さらには二次災害の予防措置が急務だ。
救急隊や自衛官は次々と負傷者を探し、瓦礫の除去に取りかかっている。
その中には、陸の姿もあった。彼は警戒しながら、仲間たちと共に慎重に歩みを進めていく。
傾いた建物、地割れのように裂けた道路。目に飛び込んでくる光景は、決して小規模な被害ではないが――
(……妙だな)
陸の眉間に、かすかな皺が寄る。
昨夜の襲撃はもっと激しかったはずだ。それにしては、負傷者の数も街の崩壊の程度も少なすぎる。
恐らく予期せぬ強力な何かによって、想定以上の損害を出さずに済んだのだろう。そうでなければ説明がつかないほど、事前情報と実情が違いすぎた。
そんな時、その思考を破るように、不機嫌そうな声が陸の耳にふと届いた。
「いっそクロノス本部にドッカーンてなんねぇかな〜。そしたら俺もこき使われなくて済むじゃんか」
「お気持ちは分かりますが、不謹慎な発言は……」
「へーへー、わーってるよ……真面目だなぁ、高嶺は」
陸は、声の方へ顔を向けた。
そこには、気怠げに座り込む青年の姿があった。
猫背にかかる長い髪は薄暗い朝の光を反射して艶やかに光り、彼の特殊な金色の瞳は隣の男を見上げている。
視線の先には、まるで舞台から抜け出したような品のある長身の男がいた。
一見、二人とも気楽に会話しているだけの様に見えるが、一切の隙がない。どちらも只者ではない。
特に金色の瞳の青年は、この異常事態の中にあっても妙に浮世離れした雰囲気を纏っており、異様な存在感を放っていた。
(一般人、じゃない。……導守か?)
通常、導守は身バレを避けるために装備で顔や身体を全て隠す。それが彼は、堂々と素顔を晒しているではないか。
加えて、華奢でどこか虚弱さすら感じるようなその姿は、陸の抱く導守のイメージとは大きくかけ離れていた。
(学生?……いや、もっと若いか?)
そんなことを考えながらも、陸の足は自然と二人の方へと向かっていた。
どんな人物であれ、この状況下で現場に居続けるのは危険だ。関係者か否かに関わらず、声をかけておくのは当然の対応だった。
「……あまり……誤解を招くような発言は避けた方がいい」
静かだが芯のある声で言うと、銀紫の長髪の青年――久遠が、ふと顔を上げる。
「……は?」
その金色の瞳と間近で目が合い、陸は不意に、その特殊な輝きに思わず吸い込まれそうになった。
淡く光を宿した特殊な金色の眼、青白い肌、つんと筋の通った鼻梁に形の整った薄紅の唇、男性にしては細く薄い小ぶりな顎までが絶妙なバランスで配置されていて、瞬時に美しいと認識できてしまう顔だった。
不機嫌そうな表情でこちらを見ているはずなのに、なぜか視線を外せない。
アンニュイでどこか影を帯びた雰囲気には、大人びた色気が自然とにじみ出ていて――まるで幻想の中にいるような透明感を纏っている。
一瞬、息を呑みそうになった陸だったが、すぐに思考を切り替え、淡々と告げた。
「現場では一言が命取りにもなります。状況もまだ不明ですし、ここも安全とは言えません。今すぐ退避してください」
久遠は一瞬、きょとんとした顔で陸を見つめた。
しかしほんの数秒の沈黙ののち、何か思うところがあったのか、わざとらしく目を細め、小さく口角を上げる。
「……はーい、そーしまぁーす」
脱力したような調子で返事をすると、彼は片手をひらひらと振りながら立ち上がった。
名乗ることもなく、背を向けて歩き出す。
高嶺も静かに陸を一瞥しただけで、何も言わずに速やかに久遠の後を追った。
その短いやり取りにやや拍子抜けしつつ、陸はそのまま立ち去っていく二人の背中を、ただ静かに見送った。
***
【同日夕刻 ―― 陸の実家近くにて】
気がつけば、日がとっぷりと暮れていた。
明け方の救護活動を終えた後、陸はもう一件別の現場にも駆り出され、家路につく頃には、街はすでに夜の帳に包まれ始めていた。
溜まった疲労を感じつつも、黙々と歩みを進める。
小さな公園の前に差しかかると、街灯の下で子供たちがまだ名残惜しそうに遊び回っていた。笑い声を上げながら走り回る子どもたちと、その背を追って「そろそろ帰るよ」と声をかける親たち。
夕闇が一気に落ちてくる中で、手を引き、時には小走りで子供を追いかけるその姿には、どこか急き立てられるような切迫感が滲んでいた。
――まもなく、“トワイライト・アワー”が来る。
その時間帯は、すなわち“オーデ”の活性化を意味する。
道行く人々の足取りは速くなり、表情にはかすかな不安が色を差す。
「もうすぐ黒渡が出る」
「早く帰れ、トワイライトアワーになる前に」
そんな声が、誰ともなくぽつりぽつりと漏れ始める。行き交う人々は足早に家路を急ぎ、次々と家の扉が閉ざされていった。
“黒渡”――それは、導守たちに対して市民が使う俗称のひとつだった。
任務時、彼らは全身を覆う漆黒の装束をまとう。さらに彼らの護衛にあたるFANGもまた、同様に漆黒の軍装でその周囲を固める。
夜を裂くように現れ、無言で任務を遂行していく黒装束の集団。
その異質な光景を目の当たりにした人々が、ある種の畏怖とともに、いつしか彼らを“黒渡”と呼び始めたのだった。
たとえ彼らが、この街を守る歴とした大陸防衛戦線第四勢力として活躍しているのだとしても、「知らないもの」はどうしても人の心に恐怖を植えつける。
自衛官である陸ですら、導守やオーデについては未だ知らないことばかりだった。
ましてや市民の目からすれば、彼らはなおのこと得体の知れない存在だ。
加えて近ごろは、オーデの活性化に伴い、導守たちの出動頻度も格段に増えていた。
トワイライト・アワーすなわち夕刻から明け方にかけての時間帯には、オーデの“印”がより色濃く出現することから、街の各所で黒装束の導守たちを見かける機会が増えている。
そして、それが当たり前になると別の問題も浮上してきた。導守の装備を真似た犯罪者集団が各地で暗躍し始めていたのだ。
見た目が酷似していることから、善悪の判別がつきにくくなり、結果として“黒渡”という存在そのものが、“恐怖の象徴”として市民に刷り込まれつつあった。
こうした輩の台頭により、人々を脅威から守る導守に対する信頼は、皮肉にもその外見ゆえに少しずつ蝕まれていた。
一方で、“白冠”と呼ばれる存在についても、まことしやかに語られていた。
黒ではなく、白装束をまとう導守だ。
導守の中でも最上位に位置するとされる彼らだけは、通常の黒装束ではなく、白の装備を纏っているのだという。
しかし、その数は極めて少なく、実際に目撃した者もほとんどいない、都市伝説と変わらぬ扱いだった。
自衛官として日々救護にあたる陸でさえ、一度たりとも目にしたことがなかった。
正直、半信半疑、大方誰かの脚色だろう――そう思っていた。
だが――
ふと、明け方の救護活動の現場で出会った、あの青年の姿が脳裏をよぎる。
猫背に銀紫の長髪に金色の瞳、無造作でつかみどころのない雰囲気を纏いながら、あの場にまるで当たり前のような冷めた目をして座っていた彼だ。
あの時、陸の視界の端――彼の手元に、ほんのわずか、“白”を捉えた気がする。
ひょっとして、あれは――
陸の足が、一瞬だけ止まる。
雑踏のざわめきが遠のき、意識の焦点がゆっくりと内側へと引き込まれていく。
「……まさか、な」
自嘲気味に吐き出した言葉と共に、小さく息を吐きながら頭を振る。
所詮朧げな記憶だ。見間違い、気のせいだ。そもそもそんな噂の存在に、自分が出会うはずがない。
そう自分に言い聞かせながら、陸は少しだけ足を速めて、街灯が瞬き始める道を進んだ。
***
実家の近くまで戻ってくると、ふわりと漂ってきた出汁の香りが陸の鼻腔をくすぐった。
この香り――間違いなくうちから漂っているものだ。
先ほど兄から届いた「今日は鍋だよ」というメッセージを思い出し、懐かしさとともに胸の奥がほっと緩む。
見慣れたインターフォンを押すと、すぐに家の中からドタドタと駆け寄ってくる足音が聞こえた。
「はいはいはいはいはいー」
軽快な声とともに、勢いよく玄関のドアが開く。
開口一番、兄・海は期待に満ちた顔で陸を見つめながら言った。
「お餅、買ってきてくれた?」
陸は思わず小さく笑い、片手に提げていた袋をひょいと軽く持ち上げて見せる。
出汁の香りがいっそう濃くなり、玄関先に立つ陸を優しく包んだ。
「ほら、これ」
「せんきゅ」
海は嬉しそうに受け取りながら、満足げな顔で袋の中を覗き込む。そのまま両手で袋を大事そうに抱えながら、ホクホクした足取りで台所の方へと消えていった。
玄関を閉め、細い廊下を抜け、中戸を開けると、リビングがすぐに視界に入る。
明るすぎない照明の下、テレビの画面がチラチラと光を放っていた。
「ただいまー」
陸がそう声をかけると、ソファに座っていた母親がゆっくりと顔を上げた。
彼の姿を見た瞬間、母はすぐにテレビの音量を下げ、微笑を浮かべて彼の方へ向き直る。
「おかえり。お疲れ様ねぇ」
柔らかな微笑みが、陸を迎えた。
久しぶりに見る母親は、また一回り痩せたように見えたが、穏やかで明る気な表情は、安心感をもたらすものだった。
「お疲れ様ぁ」
陸も息を吐くように笑いながら、母の隣に腰を下ろす。
ソファのクッションが柔らかく沈み込み、身体から力が抜けていくのが分かった。
「最近、調子いいんだって?」
海からの連絡で、母の容態が安定していると聞いていた陸は、自然にそう声をかける。
母は口元に笑みを浮かべながら、肩をすくめた。
「まぁ、ぼちぼちね」
その返事とともに、母は話題を切り替えるように首を傾けた。
「それより、最近すごく忙しいんじゃない? ちょっと痩せた?」
そう言って、心配そうな目で息子の肩をパンパンと軽く叩く。その仕草に、陸は「まぁ、そうだな」と納得するしかなかった。
どのニュースチャンネルでもオーデの被害が報道されない日は無い。
自衛官である陸の任務も、以前より明らかに多忙になっていたのは事実だ。
「うん、まぁ……今日も朝一からザンミアで救護してた」
そう答えると、母はさらに心配を深めた様子で彼を見つめる。
その視線に押されるように、陸は少しだけ話を続けた。
「でも基本的に、俺の仕事は後処理とか怪我人の救護がメインだから。直接危険な目にあうことは、そうそうないよ」
言葉を選びながらそう伝えると、立ち上がって冷蔵庫へと向かった。
「ちょっとお茶もらうね」と言いながら麦茶のボトルを取り出し、グラスに注いで一気に飲み干す。
ひんやりとした液体が喉を滑り落ちていく感覚が心地よく、ようやく、帰ってきたという実感をもたらしてくれた。
空になったグラスを流しに置いたあと、陸は何の気なしに続きを話した。
「でも、今日の現場はちょっとひどかったな。たぶん、俺が経験した中ではわりと重めな方だったかもしんない。場所も街のど真ん中でさ、色々と条件が悪くて……」
背中に、母の視線がじっと注がれる。
「先輩が言ってたんだけど、地盤がいきなり波打つように揺れて、2メートルくらい一気に沈下したんだって。俺は直接見てないけど、そんなの、逃げようにも逃げられないよな」
母は眉を寄せ、静かに腕を組む。そして、小さく呟くように口を開いた。
「……ほんとに……そんなの、怖いよね」
その言葉に、陸は母の方へ目を向ける。
母は無意識のうちに、右手で左腕をさすっていた。それは、昔から変わらない、母が不安や恐怖を感じたときに出る癖だった。
「あ、そうだ。しばらくザンミアには行かない方がいいよ」
ふいに思い出したように、陸がリビングの向こうに声を投げる。
母ではなく、台所で鍋を覗き込んでいる海の背中へ向かってだった。海は仕事の関係で、その付近のエリアに頻繁に出向くのだ。
「いま交通規制もすごしいし、なんとなく近くだとまた何かあっても危ないしな」
「んー、だねだね」
気のない返事とともに、海は湯気の立つ鍋の中をじっと見つめ続けている。海は、陸の話より先程投入した餅が頃合いかの方がよほど気になる様子だった。
大きなウェリントン眼鏡は、湯気で完全に曇っている。もはや見えてるのか怪しいほどだ。
陸は肩をすくめ、再び母の方へ向き直る。
「病院も、今まで通りのとこだよね?」
母のかかりつけ医はザンミアとは反対方向にあることを知ってはいたが、念のための確認だった。
「そうそう」
母は頷きつつ、まだ左腕を無意識にさすっていた。
「でも……現場にいた人たち、怖かっただろうね」
ぽつりと、母が呟く。
遠い現場に思いを馳せる気持ちと、そうした現場へ日常的に急行させられる息子を案じる気持ちが入り混じる。
「まあ、今まで通りで大丈夫だよ。わりと前兆とかもあるみたいだし、絶対に避けられないってわけじゃないから。今日みたいなのは、そうそう起きるもんじゃないしさ……」
陸は、母親を安心させるようにできるだけ穏やかな声を心がけながらそう答えた。
しかし、自分で口にしたその一言をきっかけに、ふと脳裏にあの言葉が蘇る。
――救護活動の最中、あの青年が吐き捨てるように呟いていた言葉だ。
『……新しいパターンだなぁ。確かに、突然来るから避けられない分厄介……けどま、殺傷力は中途半端だ。怪我人はそれなりに出るが、致死率の高い案件じゃねぇ。
高く見積もってせいぜい“中の上”ってとこだろ。……ったく、これからもっとこういうのが増えるってのに、こんくらいでビビって業務放置されたんじゃ、こっちの身が持たねぇよ』
あの時は軽口のように聞こえたその言葉も、今思えば妙に重く、陸の中に響く。
もし、彼の言っていたことが事実なら、いま自分が母に告げた「大丈夫」は、ただの気休めに過ぎないのではないか。
――それにしても、あの余裕のある口ぶり、淡々とした分析……あれは間違いなく導守のそれだった。
加えてあの落ち着きは、彼が場数を踏んできた者であることを物語っていた。
(やっぱ、ありゃ……白冠だったのか?)
もしそうだとしたら――その彼が言うなら、今後、今日みたいな中~大規模のオーデ被害が頻発するという予測もほぼ確定に等しい。
胸の奥に、小さな棘のような違和感がこびりついて消えない。
陸はふと、思考の沼から顔を上げた。無意識に黙り込んでいたことに気づき、慌てて母の様子を窺う。
けれど彼女は、柔らかな笑みをたたえて陸を見ていた。
「今日は疲れたでしょう? お鍋食べて、ゆっくり休んでね」
そして、小さな声で続ける。
「仕事の話ばっかりさせちゃって、ごめんね」
その一言に、胸の奥がじんわりと温まった。
安心させるつもりが、逆に安心させられてしまってるなと、思わず苦笑いが漏れた。
「……ん。ありがと」
陸が短く返すと、母はうれしそうに目を細めた。
「はぁーい! できたよー!」
そのタイミングを待っていたかのように、海が満面の笑みで鍋を両手に抱えてリビングに入ってきた。ご機嫌な鼻歌交じりにテーブルへ鍋を置き、胸を張る。
「今日は海特製の鍋――題して“海鍋Part3~こんな夜には、海の幸&山の幸の偉大なる共演だ!~”だよん。あ、餅は一人一個ね!」
相変わらずのネーミングセンスを饒舌に披露している海の隣で、陸は箸や取り皿を手際よく配り始める。
「え、一個? いっぱい買ってきたやん」
陸の問いに、海は指を左右に振りながら、眼鏡の奥の目をいたずらっぽく光らせた。
「ノンノン。一気に入れたら、食べ頃を逃しちゃうでしょ。最初の一個を食べ終わったら、次のを入れんのよ」
その妙なこだわりに、陸は思わず吹き出す。兄は普段、食が細いくせに、こういう細やかなこだわりだけは一丁前だった。
陸の料理はいつもシンプルで、似たようなメニューや味付けになりがちだったが、海はその日の気分やテーマに合わせて、毎回様々なジャンルのものをつくっている。
そんな兄が実家にいてくれるおかげで、母も毎日いろんな料理を楽しめており、陸は心の中で密かに感謝していた。
「紹興酒、飲む人~?」
冷蔵庫を開けながら、海が片手をひらひらとさせながら言うと、「はーい!」と母が元気よく手を挙げる。
「俺はいいや。ってか、飲んでいいの?」
陸がつっこむと、母はまったく悪びれる様子もなく言い放った。
「一杯だけなら、逆に健康になるんだよ」
その理論どこから来たんだよと陸は苦笑している横で、海が母のグラスに自分のより少なめに紹興酒を注ぎ、そっと差し出す。
皆が席に着くと、海が手を合わせて言った。
「えーっと、じゃあ何に乾杯?」
「とりあえず、お疲れ様ってことでいいんじゃね」
陸がそう言いかけたとき――
「あっ!」
不意に母が、何かを思い出したように声を上げた。
「あれじゃん、海、アルカナにスカウトされたじゃん!」
「……えっ、マジ?」
陸は、聞いてないんだけど、とあからさまに驚きで目を見開きながら兄の方を見た。
“アルカナ”――ユートピアに存在する最先端の研究所だ。
世界の頭脳が集結する、国家機密の要とも言える場所。民間人の耳に届く情報でさえ氷山の一角であり、内部の詳細は政府高官でさえ全容を掴めないと言われている。
ときに軍事情報よりも厳重に取り扱われる情報ばかりが飛び交うアルカナには、選ばれし者しか足を踏み入れられない――まさに、世界中の研究者の夢と言われているような場所だ。
(そんな場所に……スカウト?!)
陸の脳みそは、理解と衝撃のはざまで揺れている。
「……あー! そうだった!」
しかし当の本人はケロッとした顔で、手をぽんと打った。
「……言うの忘れてたぁ」
呆れるほどの天然っぷりに、陸は頭を抱える。
「……やばぁ」
陸は様々な感情が混ざり合い、語彙力が完全に蒸発していた。
陸がぽかんと口を開けていると、いつの間にか席を立っていた母が、何かを手にして戻ってきた。
白く分厚く、滑らかな手触りのそれは、まるで高精度なデータカードのようだった。差し出されたそれを見て、陸は一瞬だけ目を見開く。
「ほら見て、これが届いたのよ。すごいでしょ?」
母は「本物だよねぇ」と感心したように声を弾ませながら、カードの端に刻まれた“Arcana”の金文字をなぞった。
中央には、透かしのように浮かび上がる指紋模様と、英語表記の兄のフルネーム。
それ以外には、何も書かれていない。
「……何これ……」
あまりに情報量の少ない見慣れないフォーマットに戸惑いながら、陸はそのカードをそっと撫でた。
しかし使い方がわからず、ただ指を滑らせるばかりで、どうにも要領を得ない。
「ちょっと貸して」
隣から海が手を伸ばしてきた。
「こうするんだよ」
彼は慣れた手つきでカードを持ち、その中央にある指紋模様に、そっと自分の指を重ねた。
すると――
カードの上空に、淡い光をまとった文字列がゆらりと現れる。
「おぉ……!」
思わず声が漏れる。それを見た海は得意げに肩をすくめて、「すごくない?」と笑った。
浮かび上がる文字はすべて英語。瞬時に意味を掴むには少し時間がかかったが、陸はじっくりと目で追い、一文ずつ理解していった。
そこには、海の研究成果を高く評価したクロノスからのスカウトメッセージが記されていた。
『アルカナへ来て、我々の更なる研究に力を貸してほしい』――そんな趣旨が淡々と記されている。
読み終えるのと同時に、海が指を離すと、宙の文字はふっと消え、手元には再びただのカードだけが残った。
「……やば……」
またしても、陸の口から漏れたのはその一言だった。
「やばいやろ~」
海は軽く笑う。
兄が、あの“アルカナ”にスカウトされるなんて――。
まるで夢物語のような話だ。
海はまだ30歳で、研究者としては若い部類に入る。にもかかわらず、何の後ろ盾もなく、国家機密級の研究所から声がかかるなんて――まさにエリート以外の言葉では形容しがたい偉業だった。
「え、いつから行くの?」
頭に浮かぶ疑問が多すぎて、陸はとりあえず口をついて出る質問をぶつけていく。
「えっとねぇ……来週から」
「来週!? 早っ! いやそれで忘れてたとか……あり得ないだろ」
即座にツッコミを入れる陸。そのやりとりに、母が楽しそうに笑う。
一方の海は、「ね~!」と気楽な調子で肩をすくめてから、「とりあえず乾杯しよ」とグラスを掲げた。コツンと陸と母親のグラスに自分のを合わせると、嬉しそうに紹興酒を口に含む。
「……でもさ」
グラスを置いたあと、彼の表情が少しだけ真剣なものになる。
「正直、めちゃくちゃ楽しみだけど……ひとつだけ気がかりがあって」
そう言って、海は母に視線を向けた。
「アルカナに行ったら、研究漬けの毎日になるから、滅多に帰って来られなくなるんだよね。だからこの家にマミーを一人にしちゃうのだけが、気になってて」
「マミーも寂しいけど……でも我慢するよ。だってこんなすごいこと、滅多にないもん」
その様子を見ていた陸は口を開いた。
「……じゃあ、俺がもうちょいこっちに顔出すようにするよ」
陸の頭には母の持病のことがよぎっていた。
兄が離れるなら、これからは代わりに自分が支えなくては――そんな思いが、自然に胸に湧き上がる。
「いいねぇ、嬉しい。でも無理はしないでね? お仕事あるんだから」
母は陸の方を見ながら優しく笑った。
一方の海はそれを聞いて、何やら唐突に声を弾ませる。
「じゃあさ!」
その笑い方には、何か企みのある時の独特のテンションがあった。
「お兄ちゃんのハーブガーデン、たまに手入れしといてくれると嬉しいな~」
自分のことを「お兄ちゃん」と呼ぶ時は、だいたいお願いごとがある時だ。
陸は一瞬で察して、あきれたように眉をひそめる。
「マミーには庭仕事はちょっとしんどいからさ、いっそ畳もうかとも思ったけど……陸が見てくれるならまだ残しておけるわ!
よかった~、あの子たち、これからもっと元気になるとこだったんだよね。ありがと!」
返事も聞かずに当然の様にどんどん話を進める兄に、陸は軽くため息をついた。
「……けどあれ育てても、帰ってこないなら食べられないじゃん。アルカナに送ればいいの?」
「いや、それがさ――送付物は一切受け取りNGなんだって」
引き出しをガサゴソ漁りながら、海が答える。
「せっかく送ってもらっても、途中で破棄されちゃうらしいから、こっちでマミーと一緒に食べてくれていいよ。……あれ~、この辺にあのコたちの育て方まとめたんだけどなぁ。どこ入れたっけなぁ……」
どうやらハーブの育て方マニュアルを探しているらしい。
一方の陸は、一連の話の衝撃で、気づけば一時的に食欲が飛んでしまっていた。
それでも、鍋が冷めないうちにと、なんとなく手元の皿に好きな具材を取り分けるが、今は食欲よりも新たな始まりの予感が静かに胸を満たしていた。
そうこうしていると、ダイニングの引き出しをあちこち探っている海の声が、再びテーブルの向こうから飛んできた。
「アルカナに入ったら、個人端末も取り上げられるんだよ。研究室のPCも、最初から指定された相手にしかメール送れない仕様でさ。外部との通信は、家族でも基本的に全部禁止なんだって」
「……なんだそれ、完全に隔離じゃん」
「まぁ、セキュリティの観点で仕方ないらしいのよ。でも数ヶ月に一度くらいのスパンで家族宛の手紙が送れるらしい。だいぶ一方的なやり取りにはなっちゃうけど、こっちから近況報告の連絡はできるから、それは必ず送るようにする。あ、でも宛先複数に出来ないから、マミーの居るこの家に届くことにするけど」
だから陸はごめんだけど見に来てねと、海は付け加えた。
「あぁ、いや、それはいいけど……なんか、すごい厳重管理だな、アルカナって」
陸は少し呆れたように口を尖らせる。
まるで監獄じゃないか――そう思ったものの、それは今から夢のような場所へ旅立とうとしている兄の晴れ舞台に水を差す発言な気がして、胸の内で飲み込んだ。
「ね。俺もそこまでするかって、正直びっくりしてるんだよね」
そう言いながらもどこか誇らしげな兄の横顔を、陸は黙って見つめる。
「まぁでも、アルカナって世界中の科学技術を集結させた、人類の英知そのものを詰め込んだ場所だからさ。もしその情報がひとつでも外に漏れたら、世界の治安も経済も、簡単にひっくり返るって言われてるくらいだから」
陸は話を聞きながら、胸の奥に小さな不安が灯っていくのを感じた。
――そんな場所に、一度足を踏み入れた人間が、無事に戻ってこられるのだろうか。
戻れるとして、それはいつになるのだろうか。
けれど、それでも、これは兄にとって誇るべき機会であり、折角掴んだ夢への切符なのだ。
陸は、自分の中に芽生える邪念や警戒をそっと叱りつけた。今は、余計なことを言うときじゃない。
海は、元々陸とはまったく正反対の人間だった。
虚弱な身体でありながら、なぜか冒険心と好奇心には満ちていて、挑戦を恐れない。胸の奥にその焔が灯っている限り、彼はどこまでも前へと進み続けることができるだろう。陸には到底理解できないような世界にも、彼は迷わず飛び込む。
それが、海という人間だった。
「ねぇ、海~とりあえずご飯食べよ。お鍋冷めちゃうよ~」
母の能天気な声が、リビングに響いた。
ふと見ると、母の手元のグラスは既に空。今度はタコ串をつまみに、ちゃっかりビールまで開けている。
(だから……そんなに飲んで大丈夫なのかよ)
陸は心の中で小さくツッコミを入れる。探し物を諦めきれない様子だった海も、渋々と席へ戻ってきた。
陸はポケットから端末を取り出し、スケジュールを確認しながら声をかける。
「出発って、来週のいつ? 見送りに来るよ」
「えっ! 来てくれるの?」
ぱぁっと海の顔が明るくなる。その笑顔はいつにも増して無邪気で、母もその様子を見て、やわらかく目を細めた。
そして三人は、家族水入らずで久しぶりに、ゆっくりと鍋を囲んだ。笑い合い、時間を忘れて他愛もない話をしあう。
陸はオーデ騒動の余波で胸の奥が揺れていたが、今は深く考えぬようにしてやり過ごす。
静かであたたかく、心が満たされるようなこの空間に居ると、まるで刻一刻と迫る別れのときなど本当に忘れ去ってしまえるようだった。




